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深読み映画評:【MINAMATA】はペテロとヨハネの使徒行伝だ。

① 映像にひそむ違和感

ジョニー・デップが、プロデュースした映画【MINAMATA-ミナマタ-を見ました。

テーマは、水俣病です。主人公は、デップが演じるアメリカの写真家ユージン・スミスと、パートナーのアイリーン。ふたりは、日本の漁村に入り、カメラを通して、水俣の惨状を世界に伝えます。

さまざまな写真が撮られた中、もっとも知られた一枚に「入浴する智子と母」があります。

水俣病の我が子を抱きかかえ、湯浴みする母と子の姿をとらえたもので、まさにそれは、湯船のピエタ(あるいは洗礼のピエタ)・・・とでも言いましょうか、聖母マリアが、我が子イエスを嘆きいだく姿(ピエタ)を思わせ、水俣病を世界に知らしめた一枚です。

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映画【MINAMATA】は、その有名な写真「入浴する智子と母」の撮影に立ち会う場面をクライマックスに、写真家ユージンとアイリーンの撮影活動を追いかけていきます。

水俣病については、義務教育で受けた知識程度しかなく、この映画について、なんとなく、ドキュメンタリーな作風かな、と思いながら見ていると、映画が進むにつれ、その分かりやすい語り口に、これは世界市場に向けて作られた「商業映画」だな・・・という当たり前の事実に、鑑賞の途中、はたと思い返したのでした。

なので・・・この映画、すごく分かりやすい。99%まで分かりやすい。

もし、そのまま残り1%まで分かりやすく、エンドタイトルが来たら、教科書をめくっただけのように、記憶からは消えていたでしょう。しかし、そうでなく、こんな長いテキストにつながっているのは、映画の最後の最後・・・「違和感」のある映像が、待ちかまえていました。

違和感・・・それは、視覚メディアである映画作品の中に、見るものの感受性を不気味に際立たせる、一見名状しがたいシーンにひそむものを指します。映画を批評的に見る場合、なにより心がけているのは、映像表現に潜む「違和感」に反応すること。そこから、その違和感を究明するため、批評の言葉が立ち現れてきます。

たとえば、ハッピーエンドな作品とかで・・・その最後に、「あれ? 何で、このバラ色の展開で、こんな不穏なシーンなの?」とか、逆に「悲劇的結末にして、この能天気なイメージはなんだ?」とか、映像に感じる「違和感」ですね。

深読みができる、すごい映画ってのは、どこかに必ず、製作者たちが意図して仕掛けた、そういう「不気味なシーン」があります。印象批評のまなざしをもって映画に向かうとき、優れた作品には、違和感を感受させる最重要なシーンがあるものです。

② 製作者の気概

さて、映画【MINAMATA】は、たいへん分かりやすい。どこか、引っかかるような違和感なく、滞りなくシーンは進みます。映画は、まず視覚メディアですから、ストーリー構成の違和感は論外として、スクリーンに映し出されるイメージにこそ、メッセージは宿るという考えに、ここで提起している「違和感」も従うわけですが、そういう目で見ていると、映画の随所に「水」のイメージが連鎖しているのに、気づきます。・・・何しろ、水俣ですしね。たとえば、

水俣湾の静謐な水面〜そこに流れ込む工場排水~水俣に到着した夜の雨

ウイスキー(酒に溺れる)~フィルムの現像液

ユージンがつかるドラム缶の「湯船」・・・そして、水俣の母子が入浴する「湯船」

ただ、こうした水のイメージも、作品の根源にまで引き込むような「違和感」には乏しく、分かりやすく提示されます。

ところで、外国の映画が、日本を描く場合、ちょっと変だなあ、という「違和感」ってありますね。富士山、芸者に始まって、メガネで、出っ歯、首からカメラなど、外国人の目から見た日本人のイメージってあるわけですが、これは「表層の違和感」であって、ここでいう作品の根源へと誘う「ディープな違和感」とは違います。

今回の映画では、そうした、よくいわれる表面的な違和感についても、ほぼ気になることはありません。(ただ、ステロタイプで、分かりやすさを提供するための誇張表現も、2020年代ともなれば、日本の文化、生活描写は、世界市場・・・要は欧米向けに、より巧みに潜在させたものになっているようです。)

そんな中でも、あら探しをすると、例えば、漁村の一家が、官憲に家宅捜査を受けた際、小さな子どもは怖さのあまり「ママ!」と叫ぶのですが、いやいやそこは「お母ちゃん!」でしょう、とは一緒に見に行った友人たちとの感想でしたが、まあ・・・そうでしょうね。

しかし、見方を変えれば、それこそ世界市場に向けた作品として、ここにはむしろ、水俣の悲劇を日本に特殊な事象とするのではなく、普遍的な問題として提起する製作者の気概を感じるところです。

そう、ジョニー・デップをはじめとする製作者の気概です。

わたしたちは、数多くのドキュメンタリーフィルムや、世界文学として【苦海浄土】を持ち得たが、「商業作品」として、水俣を語ることの困難な当事国の立場から見るとき、水俣病は、過去の終わった話ではなく、今なお継続している事象です。

それを世界に伝えるに際し、ドキュメンタリーではなく、商業映画という手法で、歴史的事実の多少の改変も辞さず(その種の違和感を批判するコメントは多いようですが)、なにより分かりやすい商業作品として、水俣病にアプローチした製作者の気概には、並ならぬ覚悟と、表現対象への深い理解があるはず。

そんな映画に込められた意味を引き出し、深読みするため、作品の根源にダイブする入口=「違和感」は、どこに見いだされるか?

・・・そのシーンは、映画のラスト、最後の1%に、不気味に立ちあらわれたのでした。

③ ふた組の家族

それは、物語のクライマックスとも言える「湯船のピエタ」の撮影を終えた後、ふた組の家族が、ちゃぶ台を挟んで、暗室の赤色灯のような夕景の緋色が差し込む中に、呆然と座りこむシーンです。

ふた組の家族とは、水俣の漁村の夫婦と、ユージンとアイリーン。

この不気味な違和感にいたる直前は、この映画の最大の見せ場です。

水俣のコミュニティに迎えられた一家族(ユージンとスミス)が、漁村の家族の湯浴みを撮影するという、感動的なシーンがあります。

ここでユージンは、ファインダーから被写体を覗きみるのでなく、レリーズ(有線シャッター)を押します。

デモを撮影するシーンなどでは、逃れゆく瞬間を取りこぼさないように、カシャカシャって、シャッターを切る=ファインダー越しの撮影ですが、湯船の撮影シーンは、その場に共にあり、日常に当たり前に流れる時間に添うように、シャッターをおします。
(ユージン自身も、「暴力」を受けた迫害によって、負傷しているため、満足にシャッターを押せない身体になっている)

それはいわゆる「家族写真」なんだな。

カメラを手にしたものが、まずはじめにレンズを向けるであろう家族・・・ユージンには、アメリカで別れた元の家族と不和があり、子どもの写真も持ってない。彼にとってあの一枚は、作品である前に、はじめての家族写真・・・親密なスナップショットでもあったのだろう。

湯船で我が子を湯浴みする母は、子守唄を口ずさみ、それはまるで、潜伏キリシタンが伝える祈り=「オラショ」のようにも聞こえ、撮影現場を作為するアイリーンの仕切りもあって、まさにピエタ像としての被写体が形作られていく。その様は、報道写真を超えて、芸術と宗教のあわいを垣間みるようで、崇高なシーンであるには違いない。

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ミケランジェロ『サン・ピエトロ大聖堂のピエタ』

ところが、そんな圧倒的なクライマックスシーンの後、スクリーンに映し出されるのは、ちゃぶ台を囲む、和やかな晩餐ではなく、ちゃぶ台をはさんで、あっちとこっちで、呆けたようにたたずむ、ふた組の家族です。

最前までの共感的なシーンとは打って変わって、徹底的な没交渉を思わせる、ふた組の家族は、私たちの前に、底なしの空虚を差し出して見せるのです。

このラストシーンがまとう、ただならぬ映像の違和感は、いったい何なのだろう?

④ 水のイメージ

最後の最後にあらわれた違和感・・・それをプリズムにして眺めると、映画の中で、分かりやすい映像として、なんの引っかかりもなかったシーンが、あらたな意味を帯びて、立ち上がってきます。

水俣湾の静謐な水面〜そこに流れ込む工場排水~水俣に到着した夜の雨

ウイスキー(酒に溺れる)~フィルムの現像液

ユージンがつかるドラム缶の【湯船】・・・そして、水俣の母子が入浴する【湯船】

水俣の中で連鎖する「水」のイメージとは、ふたつの【湯船】を介して、深層のドラマに誘う、徴標群であったようです。最終的にはピエタ(湯船)につながりますが、それを遡る位置あるドラム缶の湯船が象徴するものは何か?

ユージンが、自分の迷いから吹っ切れる様子の描写として、ドラム缶の「湯船」に、頭頂を沈め、ゆっくり浮かびあがるシーンがありました。

水中に全身を沈め、決意あらたに再浮上し、息を吹き返すという一連の所作は、これは、キリスト教の洗礼に見えないだろうか。現代の洗礼式は、もっと洗練化されていますが、イエスに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ」のそれは、もっと豪快で、ヨルダン川に、ドボンと投げ入れる、そんな風だったようです。

ドラム缶の湯船を「洗礼」と見れば、水俣の漁師町の風景が、イエスの伝道の舞台、ガリラヤ湖畔のそれと、オーバーラップしてくるのです。

随分、分かりやすい映画でありますが、その反面、あまりに分かりきっているので、語るまでもない「文脈」についてまでは、分かりやすくしていません。世界市場(要は欧米)に向けた、この映画の場合、キリスト教の物語パターンが、それに当たります。

欧米の人が見て「あ、これは使徒の物語が下書きになっとるな」と、すぐ気づくみたいな。この部分は、多くの日本人には、分かりにくい部分というか、気づけない部分でしょう。

(逆に、日本の文化的DNAとして、ほかの文化圏からは気づけない物語パターンとして、例えば「苦境を耐え忍び、ついに辛抱ならず、最後に仕返し」という復讐劇=そのオリジンは、忠臣蔵ですが、その後の任侠映画とかも、同じですね。近年の半沢直樹も、倍返し言うくらいやから、そうなんでしょう。たぶん)

⑤ キリスト教の物語パターン

というわけで、キリスト教の文脈から、映画【MINAMATA】を読み解くことで、ラストシーンのふた組の家族、その映像にひそむ違和感について迫ってみたいと思います。

キリスト教で、魚は、重要なシンボルです。初期キリスト教徒が用いた、2本の弧線を交差させて描く魚の図像には、隠れた意味があり「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を取ると、魚(ΙΧΘΥΣ)というギリシア語になるそうな。

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イエス キリスト 神の 子 救い主
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ
魚(ΙΧΘΥΣ)

そもそも聖書には魚にまつわる話が多い。

その中でも、五つのパンと二匹の魚を取ってきて、それを増やし、ガリラヤ湖畔で、五千人の人々に食べさせる、という奇跡がありますけど、・・・するとそこから、こんな幻視が現れ、映画【MINAMATA】を変奏させてくれます。

イエスの死後、その奇跡をたずねて、弟子たちが漁村をおとずれる。するとそこでは、五千人の人々を救った魚が、あろうことか、奇病をもたらし、多くの人々を苦しめている。・・・水俣の沿岸でとれた魚は、三千人に及ぶ被害者を生み出す(2018年3月末までの被認定者数)。

イエスの最初の弟子であるペテロとアンデレ(ふたりは兄弟)、それに続く、ヤコブとヨハネ(このふたりも兄弟)、この4人、みんな元は、漁師です。イエスは、彼らに「わたしについてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」なんて言葉をかけて、弟子にする。

そのなかでも、有名なのが、ペテロとヨハネのふたり。

ペテロは、いわゆる一番弟子。イエスの捕縛に際し、「鶏がなく前に、お前は三度、わたしのことを知らないというだろう」という師匠の予言とおりになり、激しく泣く姿など、まあ、人間味あふれるキャラですね。最後、ローマまで異邦人伝道の旅をしますが、サン・ピエトロ大聖堂ってのは、その地で逆さ十字に架けられ、殉教したペテロの墓所だったりします。
(なお、カトリックでは「ペトロ」、プロテスタントは「ペテロ」と呼ぶそう)

ヨハネは、ヨハネの福音書の作者らしい。なんたって、その冒頭「はじめに言葉ありき」ですから、理知的な感じがします。福音史家(エヴァンゲリスト)として、イエスの事跡をまとめるくらいだから、プロデューサーです。
(なお、サロメに首を所望され、ユダヤの領主ヘロデに処刑された「洗礼者ヨハネ」は、同名異人。ペテロは、イエスに出会う前、もとはこの、洗礼者ヨハネの弟子だったらしい)

イエスの復活時、共にイエスの墓にかけつけているのは、まさに、このペテロとヨハネだったりしますから、弟子たちの中でも、最重要なふたりでしょう。

⑥ ppmとピエタ

さあ、ここで、さらに想像力を羽ばたかせ、一つの仮説を提示します。それは、

ユージンは、ペテロであり、アイリーンは、ヨハネに相当するのではないか

そして、水俣の漁村の家族とは、聖家族マリアとヨセフに相当するのではないか

そうであるならば、ふたつの三角関係の共通の頂点に位置する湯浴みする「我が子/被写体」とは、イエスに他なりません。

ユージンとアイリーンの旅路は、救い主の死後、世俗の中に、奇跡の瞬間、聖性を見い出し、福音を伝道する使徒行伝のように思えてきます。

だから、イエスの亡骸に臨むとき、ふたつの態度が現れる。

映画の中で、チッソの社長が、印象深いセリフをユージンに吐きます。
「ppmって、知ってますか。極小さい値です。それは無視しても問題ないとされています」と。

ppmとは、100万分のいくらであるかという割合を示す単位ですが、水俣の一家族の生活において、湯浴みという親密な一景は、ppmの弱さと、一方で掛け替えのない強さを有している。しかし、それゆえ、ppmが、ピエタという普遍的なイコンに昇華するとき、ふた組の家族は、それをどう捉えるか・・・

ペテロとヨハネ、すなわち使徒コンビは、信仰の対象として、復活を願望する。彼らは、イエスなき後の救世主を求める。ユージンとアイリーンにとって、湯浴みのピエタ像は、芸術-宗教的イコンとして、立ち現われるわけです。・・・ここには、至高体験がありますから、表現者としては、美や聖性の顕現(ピエタ)、その再表現に忠実に従うのを禁じ得ないでしょうね。そして、それは教団化され、ひろく布教されていく。

その一方、マリアとヨセフにとって、我が子イエスの臨終は、親密な家族の一員として、非日常ではあるが、ごく当たり前の、世俗的な体験(ppm)としてある。それはつまり、水俣の一家族にとって、その日の入浴は、日々の営為として、連綿と続くものである。・・・家族のかけがえない一コマを、イエスを抱くマリアの悲しみとして、人類に奪われ、差し出されてしまってよいのか? という素朴な疑問が、ここには、ある。

こんなふうに、映画【MINAMATA】をキリスト教の文脈で幻視、変奏しますと、最後のちゃぶ台を囲む、ふた組の家族のシーンにおいて、ふたつの三角関係の頂点である「子ども/被写体」の不在は、たいへん象徴的です。それは、双方のあいだ、どちらにも組みすることなく、そこから消失している。

喪失感に呆けたような姿態で、ちゃぶ台を囲む、ふた組の家族は、関係を安定させる頂点を欠いた、底なしの空虚を、私たちの前に差し出すのです。

その空虚とは何かについては、現状ここでは手に余り、のちのちの問いとして持ち続けたいと思いますが、あのラストシーンがまとう、ただならぬ映像の違和感の正体には、こうした背景があるのでは・・・そんな風に、見てとるところ、です。

○ 補論

ユージン=ペテロ、アイリーン=ヨハネという仮説を補強する情報として、新約聖書の記述によれば、ペテロって、イエスの死後、妻といっしょに!エルサレムを離れ、各地を巡回する、のですって。
そこで、イエスの名のもとに、寝たきりの人を癒やしたり、亡くなった少女を生き返らせるなど、奇跡的な治癒を行う、とな!・・・私の幻視も、あながち的外れでなかったよう。

ユージンも、抗議活動の撮影時、負傷し、それも原因のひとつとして、亡くなるわけで、これはいわゆる殉教といっても過言でない。一方、ヨハネは、エヴァンゲリストとして記録する。ヨハネは、イタリア語にすればジョバンニですから、生き残る方ですね(カンパネルラは水死する)。

ヨハネの表象は、いまなお水俣について問い続け、今回の映画を機に、一度、封印した「入浴する智子と母」の写真を、この映画を機会に、あらためて世に問う、アイリーンの姿にも重なるのでは、なんて思います。

最後に、余談をもうひとつ! ・・・これは、調子にのって、妄想たくましいですから、まゆつば的に~

ユージン=ペテロ、アイリーン=ヨハネという仮説を補完する視覚的イメージとして、レオナルド・ダ・ヴィンチの【最後の晩餐】を取り上げます。超有名な、こちらです(部分)。

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この絵画は、イエスの左右に、12人の弟子を3人ずつまとめて描いており、正面すぐ左側の3人組は、向かって左端にユダ、ペテロ、ヨハネです。(超重要な弟子たちだ)

イエスのすぐ左に、「ぽかっと空間」をあけて、位置するヨハネは、ほかの弟子たちと比べて、どう見ても中性的、どちらかと言えば、女性的な人物像として描写されています。これは当時の絵画表現の約束事なので、此れを以て、ヨハネを女性とするのは、この補論と同様、面白いイメージだなあ、とは思います。

その横で身を乗り出し、ヨハネに耳打ちするペテロは、白ヒゲの老人です。

だから何だ? なのですが、ユージン=ペテロ、アイリーン=ヨハネという仮説の視覚的イメージとして、まあ、似てるかもなあ、くらいの余談です。

ただ、この絵画で、ずっと気になっていた部分があって、今回、映画批評のキーワードにしている「違和感」を、この絵画の中にも探してみると、イエスとヨハネの間の「ぽかっとした空間」が、なんとも不自然に広がっています。要は、ソーシャルディスタンスというか、ちょっと離れ過ぎじゃないか。

映画のラストショットでの違和感=ちゃぶ台のシーンにも、ふた組の家族の間で、「子ども/被写体」の不在が象徴する【空虚】がありましたが、イエスとヨハネの間にも、似た感じの空虚がぽっかり、口をあけているように思えます。(さっき、考察を留保した部分でいえば、この空虚を埋めうるのが、愛なのでしょう)

この補論・・・最後の晩餐から読み解くのは、まあ、まゆつばですが、新約聖書にも記述があるペテロと妻の遍歴は、そのまんまユージンとアイリーンの水俣行に重なってみえるやん!

ダ・ヴィンチとは、いまでいう映画プロデューサーの側面ありますから、この名作絵画にも、ただならぬ意味が込められてあるでしょうね。

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