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9日目:占いを人生のツールとして使う

占いは「信じるか」「信じないか」と語られることがあります。

占いを信じる、ということが具体的にどういうことなのか、占い師のわたしにもわかりません。わたしは占い師ですが、占いを信じているか、というと違う気がします。

「占いを信じて行動する」というと、占い以外のさまざまな状況や科学的な根拠を排除し、占いだけを行動の基準とするようなイメージがあります。それは占い師のわたしも望ましい態度だとは思いません。

占いは「科学の枠組みによらない、もうひとつの視点」を提供するものです。科学的な判断を妨げるものではありません。

わたしは「占いには科学的な根拠はありませんが、科学よりもっと歴史ある理論です」という表現をします。だから科学より占いを信じろ、というのではありません。占いを迷信や邪教と決めつけて排除するのはちょっと早計ではないか、ということを言うためにそのような表現をしています。

人間は科学が生まれるよりもずっと昔から占いに明日をたずねてきました。科学によって現代社会が成り立った今も、占いが提供できるもうひとつの視点はなくなっていないはずです。

もちろん占いには科学的な根拠はありませんし、占い師は病気の診断はできません。何かの問題について実際に解決に向けて各所に働きかけたり、当事者と関わっていくのも占い師の役目ではありません。

しかし、科学にもとづいたさまざまな職業や行政が「実際にどうするか」という部分を動かしていくとき、「変わっていく状況にどう向き合うか」という当事者の心の持ちように寄り添うとしたら、占い師でしょう。

行政や問題解決の専門職は、手に取って動かせる部分を動かしていきます。それは制度であり、サービスであり、ときには司法かもしれません。なんであれ明文化された「かたちあるもの」にのっとり、手続きを進めていくのが彼らの仕事です。

しかし、人間は「かたちあるもの」だけではできていません。脳があり、神経があり、骨や筋肉や皮膚があって、電気信号や脳内の物質によって体は動きますが、その人が「思ったこと」や「感じたこと」はそれら科学的な物質の動きだけでは説明ができません。

世の中のすべてを明文化することはできません。明文化する必要があるものだけが選んで明文化され、制度や仕組みとなっています。

そういった、科学的な思考による「明文化」されていない・されえないものを、占いがすくい上げることができる、とわたしは考えています。

だから「占いを信じるか」と聞かれたら、わたしは「信じるか、信じないかではなく、そこに占いはあるのだ」と答えます。

科学の視点とは違った切り口で世界を見るための、占いの視点があります。もちろん占いの視点からは見えないものがたくさんあります。ですが、科学の視点からは見えないものを、占いの視点から垣間見ることもできます。

占いを盲信して科学の視点を捨てるべきではありません。しかし、科学の視点だけが唯一正しいのだとして、占いの視点を一切取り入れない、というのはもったいないと思います。

人生を進めていく上で、もうひとつ違う視点を持ってみる。判断に迷ったとき、科学的な状況判断や他者との相談とあわせて、占いにもひとつたずねてみる。

「ツールとしての占い」は便利なものです。それが占いでなくても、さまざまな切り口から問題を検討することは悪いことではありませんし、占いにたずねたとき、思いもよらない自分の気持ちを発見して驚くこともあります。だからこそ、この数千年を、人類は占いとともに過ごしてきたのです。

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