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東京芸人の運命を変えたひとり 芸人・リッキーが大手芸能事務所社長になるまで 8

サンミュージックから復帰要請 反対を押し切りお笑い班始動

芸人ゼロ… ボキャブラブームに乗り損ねた

ブッチャーブラザーズはJCAで6期まで教えた後、人力舎を辞めてまたフリーになる。仕事がなくなり、困っていたところに声をかけてきたのがサンミュージックだった。1997年のことだ。

当時、フジテレビの「ボキャブラ天国」から次々と人気芸人が生まれていたが、芸人がいないサンミュージックは蚊帳の外だった。その状況を見て相沢正久副社長(当時。後に2代目社長。現会長)が決断した。事務所内に根強かった反対の声を押し切って、「お笑い班」を作ることを決めたのだ。

そこで呼び戻したのが、人力舎で講師を務め、若手のスカウトもしていたブッチャーブラザーズだった。過去に2度辞めた古巣からの再復帰要請である。

岡社長とぶっちゃあは、3つの条件をあげ、「受けてくれるなら戻ります」と返答した。

その条件とは、「ダンディ坂野をはじめとする弟子も受け入れ、事務所を稽古場としても使わせて欲しい」「最低5年間は我慢して欲しい」「芸人としての契約とプロデューサーフィーの支払い」。相沢副社長はこの条件を全て飲み、晴れてサンミュージックの芸人部門が船出する。

今でこそ人気芸人を多数抱えるサンミュージックだが、芽が出るまでには時間がかかった。約束の5年を過ぎてもブレイクする芸人が現れなかったのだ。
岡社長とぶっちゃあは“芸人部門消滅の危機”に直面していた。いつ「撤退」を宣告されるかとどきどきしながら過ごしていたという。

ここで終わっていたら、竹山隆範、小島よしお、カズレーザーらの人生は全く違うものになっていただろう。

ダンディ坂野誕生!全く期待してなかったのに窮地を救う

窮地を救ったのは、岡社長が弟子として連れてきたダンディ坂野だった。

ダンディ坂野はアイドルになりたかった

「約束の5年が過ぎても誰も売れず、さらに半年が過ぎました。僕らは『もう切られるな』と目立たないように息を殺して過ごしていました。そんな時にダンディのテレビレギュラーが入るようになり、2002年にドラッグストア『マツモトキヨシ』のCMが決まったんです。そこからです、ダンディがブレイクしたのは。ダンディのネタは、ぶっちゃあと一緒に少しずつ形を整えてできたものです」

実は岡社長、ダンディには期待してなかったという。

「坂野は確か、人力舎の芸人養成所に3~4年いたと思います。僕は生徒にアドバイスする内容をメモしていたんですが、坂野は空欄。アドバイスするレベルにも達してなかったんです。全く芽が出ないから、僕とぶっちゃあは何度も『やめて(石川の)実家に帰った方がいい』と言いました」

岡社長のJCA講師時代のノートより。坂野だけが空欄。
上には山崎、下には柴田の名前がある

ダンディは芸人学校の生徒として、“落第”状態だった。それでも通い続けた。

「坂野は入った時点で26歳だったかな。30歳が近づいてきてもどうにもならないし、一度、聞いたんです。『何をやりたいの?』って。坂野の答えは『田原俊彦さんみたいなアイドルになりたくて…』。想像もしない答えが返ってきて、僕は爆笑しましたよ(笑)。坂野の言葉で一番笑いました」

さすがの岡社長もその言葉に意表を突かれた。

「そもそもなんで芸人の学校におるねん!それ以上にアイドルになれるタイプじゃないやろ!って話です。聞けば『芸能界への入り口として入りやすそうだったからJCAに入りました。アイドルは諦めてませんが、こっちの方が向いていそうだから』と。僕はこの時、はっきりこう言いました。『おまえ全然おもしろくないぞ! 絶対向いてない』と(笑)」

「ゲッツ!」爆誕

そんなある日、ダンディは後の定番ネタ=“ゲッツ”が生まれるきっかけをつかむ。

「人力舎の発表会で、坂野はクイズネタの司会役をやってました。その時、おもしろいことを言った人に指差しポーズをしながら『ゲット!』と言い出したんですね。“ポイントゲット”を省略してゲットです。この時、いけそうな感じがして『ゲットでギャグを作って行ったらどう?ミスコンでの宝田明さんや岡田真澄さんのような話し方を参考にして』とアドバイスをしました」。

ブッチャーブラザーズが人力舎を辞めると、ダンディーも行動を共にした。芸名は岡社長が好きだった人形劇「ひょっこりひょうたん島」のダンディというキャラから名付けた。

ぶっちゃあ、岡社長との3時間半の“地獄のゲッツ特訓”などを経て形ができてくると、仕事が少しずつ増えていく。

当初は黒いタキシードを着てネタをやっていたが、黄色いタキシードに変わったのは、CM用にマツキヨカラーである黄色のタキシードが作られ、それをプレゼントしてもらったからだった。

なお、ゲットが“ゲッツ”に変わったのは「滑舌が悪くてそう聞こえるし、SMAPの“ゲッチュー”も混ざってそうなりました」とのこと。

ダンディは“一発屋芸人”として見られがちだが、実はコンスタントにCMの仕事が入り続けており、安定して事務所の売り上げに貢献し続けている。(続く)

トップ写真も岡社長のJCA講師時代のノート。こちらも坂野は空欄。
下にはアンタッチャブルの企画タイトルが
実はダンディ坂野がサンミュージックの芸人部門を救っていた


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