見島の歴史(19)港について2

新川港の護岸はできたものの、干潮時には、大きい荷方船は接岸できず、船を沖合において、テンマで積み下ろしする状態であった。

明治末期、共同負債が愁眉を開いて物資の海上輸送が増大、活気が溢れるようになり、同40年(1908)に「中の波戸(旧定期船発着場)」が築工、整備され、通船はこの波戸から発着するようになった。又、「西の波戸(中津ち)」の構築もみられた。昭和2ねん(1928)トビ瀬から西に向けて小さい波戸(ふる波止)が出来たが、時化になると、小浜へは相変わらず波浪の侵入が激しかった。

昭和7年(1932)船溜防波堤修築工事がトビ瀬から沖へ55メートル着工した。黒瀬組が、見島周辺の大きな石を採って築いた波止で、新波止と呼んだ。この波止のお陰で、波浪の侵入はかなり防げたが、港内は依然として浅く、漁船の大型化は望めなかったが、昭和17年(1942)に、見島〜萩間に渡船「見島丸(約37屯)」が中の波止を発着場として就航するようになり、漁船の機械化が進み大型化が計られた。昭和26年(1951)頃から、漁港内の浚渫や岩礁の除去が進み、各波止の改修築や護岸工事が行われて、漁港としての形態が次第と整っていった。

一方宇津港は、天然の良港として、北前船の避難港として、大いに活用されてきたが、防波堤の設備もなく、北東風の烈しい時は波浪が高まり、港への出入りは困難で、碇泊も安全でなかった。

大正12年(1923)県下北部の漁船避難港に指定され築港が計画、「大割れ」「とんびら」から防波堤を築工し、更に内防波堤と弁天波止場を築工し、埋め立てを3ケ年計画、35万円の予算で県の直轄事業として計画されたが、関東大震災が起こり、工事の大幅縮小が余儀なくされ、外防波堤の築堤は削除され、工事費は14万円となった。しかも、その内の60%、8万3千円は北浦漁民、水産会(漁協の前身)の負担となったが、その資金によって昭和2年(1927)3月に、竣工した。

昭和28年(1953)離島振興法が制定されたが、見島は米軍の駐留があり、その他の面からも理由づけられ、第一指定から除外された。

昭和30年(1955)第2次の指定を受け、本村港、宇津港共に第四種漁港の指定を受けて着工、平成17年(2005)完工。現在に至っている。

(文責 福永邦昭)

※原文ママ

引用元 : 見島公民館だより わ 第30号(平成19年10月)

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