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ムササビの五技! 〜俳人・森田雷死久の多面体

序 ◉ 森をみて、さらに森に分け入る

2022年の秋、【森修】作品展「青い鳥、何処」を開催するにあたり、その監修を頼まれ、興に乗って、図録を作っていた頃のこと・・・

↓図録データ、こちらです↓

たまたま、【森盲天外】という郷土の社会事業家についての講演会に参加〜
「ああ、ふたりとも、森さんやなあ、同じ名字だなあ(・・・そう、こういう調子で、同姓の戦死者から【紫電改~彩雲】についての探究もスタートしたのであった)」などと思いつつ、とあるサイトの人物紹介のページで、その森盲天外のすぐとなりに並ぶ、【森田雷死久】という名前に、目がとまった。

ノイズが、メッセージに変わる瞬間!・・・とは、まさに、このこと。

森田雷死久・・・ふうむ、俳句の人か。
なになに、正岡子規の最晩年の門人で、のちに河東碧梧桐の「新傾向」に走る・・・か。

雷死久(らいしきゅう)とは、一風、変わった名前ね。
さて、三文字の俳号をもつ俳人というと、この森田を筆頭に(末尾は【享年】)

森田雷死久 1872年(明治 5年) 1/26 - 1914年(大正 3年) 6/ 8【42】
河東碧梧桐 1873年(明治 6年) 2/26 - 1937年(昭和12年) 2/ 1【63】
松根東洋城 1878年(明治11年) 2/25 - 1964年(昭和39年)10/28【86】
種田山頭火 1882年(明治15年)12/ 3 - 1940年(昭和15年)10/11【57】
荻原井泉水 1884年(明治17年) 6/16 - 1976年(昭和51年) 5/20【91】
水原秋桜子 1892年(明治25年)10/ 9 - 1981年(昭和56年) 7/17【88】
野村朱鱗洞 1893年(明治26年)11/26 - 1918年(大正 7年) 10/31【24】
中村草田男 1901年(明治34年) 7/24 - 1983年(昭和58年) 8/ 5【82】
富澤赤黄男 1902年(明治35年) 7/14 - 1962年(昭和37年) 3/ 7【60】
芝 不器男 1903年(明治36年 )4/18 - 1930年(昭和 5年) 2/24【26】

高名な俳人そろい、ひと筋縄ではいかぬ、なかなかの反骨者ぞろい!
(なんて言うたかて、この分野に明るくないのだけど、草田男については、伊丹万作の水脈として、探求を進めているところ〜)

1 ◉ 雷「死」久の由来

さて、森田雷死久 である。

名前のど真ん中に「死」を抱え込む俳人とは、いったい何者か?

本名は、愛五郎。

雷死久という俳号は、自句なのか???
「雷公の死して久しき旱(ひでり)かな」
に由来するようだ。

(※その後、こんな仮説を展開! ご笑覧あれ)

さて、文字どおりの意味を取れば「雷も鳴らない・・・ずっと日照りやん・・・」くらいでしょうか。

でも、その意を汲めば、雨乞いの句とも取れますね。たとえば、こんな解釈・・・【天神さんよ、よみがえれ〜 かわいた大地を潤してくれ!】とか。

雷死久は、もともと真言宗のお坊さん(僧名は、貫了という)でもあり、自分も、そうした「慈雨」たらん、とした俳号かも知れません。
(雷死久=大至急!で、雨をちょうだい〜みたいな。真言宗やし「弘法水」的な)

実際、雷死久は、俳人のほか、僧侶、小学校教員、書家、満韓への旅行家、果樹園芸家(協同組合も組織)など、さまざまな分野に「慈雨」を導かんとするも、42歳で早逝・・・

俳号に「死」の文字は、どきっとしますが、生への反転、よみがえりを含意する諧謔の精神かも・・・などと夢想しながら、つらつら、その人物紹介を眺めていると、オヨヨと驚いた。

2 ◉ 父の勉強部屋の墨跡

伊予市誌の「第六編 宗教/第二章 寺院/三、転廃寺」に【真成寺】の記述あり。雷死久は、唐川という土地のお寺で、住職をしていたという。むむ、唐川といえば、わたしの父の実家・・・偵察機「彩雲」の探求の地である。
伊予市誌を読み進めると、「宅地となり、・・・民家となった」とあるところ、そういえば、父が「唐川の家は、お寺さんの建物だった」と言うてたことあったが・・・おー、まさに、それか!

雷死久が住職をつとめた寺とは、わたしが小さい頃、遊びに行った、祖父の家屋(父の実家)のことであった。以下の引用にある「境内は宅地となり、庫裡は民家」が、まさにそれであり、「その民家の奥部屋」とは、父の勉強部屋なのだ。

★真成寺
上唐川本谷にあった。昔下唐川村から移転したものである。谷上山宝珠寺の末寺で、真言宗智山派に属し、唐川山真成寺(真浄寺又は真城寺とも書かれる)と号した。本尊は薬師如来であった。一九六〇(昭和三五)年大平の善正寺に合併せられた。その後境内は宅地となり、庫裡は民家となった。その民家の奥部屋の壁面に、かつて本寺の住職であった俳人森田雷死久の帰俗の辞「行く春を花にさきにけり蕗の薹」の墨跡が残っていたのを現在伊予市教育委員会に壁のまま保存している。

伊予市誌「第六編 宗教/第二章 寺院/三、転廃寺」より

さらに、伊予市誌の「第九編 人物/第一章 人物」にある【森田雷死久】の記述に、「兼岡久一」さん、「城戸鶴夫」さんという名あり。
(兼岡さんは、次節でふれる「矯風会」の資料を蔵。城戸さんは、このあとふれる)

★森田雷死久(抜粋)
この寺が廃寺になる際に、下唐川の兼岡久一の努力により、大工の城戸鶴夫が切り取って額に収め、現在伊予市中央公民館に、保存されている。

伊予市誌「第九編 人物/第一章 人物」より

雷死久の帰俗の辞「行く春を花にさきにけり蕗の薹」の墨跡は、大工の城戸さんが、切り取って額に収めるまでは、父の勉強部屋の壁面にあったそうで、「いったい、何と書いているのか?」と、小さい頃から、不思議に見ていたというのだから、さらに驚いた。

祖父の家(=真成寺の庫裏)があったところから、少し離れた場所に、伯父一家が新居を建て(それも、大工の城戸さんの手による)、引越しの後、しばらくして、懐かしき祖父の家は、取り壊され、いまは、キウイの農地になっている。

3 ◉ 「彩雲」通信士の父・影浦春渓

雷死久は、唐川のお寺で住職をつとめながら、「矯風会」「上楽社」という、ふたつの俳句会を主催。地域の人たちが参加する中に、影浦権造という名前がある。俳号を春渓という。

この権造という名前は、わたしの曽祖父の兄弟(おそらく弟か)に同じ名前の人がおり、ということは、偵察機「彩雲」で戦死した影浦博の父親にあたるわけだ。

影浦博の墓石には【梅薫院〜】と彫られてあって、梅の薫りただようとは、なんと風雅な戒名かと思ったが、おそらく、父・影浦春渓の俳趣によるところなのだろう。
(これは、ひとつの仮説だが、たまたま、わたしの長女は【薫】というので、名づける気持ちを、そんな風に想像する)

伊予市誌「第八編 諸芸・文化財・観光/第二章 文芸/四、俳句」より

4 ◉ 帰俗の句碑は、苔むして

さて、父の勉強部屋の壁から、大工の城戸さんの手によって取り出された墨跡は、伊予市教育委員会に保存されているという、

帰俗の辞「行く春を花に佐きにけり蕗の薹」雷死久

伊予市中央公民館で、これまで長く、一般に展示されていたようす。

しかし、近年、新しく建て替え、複合施設にしたとき、奥の方に、しまい込まれた?とか、いまのところ実物にはあえず、代わりに、写真で確認ができる。

帰俗の辞 行く春を花に佐きにけり蕗(ふき)の薹(とう) 雷死久
1903年(明治36)に雷死久が、還俗して唐川を去るとき、 真成寺の書院に書き残した

この帰俗の辞を彫り込んだ句碑が、浜出稲荷神社の境内にあるのだが、そこは祖父の家(=真成寺の庫裏)のすぐ目の前で、そうとうに古い縁起と、太平記(大森彦七)の伝説などの舞台だったりするところ。
雷死久についてまとめられた、おそらく現状、数少ない資料のひとつである、鶴村松一の編著『森田雷死久』(松山子規会叢書第6集)の年表によると、句碑の建立は、1973年(昭和48年)とあり、これは、わたしの生まれた年で、今年は、ちょうど50年か。

句碑の文字は、父の勉強部屋の壁に書かれていた、そのままの文字を刻んだようだが、現在の様子は、句碑にも草木が絡まるくらいで、その周辺、鬱蒼と生い茂り、すっきり見渡せぬところが、ちょっと残念。

5 ◉ ムササビの5つの技 〜雷死久の多面体

雷死久は、俳人の顔だけでなく、仏教徒(真言宗)、小学校の教員、書家、それから園芸家として「伊予梨」の栽培を広めたり、「伊予果物同業組合」を作るなど、たいへんユニークな人物で、がぜん、興味がわいてくる。
(信仰と文学、教育と農業など、ちょっと、宮澤賢治的?ですね)

最近、こんな言葉を知りました。

【鼯鼠の五技】=ごそのごぎ(あるいは、梧鼠之技=ごそのぎ)

出典は『荀子』勧学編「螣蛇無足而飛/鼯鼠五技而窮」

鼯鼠(ごそ)とは、これ、ムササビのことだそう。あの、空を滑空するやつ、です。
そして、五技とは、ムササビがもつ5つのスキル・・・飛ぶ、木に登る、泳ぐ、穴を掘る、走る・・・だそうです(ムササビって、泳ぐんですね)。

ただし、どの技も極めてないので、それぞれの専門家である「鳥、猿、魚、モグラ、人」にはかなわない・・・というわけで、器用貧乏の親戚みたいな言葉が【ごそごぎ】。

「いろいろな能力があってもたいしたことはなく、どれも役に立たないこと」という本来の意味をとれば、実は、河東碧梧桐も、雷死久を評して「突込んでやる処までやるという意気に欠けていた」と、少々、手厳しい部分もある(勿論、それだけでもないが)。

いやー、5つも技があって、すごいじゃん!とも言えるわけで、
 ①俳人
 ②宗教家
 ③教育者
 ④書家
 ⑤園芸家
という、ムササビの5つの技!をもって活躍した多面体・森田雷死久・・・そのジェネラリストとしての姿を、多角的に、見ていきたいところです。

鶴村松一 編著『森田雷死久』(松山子規会叢書第6集)1979年



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