オール(櫓)のない舟のゆくえ〜映画『福田村事件』雑感
何年か前、水俣をテーマに、ジョニー・デップが撮った映画について、テキストにしたことありまして、
その【MINAMATA】・・・参照枠になるかも
と、不意に思ったのは、
田中麗奈さん演じる、モダンガールは、朝鮮に進出した日本企業・・・
その重役の娘という設定で
これ・・・水俣で、深読みすれば、その企業とは、のちのチッソとか?
(戦時中、朝鮮で、事業拡大したので)
朝鮮での、日本の帝国主義、植民地経営の悲惨から、逃れるように故郷に戻った主人公は、大正モダニズムな、モダンボーイと、モダンガールな装い。
(関係の冷え切ったモボモガ夫妻)
植民地の現状の前に、潰えた理想主義が、更新されぬままでは、帰郷したムラ社会の前近代性になじめず、孤立・・・
(民主的な村長は同級生で、唯一の理解者だが、村長の立ち位置も、少々煮え切らぬ)
水俣を訪れた、ユージンと、アイリーンは、コミュニティに積極的に参与する
ジャーナリストであったが、モボモガ夫妻は、故郷=ムラ社会において、きわめて没交渉であり、ふたりの関係自体も、空虚だ。
(つまり、なにもしていない。そう、この主人公たちには、ほとんど、劇的行為が、与えられない)
ふたりは、陰惨な「事件」のあと、それでも連れ立って、舟に乗り、
どこかへ行こうとするのだが、行くあてはない。
・・・時代は、さらに大きな暴力が日常化する世界(戦争)が、待っているだけに、ポスターにもなっている、ラストシーンは、ただならぬ閉塞感・・・
実は、このモボモガ夫妻って、まったく登場しなくても、ストーリーは、成立する・・・という、観客に「ドラマ内的」な感情移入をさせない
そんな、特異な位置にある・・・(狂言回し)
あえて言えば、この列島の社会の、中空構造・・・
集団心理にも広がる、責任回避を象徴している、ようですね。
ラストシーン、利根川の流れに、「櫓」をかくことさえなく、
ただ、その流れに、流されていくまま、舟に身を委ねる、という姿は
更新されざる理想主義の敗北なのだ。
(一方、劇中で唱和される水平社宣言は、
更新された理想主義と言える。しかし)
川に流される船上のふたりに対して、殺戮をまぬかれ、讃岐の郷里に戻り、
橋の上で再会する若いカップルの姿を、「希望」と呼ぶには、それは残酷だ・・・
と躊躇するのも、同胞の殺戮という、一聴信じがたい、事実の前では、そんな理想も希望も、一片たりとも、浮かぶ瀬はなし、ということか・・
モダンガールを演じる田中麗奈さんは、
わが母校のボート部を舞台にした
青春映画でデビュー。
力強くオールを漕いだときを経て
モボの夫に、声強く問う
「あなたは、なにもしなかった」
そんなモガも、曇り空には、無用な日傘をさし、水面に漂うに任せるラストシーンでは、その舟は漕がれず、殺戮された同胞たちが、流された後を追うように、ただ流されるのみ
ストーリー上、いてもいなくても・・・とは、この映画も、当然、見る人もいれば、
見ない人もいて、それと相似関係にあり、つまり、同舟のふたりは「われわれ観客」なのだ。
心中を予感させる、ふたりの道行に、感情移入があるとすれば、
それは、死へのエロスなどではなく、無為であることへの贖罪か。
理想は、追うべし。・・・ただ、それが、絶望的に潰えたとき、それでも、
理想の側に踏みとどまれるのか?(乗る舟の「櫓」を漕げるのか?)
同胞の殺戮という、ショッキングな事実に、耳目は集まるが、流されるままの舟、その行く先は、100年たとうが、「現代」に他ならず、それに自分も、同乗している事実を、問われる・・・
そんなテーマを、ドキュメンタリーでなく、商業映画として、普通に見られることに、この列島の社会での、理想と希望の更新を感じとりたいものです。
そんなわけで・・・更新されざる理想の敗北と、希望の困難を、容赦なく描く本作なので、そこそこ入った観客の中には「あと味、悪いわ・・・」という吐露も、そのとおりだろうけど、ちょうど【暗闇のなかの希望】という本を、読み終えたところ、
明るいだけの希望は、それが消えたとき、
容易に絶望に転じるのでしょうね。
「未来は暗闇に包まれている。概して、未来は暗闇であることが一番いいのではないか」ヴァージニア・ウルフ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?