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鼻歌で遠くへ



 便所の電気がついていた。個室の中で虫が二匹せわしく飛んでいて、手でわさっわさっと払いのける。蛍光灯の殺伐とした明かりが便器の窪みの水面に反射している。外でガガガガガと押し寄せてくる音。トラックがきた。水の塊のような湿気を、畑を耕すブルドーザーのように押し出しているに違いない。ピーピー、ピー、とバックのメロディが鳴る。
 離れた場所にあるトイレから喫茶店に戻ってくる。グラスの底が果物の絞り器みたいな形をしていて、持ち上げるとアスタリスク型に水滴がテーブルに溜まっている。口までグラスを運んで飲むと、履いているジーンズの太腿に水滴が滴り落ちて大きな跡を二つ残し、弾丸が撃ち抜かれたみたいにその部分が黒くなった。
 喫茶店を出て、陸橋の階段の下のスペースに停めてある自転車が、今日は奥の方に停めていて出口を他の自転車が防ぐかたちで駐輪してあるから、しばらく自転車を出すのに苦労した。駐輪スペースの奥に、タバコを吸っているタクシー運転手。全然気がつかなかった。階段裏側の凸凹で顔は隠れていて、首から下だけが数字の「4」みたいな形で片手にタバコを持っているのが見える。その影に気がつき、自転車を出すのにモタモタしていると邪魔だなと思って、やっとのことで出てくると、ふいに鼻がムズムズしてかなり大きいくしゃみをブシュンッ! としてしまった。自転車にまたがり階段に視線を向けると、タクシー運転手の顔面が露わになっていた。煙を吐きながらこちらを見ている。何か口がモゴモゴ動いていて、それは愚痴を言っているのか? まさか自分が言われているわけじゃないよなと心配になりながらも、まあいいやと自転車を漕ぎだした。

 ヤバくなーい? 時を止めたような技術、と英語の部屋から聞こえた。自宅で母がホームティーチャーをしている英会話スクールの生徒だ。なになに兄弟かわからん! と叫んでる。TT兄弟からの派生? 英語のレッスンだからアルファベットの略語が授業の要素としてあって、それがTT兄弟につながった、とか。 やったー! と甲高い声。
 折りたたみアンブレーラ、と子供。レッスンが終わり玄関で傘を手に取った様子。折りたたみアンブレーラではなく、 folding umbrella. と母が教師の発音で訂正。折りたためるよーかわいいでしょー、と無邪気な子供。
 余裕だと思っていたけど準備していたら時間がギリギリになった。傘を持って、玄関から全力で走ってバス停。
 向こうに見えているバスが到着するまでの数秒の間にマスクをつけた。ぷしゃーと停車。扉が開く。脚を持ち上げて中へ入っていく。ICカードを収納している合皮の手帳型ケースを読み取り機にタッチして合図の音が鳴る。マスクを外してしばらく涼みたいので、他の人から見えない一番前の席によじ登って座る。ぐーんとバスが出発する。中学のときに通っていた塾がある辺りをバスが通過する。車窓に、エナメルバックを地面に下ろして、蟻を踏み潰すみたいにその場を一人で暇そうにしている中学生が見えた。中学生にしては背は高い。高校生かもしれない。髪型がお洒落をしているようにも見える。でも中学生だと思う。

 駅が大きいから苦労してトイレを探す。あった。入ろうとするとき、コスプレみたいな格好のピンク色の髪をした女子が隣から出てきて目が合った。




 お腹が空いて喉が渇いたので、さっきいびきをかいて寝ていた彼に、外に出ることを伝えて、傘なしで小雨のなかコンビニに買い出しに行った。部屋の大きな窓から真下に見えた神社が、今度は等身大で自分の前にある。普段お酒を飲まないからアルコールのせいなのかわからないが無性にスポーツドリンクを飲みたくなっていた。ポカリを手に取る。冷蔵ケースの前を、うろうろして通話をしながら買い物している刺青の男がいた。
 ポカリとカロリーメイトをレジに持って行き、それが済むとそそくさと店を出た。
 ホテルに戻りエレベーターで上へ行こうとするが、ボタンを押しても全く動かない。あれ? と思い、しばらく何度か試行したけど無理で、いったん出ることにしたら、扉が開いたところにさっきの刺青男が立っていて目が合い、入れ違いに中へ入っていった。
 エレベーターは、カードキーをかざしてからボタンを押すと移動する仕組みになっていたのだった。押した瞬間に動いた。瞬間。速度がすごい。身体が物理的に歪められ圧縮するんじゃないかというくらい高速。
 部屋番号がわからなくて迷子になりかけた。カードキーにも番号は書いていないし、深夜だし、スマホも部屋に置いてきた。一度フロントの階に降りてみたけど明かりが半分だけつけてある感じでスタッフらしき人影はなかった。取り返しがつかないことになったかと思った。勘でドアを開けるとそこが自分たちの部屋だったので、ほっとした。迷子になりかけてちょっとスリルのある時間だったと興奮気味に彼に話すと、彼はむにゃむにゃと言い、よく聞こえなくて、なんて言っているのかを時差で組み立てる。部屋番号をちゃんと伝えておくという気が回らなくてどうこう、みたいなことで、「気が回らなくて」と確かに言っていて、その言葉が予想外だった。いや普通に今のちょっとしたスリルを共有したかっただけだし、「気が回らなくて」ってそういう意識でいたのかと初めて気がつく。今まで、ちょっと勢いに乗って自分がふざけてみたりしたときでも常にそういう一瞬の間が向こうにあったのだと思うと恥ずかしくなる。遠くから見守るようなそういう意識で見られていたわけだ。気が回らなくて……そこまで考える必要があるのかと疑問だった。子供扱いされていると感じた。

 ちょっとした期待、何かを、横目に通り過ぎようとしている。通り過ぎる。まあいいやで。まあいいや、いや、いいのか? なんか——
 でもなんか、ちゃんとしてないんかな。自分が。
 そこがちゃんとできていたら、「むにゃむにゃ」の壁を破ったのだろうな。と思う。むにゃむにゃの肉壁からむにっと表情が現れる。表情が喋る。
 ——迷子になりかけた
 それで、
 ——冒険だったね
 とか言われたかったような言葉が彼から返ってくる。返ってきて、ここで一つの共有された時間があったのかもなと。そう思う。
 でもいったい何をちゃんとすればいいのか。どこかずれているにしてもそれがどこなのか、自分にはわからなかった。
 ときどき、日頃の端々で、自分が本流にいないと思うことがある。それも大胆に外れているとかではなくて、ごく薄っすらと本流から浮いている。と感じる。

 スーツに着替えると彼は仕事に行った。ゆっくり寝なよ、十一時までだから、と言って出た。
 アラームをかけてもう一度寝て、起きるとまだ寝足りなくてだるい。朝、というかもうすぐ昼になる。雨、窓の水滴。空のペットボトル。冷房の音。オートロック。床のふさふさ。
 チェックアウトするとき。荷物を片付けて部屋を出て、エレベーターで下に行く。すでに乗っている人がいて、若い男女で、格好が今ふうの、イキってるなとも思えるが同時に憧れもある若者で、キャリーケースを持っている。扉が開いてお辞儀を一回してから乗ったけど、お辞儀が深すぎたかなと思った。あんまり真面目な感じじゃないほうがいい。というかお辞儀なんてする必要がない。女性はカーディガンを羽織っていた。
 フロントの階に着いて、でもチェックアウトは自動精算機ですることになっている。そこに消毒液のボトルがあったので手に消毒をした。さっきの若い二人は消毒をせずにワッと入ってきて機械を操作した。そうか、ボトルがあったら消毒をしなきゃいけないとか、そんな必要性はバカげている。と、この二人を見て勉強のメモをする気持ちになる。女性は鼻歌を歌っている。男の腕を、コアラのようにがっしり抱えながら鼻歌を歌っている。鼻歌。
 自分には出せないと思えるこの裏声。遠くへ。この裏声で遠くへ、自分もどこか遠くへ、本流に乗って、ロケットみたいに太くて丈夫なものを抱えて、鼻歌のように軽く突き抜けたい。変わりたい。自分を変えたいと強く思う。
 別のエレベーターで今度は一階に降りる。既に女性が一人エレベーターの前に並んでいた。花柄か何かが模様のワンピース。髪は栗色で、髪飾りで後ろを留めている。さっきの若い二人も中に乗ってきた。無言のエレベーターが動き出し、降下する。自分の服装や見た目の雰囲気がこのホテルと不釣り合いだと感じていた。一緒に乗っているこの人たちからどう思われているのか気になる。気になんてしていないのかもしれないが。

 ホテルの下のカフェで朝食にする。
 ジャーマンドッグを食べ終えて、少し文庫本の小説を読むがすぐやめてそれをテーブルの隅にやると、腕であぐらをかくようにしてそこに顔をうずめ、まだちょっと眠いからしばらくこうしておくことにした。あくびが出た。

 突然、おわあおわあおわあおわあ
 と耳の近くに振動があって、びっくりして、すぐ人だとわかり、彼が戻ってきたのかとも思いながら顔を上げると、全然知らない会社員っぽい男の背中が遠ざかっていくのが視界に見えた。それで目覚めた。すっかり眠っていたらしい。で、
 今のは何?
 一瞬何のことかさっぱりわからなかったが、ああ寝ていたから注意されたんだなとわかって、残りのアイスコーヒーを飲んで、出ることにした。
 なんかモヤモヤする。怒られた? 何故怒られなきゃいけないのか。いや何を言われたのかわからないし、怒っていたのかもわからない。
 自動ドアを抜けて外に出ると駅の方へ歩いていく。雨は止んでいる。その道沿いの、のっぺりと続く建物の壁の凹んでいる窪みで、地べたにしゃがみこんでパソコンを膝の上に開いてカタカタと打っている会社員っぽい中年の男性が視界に入った。さっき注意してきたやつだとすぐにわかった。
 迷ったがさっきのことを確かめることにして、近寄った。
 声を高めにして、オープンな感じを心掛け、
「すいません、あの、さっき何て言ったんですか?」
 と聞いた。え? と男はパソコンの手を止めて、何のことか本当にわかっていない様子で、やっぱりこれは人違いかもしれないと思った。それに、あの後ろ姿がこの男だとしても、実際に耳元で何か言ったのかどうかは定かでないし、ただ横を通り過ぎたのをちょうど自分が顔を上げたときに視界に入っていてそれを見ただけなのかもしれない。だから、
「あ、そうですか」
 と穏やかに、語尾を空に蒸発させるように言うと、一礼して自分は駅の方へ再び歩き始めた。
 湿気、雨上がりの光。これから電車に乗って、家に着いてもまだいつもなら喫茶店に出かけるより早い時間なのか。

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