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喋るばかりが能じゃない 〜立川談四楼

エッセイは、日常生活の中での体験話をベースにした軽く読める文章で、読んだ後に「そうだよなあ」と読者が作者の考えに共感できるようなものだと思います。

ただ、こういう文章をサラリと書くのもなかなか簡単ではありません。どうしたら書けるのか、まずは日常生活を送る上でアンテナを高く持つこと。あともう一つ大事なのは、自分らしさ、自分のカラー、考え方をどんな些細な出来事に対しても持ち続けるということかもしれません。

最近エッセイの魅力にハマった私は、光村図書から出ている日本文芸家協会編の「ベストエッセイ」を読んでおり、今回から3回は2011年版から面白かったエッセイについて書きたいと思います。

今回紹介したいのは、立川談四楼さんの「喋るばかりが能じゃない」です。

私は数年前まで5年くらい毎年地元のホールで開催される初笑いに行っていました。
最初に落語の魅力にハマったのは、林家正蔵さん(当時は林家こぶ平さん)で、とにかくアイスブレイクから本題に入るのが滑らかで、最初から最後まで笑っぱなし。確か、最初は「この前高座の帰り道にタクシーで…」というような何気ない話から、いつの間にか、物に名前があることの理由を子供に教えようとする父との珍問答の現代落語に話が展開していったかと記憶しています。

ベテランの落語家でも、毎回観客の反応が微妙に違うので、その反応を見ながら話し方を変えていく必要があるというようなお話や、高齢になってくると十八番の古典落語を披露する時に言葉が飛んでしまうことがベテランでも起きるので、何度高座の経験を積んでも緊張することには変わらないというお話を聞くと、落語家という職の方々は、言葉の力と自分という人間、そしてお客さんとして来てくれる人たちが必ず持っているはずの人情みたいなもの、それを頼みの綱としていつも真剣勝負に立っているのだなあと痛感します。

さて、そんな言葉の力を誰より信じている落語家の一人、立川談四楼さんがこのエッセイで書かれたことは、意外にも「気持ちを伝えるのに言葉が要らないこともある。いや、むしろ言葉なんかない方が、心に直接響くことがある」というお話でした。

立川さん曰く、落語家は真打ちや前座は高座の仕事がありますが、二つ目なんぞは副業で身を立てるのだそう。その副業の一つが、結婚式場での司会なのだそうです。

立川さんはもちろん真打ちを狙う二つ目ですから、副業とはいえ、面白い喋りができるようにと喋ることにストイックになるわけでしたが、ある日の式場で司会を務めた時に、その新郎の友人が施設で育った時からの友人で、お祝いの言葉を言おうにも感無量で言葉が出ず、ただ新郎と抱き合うだけで精一杯に。でもそれだけで、会場の皆さんにも十分に伝わったというエピソードをエッセイの中で紹介されていました。

言葉にしないと伝わらない。これは大原則だと思います。でも、だからこそ言葉にしなくても伝わるという関係性には、一種の憧れにも似た感情を抱きます。
そうは言っても、そういう関係性はとても深い、親しい関係性でしか起こらないわけではなく、例えばこの結婚式場にいた人達のように、案外普遍的な関係性でもある。そんな可能性に気付かせてくれるエッセイでした。
高座に上がるという体験をする落語家ならではの着眼点に基づいた眼から鱗なエッセイとなっていました。ご一読を。

(原出典:2011年7月30日 日本経済新聞夕刊)


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