【4】神奈川4線区踏破の旅へ

 1980(昭和55)年11月30日の「山手線踏破」を成功させたことは、自信につながった。翌週の12月6日には赤羽線池袋〜赤羽間を踏破。年末の12月26日には、武蔵野線府中本町〜西船橋間を踏破した。府中本町、西船橋のどちらも、全く行ったことのない土地だったが、事前にたてたスケジュール通りに乗車し、立川駅、府中本町駅、西船橋駅の各駅から自宅に電話した。電車賃は小遣いでまかない、乗り換え駅ではちゃんと電話をする。約束をしっかり守り、スケジュール通りに乗れる自分は、東京近郊であれば、もうどこにでも行ける気がした。

 当時は、スマホどころかインターネットも存在しない時代だ。乗換案内などという便利なものは存在しなかった。市販の時刻表にも国電区間の時刻は早朝・深夜しか載っておらず、日中は「3〜10分毎」とだけ記載されていた。

 国電区間では、正確な電車の時刻はわからない。そこで、所要時間と運転間隔から、だいたいのスケジュールを概算した。

 例えば、中野駅から立川駅を経由して南武線で川崎駅へ行く場合。時刻表には、中央線快速電車の朝9時台の運転間隔は「2〜5分間隔」とある。中野駅に朝9時に着くと仮定すれば、遅くとも9時05分には電車に乗れる計算だ。立川までは概ね33分。9時38分頃に着くはずだ。一方南武線は、稲城長沼〜立川間の運転間隔が「15〜20分毎」とあるので、9時38分の20分後、9時58分には乗れるだろう。川崎までは56分。10時54分頃までには、川崎駅に到着できると計算できる。

 スマホのない時代、国電の乗車スケジュールは、こんな風に立てていた。

 さて、武蔵野線のような長大路線すら簡単に踏破できた自分である。これだけ経験を積めば、もっとたくさんの路線を一度に踏破することもできるはずだ。1980年の年末、僕は時刻表を読みふけり、計画を練った。

 当時は、まだ中央線に新宿始発の中距離電車が設定されていた。新宿7時10分発の甲府行き531Mで立川へ行き、南武線に乗り換えて川崎に出る。尻手に一駅戻って、南武線浜川崎支線で浜川崎へ。これで南武線踏破だ。ここから、扇町、大川、海芝浦とまわって鶴見線を踏破。さらに東神奈川に出て横浜線を踏破し、八王子から橋本へ戻って相模線にまわると、今は廃止された寒川〜西寒川間の支線にも乗れて相模線踏破となる。茅ヶ崎から東京に戻り、中央線で中野へ。1日で南武線、鶴見線、横浜線、相模線の4線区を踏破できるプランだった。

 当時の南武線は、立川側が日中は20分間隔と電車が少なく、鶴見線は今と違って昼間も電車があったものの、支線は20〜40分毎の運行だった。相模線西寒川支線に至っては、朝8時台の次は16時台まで列車がなく、選択肢がなかった。朝7時前に中野駅を出発し、帰ってくるのは18時半頃。小学3年生にとっては、1日がかりの大冒険だった。

 1981(昭和56)年1月。おそらく1月4日頃だったと思う。早朝6時すぎに家を出て、中野駅から出発した。この日は、クラスメイトでやはり電車好きのサクマくんも一緒だった。

 新宿駅できっぷを買い直し、甲府行き電車で出発。立川駅の売店で、いなり寿司を買った。朝が早かったので、朝食をちゃんと食べていなかったのだ。鶴見線内では食事を買うことはできそうもなく、当時駅弁を販売していた立川駅で確保した。

 いなり寿司は、鶴見線内での乗り換え時間に食べようと思っていたのだが、正月の南武線はガラガラ。8時を過ぎてお腹が空いてきた。ロングシートで行儀が悪いとは思ったが、今のうちに食べてしまおう。僕たちは、車両の一番端の席に座り、包みを開けた。ところが、分倍河原の辺りからだったか、まもなく車内が混み始め、寿司を食べられるような雰囲気ではなくなってしまった。

 当時の南武線は、101系電車を使用していた。101系は、妻面、つまり隣の車両と向かい合う部分の窓下に、小さなスペースがあった。少しはみ出すものの、小ぶりな弁当箱ならなんとか置けるくらいのスペースだ。ここに、僕はいなり寿司の折を置いた。

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