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■ 紫電改〜彩雲ノート

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西宮から松山、熊本から信州へ・・・戦記から生活史をつむぐ 【ヘッダー画像★中島艦上偵察機【彩雲】11型/11型夜戦, /彩雲改(フジミ模型1/72パッケージ)】
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目次◉紫電改〜彩雲ノート

【紫電改】という軍用機が【西宮】そして郷里【松山】をつなぐ接点について「そうなのかっ!」という驚き、戦後71年・夏のレポートとして2016年8月中、数回に分けて。  写真★川西 N1K2-J 局地戦闘機【紫電改】(ハセガワ 1/32プラモデル ) つづく:1◉武庫川線の先の軍需工場

14)長野「大町」〜ミノル青年の進路希望

大中とは【大町中学】のこと。(松山中学なら、松中だ) いまでいう高校で、地方の旧制中学は、その地域でも、ちょっと頭の抜き出た、子どもたちが学び、友と語らいながら、それぞれが【希望】する進路を、見定める場であることは、いまも変わらない。 しかし、その当時、旧制中学には【志願兵】の生徒を拠出するよう、軍から割り当てがあった。それは、空気のような同調圧力によって、志願を強要する。 だれが、手を挙げるか・・・とは、たいへん、悩ましい問題であったろう。 その中で、ミノル青年は、親

13) 熊本「天草」〜高田満・機長の故郷を訪ねる

【彩雲】という偵察機に共に乗り込み、1945年3月19日、愛媛と高知の県境の空で戦死した3人の若者(数字は享年) ・高田満(機 長、熊本県、26) ・遠藤稔(操縦士、長野県、22) ・影浦博(通信士、愛媛県、21) 最初に、機長の高田満さん、どのような青春をおくった方なのか・・・2022年10月、天草の倉岳町に、遺族を訪ねました。 松山からフェリーで小倉へ。九州を一路、南にバイクを走らせる。天草五橋をぬけると、山頂からの絶景が、素晴らしい「倉岳」ふもとの旧家に到着。 (

12) 紫電改343とフィクションの想像力

【紫電改343】という漫画が、連載されている。 (ここで ↓ バックナンバー、読めます) 太平洋戦争の末期、本土防衛の切り札として、松山に創設された【第343海軍航空隊】・・・ 各地の戦線をくぐりぬけたエースパイロットたちを集め、新鋭機【紫電改】や、偵察機【彩雲】を配備し、司令官【源田実】の元、1945年3月19日の空戦では、アメリカ軍に対して互角以上の戦果をあげた・・・ 戦後76年たってなお、そんな風に語られ、これまでにも映画や漫画の題材になってきたのは「劣勢に一矢を

11) 掩体壕の見学会

戦時下の松山で、偵察機【彩雲】など軍用機を格納していた【掩体壕】が、市の文化財に指定されて後、はじめての見学会(7/25)がある。 掩体壕が残る松山空港の方面には、亡母の実家もあって、小さい頃、カマボコみたいな姿を眺めては「あれ、なによ?」と、よく問うた。 2017年の夏には、偵察部隊の元・隊員、杉野富也さんに、現地を案内いただき、お話を伺う機会に恵まれ、その内容は新聞記事になったりした。 その年の暮れ、92歳で亡くなった杉野さん・・・戦争を語り継ぎ、平和の大切さを伝え

10◉その語りを、聞き書く

新聞記者の友人に誘われ、お話うかがう機会をえた杉野富也さん・・・くしくも開戦の日、今月8日に亡くなった。92歳。 旧海軍で偵察機【彩雲】に乗っていた杉野さん(3人乗りのコクピット、通信士として後部銃座に搭乗)・・・当時、同僚だった私の親族について教えてもらえ、ほかにもいろんなお話を!と思っていたが、もうかなわない。 暑い中、掩体壕でのインタビューは、8月のお盆前、新聞記事になったが、そのときの取材ノートから昨日の朝刊に【追悼記事】を友人が書いた。(写真左端は私) 得難い機

9◉帰郷は自転車に乗って

去年8月、当時在住していた西宮と郷里の松山を【紫電改】という戦闘機でつなぐ内容のレポートをスタートしたら、多くの方に関心を寄せてもらい、いろいろ情報いただきました。(多謝です!)  今年の春、西宮を離れる直前に【紫電改】の元パイロットから話を聞く場に同席させてもらうなど、とっても得がたい経験もできました。  そんな昨夏の連載から、ちょうど一年・・・ 「戦時中、松山にあった航空隊で、偵察機に乗っていた杉野さん、いまもご健在で、戦争経験の語り部もされている。取材に行くんだけど

8◉昭和20年3月19日の空は晴れていたか?

紫電改〜彩雲に関するエッセイ投稿は、今回で8回目・・・ 本日【3.19】は、ファミリーヒストリーが交差する日のようで、どうにも文章を短く刈り込めないのだが、その後の「発見と考察」に、これまでの総集編もまじえて記してみました。 (西宮からの紫電改エッセイは、いったんこれで完結。来月から帰郷します〜) 1▪️呉の空に開いた煙の花  72年前の今日は、広島・呉が米軍機の攻撃を受けた最初の日で、現在も絶賛上映中の【この世界の片隅に】でも、その様子は、たいへん印象的に描かれる。  

7◉最後の紫電改パイロット

2016年、はからずも夏休みの自由研究となった「紫電改部隊と影浦博・上等飛行兵曹」の調べものに、この年度末・・・思いがけぬ機会が舞い降りた。 零戦や紫電改のパイロットであった【笠井智一さん】(伊丹市在住) 敗戦時19歳、この3月で91歳になる笠井さんにお会いし、松山にあった第343航空隊(紫電改部隊)での思い出を伺うことができた。 去年の夏、現住所の西宮と郷里の松山を戦闘機「紫電改」を通して調べる中で、いろいろな発見があり、その内容をfacebookで連載したら、面白く読

6◉戦後71年の空を仰ぐ

2016/8/21 執筆に加筆。 写真★松山空港近く、数年前の掩体壕。いま現在、手前の水田は宅地となり、こんな風には見えなくなった。 わたしの母の郷里は、松山空港の方面で、いまもそこには【掩体壕】(えんたいごう)が3つ、かろうじて残る。 巨大なカマボコ状で、航空機をすっぽり格納する。紫電改や彩雲も、その中にあったのだろう。 わたしが小さい頃は、田園風景に置き忘れたような掩体壕を遠望できたのだが、いまは宅地のなかに埋まり、事務所、物置、駐車場スペースなど平和に利用されているの

5◉紫電改再訪と高知県境の慰霊碑

この連載は、戦後71年のドキュメンタリーとして 現住地【西宮】と郷里の【松山】を【紫電改】で つないでみよう、そんな趣旨でスタート。 さまざまなサインの一致に驚き、思わず回を重ねる中、 今回の帰郷でたどりついた最後の発見は… 海軍少尉・影浦博は【私】のおじいさんのいとこ 逆に言うと影浦博にとって【私】は、いとこの孫 6親等の血族だから民法上、親族にあたる。 そんなことが分かってしまうと、愛媛の南宇和郡・愛南町にある【紫電改展示館】への再訪と、四国カルストに抱かれた高知県

4◉影浦博・上等飛行兵曹の消息

今回で連載4回目「戦後71年の空を仰ぐ」というタイトルで最終回の予定でしたが、この松山への帰郷中、さらに驚きの発見!ありまして1〜2回、増やします。 ***** 1945年3月19日、第343海軍航空隊は、松山上空や、近隣県域上空での米軍機とのはじめての実戦で、互角以上の力をみせる。 3つの紫電改部隊と、ひとつの偵察部隊とで編成された第343航空隊は、最新の紫電改の性能と腕利きパイロットの技術に加えて、偵察機【彩雲】による情報収集が、この精鋭部隊の特徴のひとつに挙げられる

3◉腕利きパイロットたちの第343航空隊

戦争末期、西宮・鳴尾をはじめ阪神間の川西航空機、工場で生産された紫電改は400機ほど(ゼロ戦は1万機くらい)。 その現物は、アメリカの博物館に3機、日本には愛媛に1機が残る。 旧城辺町、現在の愛南町に展示されている紫電改は1978年に宇和海で発見、翌年、引き揚げられた。 この機体を、ぼくは小1の夏休みに、父と見に出かけている。1980年だから開館まもないころ。 (ただいま帰郷中、当時のアルバムめくったら昭和55年8月15日とあった…今日か?!) 展示された紫電改は、再現

2◉景浦と沢村の再会

1944年の秋、タイガースの景浦將と(巨人)の沢村栄治が、西宮で再会しているそうだ。 しかし・・・甲子園のグランド上ではなく、西宮・鳴尾の軍需工場=川西航空機での再会である。 景浦は【松山商業】から法政、そしてタイガースへ 沢村は【京都商業】から巨人へ 日本のプロ野球は「沢村が投げて、景浦が打ってはじまった」といわれ、両者は戦前の伝説的プレーヤー。 しかし、その草創期は、軍靴の響きが高まる時代と、もろかぶり… たとえば、景浦の阪神への入団交渉が行われたのは、80年前の1