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動物愛護に見る私達の倫理観ー過激派ヴィーガンの動きから

はじめに

近年、特に海外において環境活動家やいわゆる「過激派ヴィーガン」が問題となっている報道を時折見る。例えば以下の記事

この記事の場合、別件で食肉業者の男性が殺害されたことに対し「正義があった」とSNSに書き込んだヴィーガンの一人に、テロリズム擁護の罪で執行猶予付きの禁錮刑判決が下されたというものだ。このように倫理観がぶっ壊れたヴィーガンがたびたび報道され、元々いるヴィーガンの人たちはとても肩身が狭いでしょう。もちろん当記事ではヴィーガンの人たちを一緒くたにして悪者だと批判することはせず、このような違法行為に走る人を「過激派ヴィーガン」と呼ぶことにします。また、彼らの行動をもとに私達の「倫理観」がどういうものなのか、考えたことを書こうと思います。

生き物の区別を知る

まず、私達の倫理観の構造を知るヒントになったなと思う画像があります。下の画像です。

動物の境界線を語る画像

この画像では猫や犬などのいわゆる愛玩動物と、豚や牛などの家畜を対比して、わたしたちが愛玩動物を殺すことが残酷であると感じるのと同じように、家畜を殺すことも残酷だという主張の画像なのでしょう。どこの誰が作ったかはわかりませんでしたが、「おいおい極端な例だけじゃないか」と思ったのは私だけではないはずです。

この画像の対比を私は「愛玩動物と家畜」と解釈しましたが、それが正しかったとしてもこの世の生物はこれだけにとどまりません。恣意的に分類すれば、馬のような「愛玩でも家畜でもある動物」、熊や鹿・蜂のような「害獣・害虫」、ゴキブリやムカデのような「不快害虫」、アリや微生物のような「微小生物」など、多岐にわたります。

犬は愛玩動物に入れていますが、韓国では食べる習慣があると聞きます。馬は進んで殺そうとすることはないにしても、「死んだら食べてあげるのが弔い」という考え方もあります。熊は駆除することに反対する声はありますし、駆除する側としても「命の危険が脅かされるから仕方なく」といった程度でしょう。ただ、熊や鹿はシビエなどとして食べることはありますが、猫を食べたらドン引きされることもありそうです。
一方、不快害虫は多くの人が何のためらいもなく殺せるでしょうし、アリのような小さな生き物は子供は殺して遊ぶこともありますし、大人も踏んづけて殺しても気にもとめません。

他にも「イルカ・クジラ」の例も有名です。シーシェパードはテロ組織認定されていますが、それ以外の保護団体も海外にたくさんあるそうです。私自身海外の知り合いに「日本人はクジラを食べることがある」というと顔を真っ青にしてドン引きされた経験もあります。

倫理観は何に起因する?

さて、これらのように殺しても残酷だと思う動物と、思わない動物がいることは明白です。動物だけではなく植物も同様で、どこからどこまでを「食べてよし、殺してよし」とするかの境界は、各個人や派閥によって異なるでしょう。動物を飼育すると、飼料などとしてより多くの植物も殺すことになるから畜産に反対という量的解釈をする人もいます。
しかし、人間として生きている以上必ずどこかで何かを殺していることに違いはなく、ここで問題にしたいのは殺したり食べたりしたときにどのくらい私達の心が痛むかです。上で見たように、動物によって差が大きいのはなぜでしょうか。私の考えとしては結論「知能の共感」だと思うのです。

思考実験をいくつか

ここで思考実験をしてみるとしましょう。
例えば、かわいい猫ちゃんを蚊ほどのサイズにしてみたらどうでしょうか。ペチンと潰すことに抵抗は少なくなるでしょうか。私にはそうはなりません。
では逆に、蚊やアリを犬や猫のサイズにまで大きくしてみてはどうでしょうか。私は直感的にとても気持ち悪いと思います。家の中にいたらびっくり仰天です。かと言って殺してしまうのには抵抗がありますが、それは見た目の気持ち悪さに起因しそうです。もっと大きくなって車などをひっくり返せるくらいになると、ゲームや映画ではバンバン撃ち殺される対象になります。

次に、犬や猫にゴキブリと同じ動きをさせてみましょう。かわいいワンちゃんが無表情でカサカサ動くのを想像したくはありませんが、少なくとも可愛さは台無しです。逆にアリや蚊が犬と同じ動きをし、ご飯をおいしそうに食べたり主人が帰ったきたのを喜んだりしている動きを想像すると、一気に殺すことに抵抗ができると思います。少なくとも私はそうでした(以下略)

思考実験の結論

このように思考上色々な動物のサイズや中身や外見を入れ替えたりして、私は「残酷」という倫理観を抽出してみました。あくまで我流なので世間一般に認められている方法かはわかりませんが、以上から結論するに「知能が高い行動をする動物ほど殺すことに抵抗がある」ということがわかりました。

もちろんこれはあくまで私個人の結果ですので、他の人がやると別の結果がでてくるかもわかりません。しかし、これに従うと「知能が高い生物ほど、殺されるときに悲しみが感じられると考えられ、それを理解している人間もそれに共感してしまうために残酷に感じる」ということも言えそうです。実際人間も血しぶきをあげて阿鼻叫喚の中殺される描写と、天珠を全うして思い残すことはない!とラオウばりの死に方をする描写では、残酷さが天と地ほど違いますしね。

動物の中でも知能の高いイルカやクジラが愛護される対象になりやすいことも、これならある意味納得できます。あれ、それならサルやチンパンジーはもとい、カラスも愛護対象にならないといけないか…。

また、もしこれが正しければ、いわゆるヴィーガンの人々は豚や牛などの家畜動物の知能も深く理解し、「共感できる感性の持ち主」ということも言えるかもしれません。
(このように言うとよく聞こえますが、共感できる感性は必ずしもいいことではありません、また当然ですが過激な活動を擁護するものでもありません)
いやそれとも、豚や牛と同じくらいの知能しか…いえ、なんでもありません。

まとめ

  • 殺すことが残酷に思う生物と思わない生物の違いについて考えてみた

  • カゲラボの我流としては、各生物の様々な特徴を入れ替えた思考実験をしてみることで、その条件を絞り込むことができた

  • カゲラボの結論としては、「知能が高いほど殺すことを残酷に感じる」という結論を得た

  • もしこれが普遍的に言えれば、ヴィーガンの人々は共感性の高い人と言えるかもしれない

以上、私が考えてみたことでした。
正直言ってレベルは高くないですし、哲学や倫理や心理学などの専門の方からすれば当然だったり的外れだったりするかもしれませんが、その場合はツッコミをいれてください。

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