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夢幻能 業平の装束を着て

 ここしばらく、心の旅の後遺症を引きづりながらも、茶道のお稽古の「茶杓の銘」を探す作業だけは続けている。どれだけ気力が失せても、そんな時ほど茶道の先生の、
「カゲロウさん、こちらへ。あなたはねっ……」
 と、叱咤激励する時のお顔だけは、時を選ばず現れては消えて行く。先生の存在が私の中で、とうとうここまで来たのかと感慨深いものを感じる。
 そんなことで、いかに心が折れている時でも最近は、濃茶の「お茶杓の銘」のために「漢詩」のページを開くようになった。そんなおり、一片の詩に出会った。杜甫でも李白でも白楽天でもない。唐の時代に生きた劉廷芝(りゅうていし)という詩人の「代悲白頭翁」である。その一部抜粋をここに上げる。
(前略)
今年 花落ちて顔色改まり
明年花開いてまた誰かある
(中略)
年々歳々 花相似たり
歳々年々 人同じからず
(中略)
此の翁の白頭 真に憐むべし
これ昔 紅顔の美少年

「顔色改まり」は女性の容色が年ごとに衰えることを意味し、「また誰かある」は誰が健在でいるだろうかと言う意味。そして、花は毎年あまり変わらないけれども人は年々、変わっていく。最後に、華やかな生活を楽しんだかつての美少年が、今は白髪頭の老いの姿を晒している、という雰囲気の漢詩である。
 まさに此の一片の詩は今の私の姿、そのものを表してあまりあるくらいである。
 しかし、濃茶のお茶杓の銘にするには、どの言葉がいいのか思案した。結果選んだのは、「歳々年々」から取った「歳年」にしようと決めた。
 そんな折、9月から始めようと思っている「日本伝統文化検定協会」からのメールマガジンが届いた。このメールでは、能楽の出し物「井筒」は、能の中ではどのようなジャンルに分類されるか、と言う質問が提示されていた。調べると、能の「井筒」は夢幻能と言われるジャンル。夢か現かという幻想の世界で舞台が進んでいくことからである。
 当然、この演目は伊勢物語の「筒井筒」が元である。幼い頃に井戸の周りで背比べをしていた男女が大きくなって惹かれあい、結ばれるという話。さらに能の「筒井」ては、伊勢物語のモチーフになっている男性、在原業平夫妻で構成されている。妻の霊が夫の業平の冠、衣装を付けて井戸に映る業平の格好をした自分を見て、夫を忍ぶという話がメインである。
 現実の話ではなくファンタジーであることから「夢幻能」と、分類されている。
 そんな話をネットで読みながら思った。
 故人を偲んで茶を点てて、その霊に献茶する。その時にボンヤリと故人の姿が浮かび上がってくる。
 夜の闇に蝋燭の明かりを頼みに行われる茶事、「夜咄」にありそうな話である。
 さしづめ「夢幻茶」とでも名付けようか。
 夏の世の「夜咄」の一席でした。


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