見島の歴史(18)北前船その2

宇津村は、北前船の寄港によって繁栄し、船宿として数件の名が見られる。
船宿には、それぞれ指定した船があり、その船が入港すると、船宿に雇われた百姓達がテンマに乗り組み競争して、船頭始め乗客を迎えに行った。船宿では風呂を沸かし、ご馳走を作り歓待し、休息の場を提供するのであって、それは出港の日まで続いた。出港する際に、船頭は茶代として礼金をやっており、一定額の金でなく、その時、その時、又船ごとに異なったといわれる。

「宇津港諸國廻船の出入津」山口県第二十六大区第十四小邑、長州見島郡宇津邑によれば、 一年間に計468隻の寄港があったと誌されている。
これに対し本村港は、弯としての形態はあるものの、港として機能し得ない湾であるため、入港もなく、船宿もなかった。しかし、住吉神社には、大阪、海部堀川町の塩魚、鰹節を扱う問屋、今津屋又兵衛が奉納した狛犬一対があり、世話人として本浦の氏名、船名がみられる。(この狛犬は、昭和31年頃子どもが壊し、再建されたものである。)又讃岐坊には、北前船の絵馬の奉納があり、現存している。(宇津観音堂にも以前見られたが、現在はない)

宇津の船宿は、あくまでも一時的な休息のものであった為に、積み荷の売買もなく、女郎もいなかった。寄港したからと言って乗組員は休むわけでなく、船の仕事をしながら天候の回復を待っていて、神仏に天候の回復を祈るのも大事な仕事の一つだと、日誌に記されている。

10日もその上も足止めされると「日和申し」と称して、廻船の大小により、米三升、五升と出し合い、飯を炊き、陸に上がって相撲をとり、又太鼓を叩き、唄を唄い、踊ったりし村人に見物させ、飯をふるまったという。宇津の人々も相撲の相手をし、唄、太鼓、踊りを習う者も多く、「日和申し」は賑わったという。こうした交流によって各地の文化、民俗、風習、民謡等が宇津に入り、後に本村に伝えられたのである。廻船は、様々の面で、島の文化向上に貢献したといえる。

明治15年(1882)敦賀から琵琶湖岸、長浜に鉄道が開通すると共に、敦賀以西から の北前船は激減し、ついには姿を消し、陸送の発達により宇津港への寄港はなくなっていった。


(文責 福永邦昭)

※原文ママ

引用元 : 見島公民館だより わ 第27号(平成19年7月)

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