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「風神雷神図屏風」は、友の角倉素庵への鎮魂歌だった

 本阿弥光悦の指導のもとで作られた豪華物語の本である「嵯峨本」。木活字が使われていたり、装丁に雲母が使われていたりと意匠的にも凝った作りになっている。
 その本の挿絵は俵屋宗達を筆頭にした絵屋の俵屋が手掛けている。そして、文字を請け負ったのは本阿弥光悦と言われる。その彼を手伝って、同じく文字を請け負った人物として角倉素庵の名が上げられている。
 角倉素庵とは、当時の京の豪商である角倉了以の子息である。しかし、成長してらい病になり家を出て一人、庵で生活する。家を出た後も書道や和歌についての資料をまとめる作業を、彼は続けていた。
 寛永12年(1635年)、素庵は隠遁生活を続ける中で、ひっそりと世を去った。彼の友人であり数少ない理解者であった俵屋宗達は、豪商の打它公軌(うだきんのり)の協力を得て、寛永16年(1639年)「風神雷神図屏風」を完成させ、建仁寺派の妙光寺の再興を記念して奉納された。
 この打它公軌は、江戸時代初期の敦賀の豪商・打它宗貞の息子である。打它宗貞は、飛騨高山の城主・金森長近のもとで鉱山奉行として活躍した。その後、慶長13年(1608)に敦賀にて敦賀代官を務める。その息子である打它公軌は京都で大名貸しをして富を築いた。和歌の師匠で豊臣秀吉の義甥にあたる木下長嘯子を助けて歌集『挙白集』を編さん。そして、俵屋宗達筆に「風神雷神図屏風」を発注したと伝わる歌人である。
 素庵への鎮魂歌である事を裏付ける証の一つとして上げられているのが、「雷神の白い肌」である。らい病患者の一症状に肌が白くなる症状がある。故に、雷神を素庵に見立てたと考えられるらしい。対する風神は青い肌で、宗達本人であるという。
 この「雷神、角倉素庵説」は「宗達絵画の解釈学 『風神雷神図屏風』の雷神はなぜ白いのか 日本文化 私の最新講義」と言う本の著者である林進氏が提唱している。考えられなくもない。宗達の人間性の一面を表している話である。
 屏風の画面で風神は、雷神を見ている。一方の雷神は下界を見ている。己の事はさて置き、後世のために資料編纂に尽力する友を思う気持ちが表されている、と見れないこともない。


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