見島の歴史(16) 宇津村の開拓

宇津村に、何時の時代から人が住み始めたのか文献はなく、はっきりとしたことは分からないが、一説によれば延宝6年(1678)に、本郷(本村)の百姓、三右衛門が定住したのが始まりとされている。

しかし、これより先、約900年前の宝亀年(770~779)には、稲作が農業の支配的生業として盛んになっており、後に本村では、田作り出来る平野部が全て耕されていき、いつの時代か分からないが、一部の農民が宇津の平地に着目、田の出作りを始めたという。これが、宇津村の開拓の第一歩と考えられないだろうか。
当時は宇津への道はなく、獣道のような狭い道を拓いて行ったと考えられ、毎日この山道を、朝早くから本村を出て田作りし、夜遅く作業を終えて帰って来たと思われる。しかし、この様な作業は長続きする筈もなく、農民は、次第に小屋掛けして宿るようになり、幾日か農作業に励み、本村に帰って来る生活が続いたと考えられる。

こうした半永住的な小屋掛けの生活をしたことを実証する例として、先ず大同元年(80 6)に中国より流されたとする弘法大師作の観音像を、田口家祖先のヨソベーが拾ったという観音伝説があげられる。降っては、沙弥が観音付近に居を構えて、田作りをしていたとい う沙弥田(砂見田)伝説、又、平家の落人(文治元年(1185))を助けて、匿うたとする平家伝説があり、宇津に農民が居住していたと言える。応永3年(1406)には、島酋である山田氏が宇津観音堂に鰐口を寄進しており、宇津村には、正規の住宅としてではなく、 山小屋的な住宅があって、次第に一定期間の長い日々を暮らすようになったと考えられる。

寛文11年(1672)に、北前船の寄港が始まり、出作りしていた三右衛門が、北前船 の船乗りや乗客のの利便を図る為に寄宿の宿として住宅を構え定住したのが記録として残り、宇津村の開拓者とされたのであろうと考えるのが至当であろう。そして、田の出作りはこの時代まで続いたと考えられ、6~7年後には、定住する者が急増したという。

宇津村として、いつ正式に認められたかは定かでないが、本村の枝村として、農業を基盤として、 北前船の寄港により、寄宿問屋の増加によって海と深い関係を持ちつつ、発展、繁栄していったのである。


(文責 福永邦昭)

※原文ママ

引用元:見島公民館だより わ 第25号(平成19年5月)

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