ムササビの五技! 〜俳人・森田雷死久の多面体
序 ◉ 森をみて、さらに森に分け入る
2022年の秋、【森修】作品展「青い鳥、何処」を開催するにあたり、その監修を頼まれ、興に乗って、図録を作っていた頃のこと・・・
たまたま、【森盲天外】という郷土の社会事業家についての講演会に参加〜
「ああ、ふたりとも、森さんやなあ、同じ名字だなあ(・・・そう、こういう調子で、同姓の戦死者から【紫電改~彩雲】についての探究もスタートしたのであった)」などと思いつつ、とあるサイトの人物紹介のページで、その森盲天外のすぐとなりに並ぶ、【森田雷死久】という名前に、目がとまった。
ノイズが、メッセージに変わる瞬間!・・・とは、まさに、このこと。
森田雷死久・・・ふうむ、俳句の人か。
なになに、正岡子規の最晩年の門人で、のちに河東碧梧桐の「新傾向」に走る・・・か。
雷死久(らいしきゅう)とは、一風、変わった名前ね。
さて、三文字の俳号をもつ俳人というと、この森田を筆頭に(末尾は【享年】)
高名な俳人そろい、ひと筋縄ではいかぬ、なかなかの反骨者ぞろい!
(なんて言うたかて、この分野に明るくないのだけど、草田男については、伊丹万作の水脈として、探求を進めているところ〜)
1 ◉ 雷「死」久の由来
さて、森田雷死久 である。
名前のど真ん中に「死」を抱え込む俳人とは、いったい何者か?
本名は、愛五郎。
雷死久という俳号は、自句なのか???
「雷公の死して久しき旱(ひでり)かな」
に由来するようだ。
(※その後、こんな仮説を展開! ご笑覧あれ)
さて、文字どおりの意味を取れば「雷も鳴らない・・・ずっと日照りやん・・・」くらいでしょうか。
でも、その意を汲めば、雨乞いの句とも取れますね。たとえば、こんな解釈・・・【天神さんよ、よみがえれ〜 かわいた大地を潤してくれ!】とか。
雷死久は、もともと真言宗のお坊さん(僧名は、貫了という)でもあり、自分も、そうした「慈雨」たらん、とした俳号かも知れません。
(雷死久=大至急!で、雨をちょうだい〜みたいな。真言宗やし「弘法水」的な)
実際、雷死久は、俳人のほか、僧侶、小学校教員、書家、満韓への旅行家、果樹園芸家(協同組合も組織)など、さまざまな分野に「慈雨」を導かんとするも、42歳で早逝・・・
俳号に「死」の文字は、どきっとしますが、生への反転、よみがえりを含意する諧謔の精神かも・・・などと夢想しながら、つらつら、その人物紹介を眺めていると、オヨヨと驚いた。
2 ◉ 父の勉強部屋の墨跡
伊予市誌の「第六編 宗教/第二章 寺院/三、転廃寺」に【真成寺】の記述あり。雷死久は、唐川という土地のお寺で、住職をしていたという。むむ、唐川といえば、わたしの父の実家・・・偵察機「彩雲」の探求の地である。
伊予市誌を読み進めると、「宅地となり、・・・民家となった」とあるところ、そういえば、父が「唐川の家は、お寺さんの建物だった」と言うてたことあったが・・・おー、まさに、それか!
雷死久が住職をつとめた寺とは、わたしが小さい頃、遊びに行った、祖父の家屋(父の実家)のことであった。以下の引用にある「境内は宅地となり、庫裡は民家」が、まさにそれであり、「その民家の奥部屋」とは、父の勉強部屋なのだ。
さらに、伊予市誌の「第九編 人物/第一章 人物」にある【森田雷死久】の記述に、「兼岡久一」さん、「城戸鶴夫」さんという名あり。
(兼岡さんは、次節でふれる「矯風会」の資料を蔵。城戸さんは、このあとふれる)
雷死久の帰俗の辞「行く春を花にさきにけり蕗の薹」の墨跡は、大工の城戸さんが、切り取って額に収めるまでは、父の勉強部屋の壁面にあったそうで、「いったい、何と書いているのか?」と、小さい頃から、不思議に見ていたというのだから、さらに驚いた。
祖父の家(=真成寺の庫裏)があったところから、少し離れた場所に、伯父一家が新居を建て(それも、大工の城戸さんの手による)、引越しの後、しばらくして、懐かしき祖父の家は、取り壊され、いまは、キウイの農地になっている。
3 ◉ 「彩雲」通信士の父・影浦春渓
雷死久は、唐川のお寺で住職をつとめながら、「矯風会」「上楽社」という、ふたつの俳句会を主催。地域の人たちが参加する中に、影浦権造という名前がある。俳号を春渓という。
この権造という名前は、わたしの曽祖父の兄弟(おそらく弟か)に同じ名前の人がおり、ということは、偵察機「彩雲」で戦死した影浦博の父親にあたるわけだ。
影浦博の墓石には【梅薫院〜】と彫られてあって、梅の薫りただようとは、なんと風雅な戒名かと思ったが、おそらく、父・影浦春渓の俳趣によるところなのだろう。
(これは、ひとつの仮説だが、たまたま、わたしの長女は【薫】というので、名づける気持ちを、そんな風に想像する)
4 ◉ 帰俗の句碑は、苔むして
さて、父の勉強部屋の壁から、大工の城戸さんの手によって取り出された墨跡は、伊予市教育委員会に保存されているという、
帰俗の辞「行く春を花に佐きにけり蕗の薹」雷死久
伊予市中央公民館で、これまで長く、一般に展示されていたようす。
しかし、近年、新しく建て替え、複合施設にしたとき、奥の方に、しまい込まれた?とか、いまのところ実物にはあえず、代わりに、写真で確認ができる。
この帰俗の辞を彫り込んだ句碑が、浜出稲荷神社の境内にあるのだが、そこは祖父の家(=真成寺の庫裏)のすぐ目の前で、そうとうに古い縁起と、太平記(大森彦七)の伝説などの舞台だったりするところ。
雷死久についてまとめられた、おそらく現状、数少ない資料のひとつである、鶴村松一の編著『森田雷死久』(松山子規会叢書第6集)の年表によると、句碑の建立は、1973年(昭和48年)とあり、これは、わたしの生まれた年で、今年は、ちょうど50年か。
句碑の文字は、父の勉強部屋の壁に書かれていた、そのままの文字を刻んだようだが、現在の様子は、句碑にも草木が絡まるくらいで、その周辺、鬱蒼と生い茂り、すっきり見渡せぬところが、ちょっと残念。
5 ◉ ムササビの5つの技 〜雷死久の多面体
雷死久は、俳人の顔だけでなく、仏教徒(真言宗)、小学校の教員、書家、それから園芸家として「伊予梨」の栽培を広めたり、「伊予果物同業組合」を作るなど、たいへんユニークな人物で、がぜん、興味がわいてくる。
(信仰と文学、教育と農業など、ちょっと、宮澤賢治的?ですね)
最近、こんな言葉を知りました。
【鼯鼠の五技】=ごそのごぎ(あるいは、梧鼠之技=ごそのぎ)
出典は『荀子』勧学編「螣蛇無足而飛/鼯鼠五技而窮」
鼯鼠(ごそ)とは、これ、ムササビのことだそう。あの、空を滑空するやつ、です。
そして、五技とは、ムササビがもつ5つのスキル・・・飛ぶ、木に登る、泳ぐ、穴を掘る、走る・・・だそうです(ムササビって、泳ぐんですね)。
ただし、どの技も極めてないので、それぞれの専門家である「鳥、猿、魚、モグラ、人」にはかなわない・・・というわけで、器用貧乏の親戚みたいな言葉が【ごそごぎ】。
「いろいろな能力があってもたいしたことはなく、どれも役に立たないこと」という本来の意味をとれば、実は、河東碧梧桐も、雷死久を評して「突込んでやる処までやるという意気に欠けていた」と、少々、手厳しい部分もある(勿論、それだけでもないが)。
いやー、5つも技があって、すごいじゃん!とも言えるわけで、
①俳人
②宗教家
③教育者
④書家
⑤園芸家
という、ムササビの5つの技!をもって活躍した多面体・森田雷死久・・・そのジェネラリストとしての姿を、多角的に、見ていきたいところです。
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