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村上霽月から、雷公(森田雷死久)にエール!
(わたしの)父祖の地・・・伊予市「唐川」・・・松山の南に稜線を描く、障子山の麓にひらけた、この山間地には、中世以降、近代に至るまで、興味深いエピソードが、たくさんあり、そのきっかけは、くだんの偵察機「彩雲」ですが、
それから歴史を遡ると、和田伝の農村小説「ここに泉涌く」であったり、土佐・長宗我部との合戦に、太平記の宝剣、さらには、神話時代〜神功皇后の伝説など、
まあ、枚挙にいとまない、というか、こうした文化的な話だけでなく、先日、はからずも、50年ぶりに日の目を、あてることになった「伊予砥」(to facebook)」や、エヒメの「果樹園芸」の発展を担った先人など、経済的な話もあって、
そんな、文化と経済のクロスするところに、現れたのが、俳人・森田雷死久〜
その中で、どうにも、疑問であったのが、
雷死久という俳号の由来である、一句
「雷公の死して久しき旱(ひでり)かな」
なんとなく、自作の句かな? と、思っていたのだが、句集を見ても、この句は、載ってない・・・一体、誰が詠んだ句なのか?
と、疑問だったのが、ひょんなことで、謎が、解けた。
伊豫市歴史文化の会が発行する会誌に「伊予市の先人100人」というコーナーがあり、そこに、森田雷死久が、紹介されてて、急ぎ、読んでみると
「(森田は)一時俳句の上で行詰まり、俳壇から遠ざかった・・・このとき、村上霽月翁は、彼の天分を惜しみ、手紙を送って復活を望み、その末尾に、【雷公の死して久しき旱哉(ひでりかな)】の句を記した。この激励に発奮して変えた俳号が【雷死久】である。」
そうか・・・この「雷死久」という三文字、ユニークな俳号は、村上霽月により、命名されたのか〜
(この記述だけでは、霽月の句なのか、なんなのか・・・詳細不明につき、その典拠は、捜索中です)
★村上霽月(せいげつ)(1869~1946)
俳人。実業家。西垣生村の出身。本名、半太郎。愛媛県第一中学校(現、松山東高)で学んでいたところ、同校が廃校となったため上京、共立学校(現、開成学園)に入学。翌年、第一高等学校(現、東京大学教養部)に入るが、叔父の急死を受け退学・・・帰郷し、家業の「今出絣株式会社」(伊予がすり)の若き社長に。
俳句は、正岡子規の指導を受け、子規を通じ、夏目漱石とも親しくなった(3人は、ほぼ同じ年齢)。漢詩からの感興を俳句で表現する「転和吟」を創始。
実業家として、銀行や、信用組合連合会を設立し、経済界でも活躍、昭和恐慌では責任を負い、私財を投げ出すなど、謹厳実直な人であった、そう。
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なぜまた、この村上霽月に、わたくし、反応するかというと、この俳人&実業家・・・生まれは、松山の垣生(はぶ)と言って、ここは、わたしの母方の実家があるところ。
よく遊びに行った、祖父母の家は、この村上霽月の邸宅があるところより、少し手前で、母方の一族の墓は、霽月の邸宅の裏隣りにあるから「ああ、このあたり・・・よく通ったところだな」と。
余戸から垣生にむかうルート(文末の地図を参照)は、わたし幼少期、祖父母宅に遊びに行ったときの道筋であり、明治期には、子規や漱石が、霽月の邸宅を訪ね、中世には【菅原道真】が葦を分けて「通りゃんせ」した、道筋なのである。
海に近く、港があり、垣生の中でも、上記ルートのどんつきあたりを「今出(いまづ)」というが、由来は、その菅原道真が太宰府に左遷されるとき、ここに立ち寄り、「今から出発しますよ〜」で、「今出(いまづ)」・・・そんなことを先年、亡くなった伯父が、語ってくれたこと思い出せば、
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そうか・・・村上霽月の手紙にあったという一句
「雷公の死して久しき旱(ひでり)かな」
ここに、唐突に出てくる「雷公」の背景も、俄然、見えてくる。
雷公とは、天神様、つまり、菅原道真・・・
森田(雷死久)の再起復活を、菅原道真の「今出(いまづ)」に重ねたのであろう、そんな霽月の思いが、見えてくる。(霽月は、森田より3歳ほど年上。ほぼ、同時代人)
森田雷死久は、俳句に限らず、果樹園芸の分野でも、功績を残すが、村上霽月も、俳句に限らず、「伊予がすり」の社長だ。
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文芸と実業、二足のわらじ・・・これを霽月は「業余俳諧の精神」と呼び、同じ境遇で、チャレンジする森田へのエールが、この句には、込められているのだろう。
近くの、真言宗のお寺に、村上霽月、その一族の墓所あり
まあ、その大きな五輪塔には、驚いた〜(さすが、伊予がすり、社長!)
その墓所を、お掃除する、女性がひとり。
「こちらは、村上霽月のお墓ですか」と声をかけたら、村上家ゆかりのかたで、「暑くなって、草も芽を出しますから、少し、きれいにしようと思って」
わたしの風体を見て、「大学生さんですか?」
なんて言われて、「いやいやいや、来月、50になりますわ〜」と、しばし談笑・・・
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とまあ、こんな感じで、父祖の地から発する探求は、母方の故里とも呼応するようで、実際、影浦ヒロシ青年たちの偵察機【彩雲】が「今出」の空へと「出撃」した松山343の基地は、母の実家のすぐそばで、それに同乗した3人の若者たちが戦死した同日同刻・・・その空の下では、まだ小さい母や、伯父さん、伯母さん、祖父母たちが、柿の木が植えてある庭に掘られた防空壕に逃げ込んだ、というのだから、
世間は、狭いが、かつ深く、そうして空高くで、繋がっている・・・そんなことを、思いますね。
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