吉野家の呪文女(牛丼バカの思い出)

まだ、築地から豊洲に市場が移転するだいぶ前、晴海通りに面した吉野家によく行っていた。いまは建物がないけれど細い路地を挟んで串カツ田中の隣の角にあったはずである。

築地で吉野家と言えば、築地市場の中にあった一号店が有名だが一号店は24時間営業ではないので、仕事を終えて深夜に食事となると晴海通り店に行かないといけない。一号店も特殊なメニューや構造が面白いのだがそれはまた別の機会に紹介したい。

幾度となく深夜に訪問した晴海通り店で遭遇した珍事が忘れられない。

このお店、研修に使われることが多いのだろう。
別業種から転職してきたと思われる30代の男性が夜の担当だった。彼と若いアルバイトで深夜の時間帯を回しており、男性はバイト君と真剣に「君はそういう風に考えるのか。なるほど。」と議論していることが多かった。

その日はおそらく午前2時くらいだったと思う。
佃島のオフィスから自転車で晴海通り店に向かった。
店舗はカウンターが10席くらいだったろうか。ちょうど、左の角のあたりに座って注文をした。

いつものように男性とバイト君のディスカッションをききながら、牛皿とビールをやっていると、右奥のカウンターに青い作業着を着た30歳くらいの運送業と思われる女性が座った。髪を結わえており、女子柔道の軽中量級の選手といった雰囲気である。

店舗を切り盛りする男性、ここでは店長ということにしておこう、彼が

「ご注文は?」

とたずねると、女性は早口かつわりと大きな声で

「牛丼、波、軽、つゆぬき、ねぎちょいだく、とろぬき、頭大盛りの弁当」

といった内容の言葉を一気にまくしたてた。店内には自分を含め、2〜3人の客がいたと思うがその誰もが彼女に目を向けた。というよりも、何が起こったのかわからなかった。

当然、店長も何が起こったのかわからないようで、

「はい?もう一度、お願いできますか」

と返すと、嘲笑の眼差しで彼女はもう一度、更にスピードアップして、

「だから。牛丼、波、軽、つゆぬき、ねぎちょいだく、とろぬき、頭大盛りを持ち帰り」

と語気を強めて再び注文の呪文を唱えた。二度目の詠唱はほぼマントラであったように思う。店長は、なんとか聞き取れた単語を書きとめつつ、注文の再詠唱を試みた。しかし、呪文は間違っていたようで、女性は冷ややに悪魔的な笑みとともに詠唱を繰り返すのであった。

3〜4回の女性の悪魔的詠唱と店長の再詠唱が繰り返され、どうにか注文を通すまでおそらく、3分はかかったであろう。弁当を受け取ると、女性は下民を蔑むかのような笑みとともに去っていった。

呪文の応酬が繰り返された吉野家の店舗にはどうにか呪文の悪魔を退けた安堵の空気が流れた。店長とバイト君の身体から力が抜けていくのがわかった。

我々も物凄いものを観てしまったせいか、どっと疲れがこみ上げてきた。食事を終え、支払いを済ませているとバイト君が

「あの人、昨夜も来たんですよ。明日も来るんですかね」

と店長につぶやいた。店長は顔を歪めつつも

「君はどう思う?」

といつものようにバイト君と議論をはじめたのであった。

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