見出し画像

「剣を学ばずに既に剣の師範」と柳生但馬守

 徳川家光の指南役となった但馬守の元に、ある武士が「御指南願いたい」とやって来た。但馬守は武士を見ると、指南を断った。
「そこ元は既に、剣の奥義を会得されておられる。どちらの流派をお納めでござるか」
「それがしは、剣は一度も習ったことはござらぬ」
「そうは申されるが、どの流派でござるか」
「まことに剣は習ったことはござらぬ。強いてあげれば、幼き頃から死を恐れぬ心を持ちたいと常々思って生きて参ったことでござります」
「それです。剣の奥義は死を恐れぬことです。そなたは、剣を学ばずして剣の奥義を会得されておるのです。納得いたしました」
 これは、鈴木大拙の「禅と日本文化」の一節の要約である。

 武士が四六時中、死の恐怖を克服しようと常に思索を続けていた。その事は剣の奥義にもつながっていく。禅の教えは「生と死を無差別に扱う」教えであり、「人を生死の絆から解こうとする」ものである。ゆえに、常に生死と背中合わせで生きている武士にとって、禅の教えは重要な拠り所となっていたのだろ。

 剣と同じように、禅は絵画においても深く説いている。禅は、対象物を観察するとき、その生命にまで入り込み、その対象物の心を把握するという。禅における絵を描くということは、それと同じように描こうとするモノの心を描き出すことが肝要と解いている。まさに水墨画が見る者を魅了するのは、絵を通して心に訴えてくるからであろう。

 禅は、禅が生まれた中国以上に水墨画はおろか、日本人の生活全般に影響を及ぼした、と言われている。

 禅の僧侶の中で絵を専門にしている僧侶がいた。禅の教えを絵に表現する僧侶である。絵を描くときに重要なのは、その対象物の命を描くことであると解く。水墨画で有名な雪舟も、禅僧であった。

 長谷川等伯は、利休と知り合うことで禅の臨済宗の大本山大徳寺の禅僧と交流を持った。そして、彼らを通して、禅の教えを絵画の中に取り込んでいったことであろう。しかも、臨済宗は公家や武家の間で広がって行った。そのことは等伯の絵師として進む方向に、多くの影響を及ぼしたと考えられる。

創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。