見出し画像

綺麗な文章を書こうとしなくていいし事実だって傷つきたくないなら半分嘘だと思って読むくらいがちょうどいいのかもしれない。

胸につまる言葉を下書きに溜めていって更に胸が詰まるということを繰り返している師走。

人に見せられない言葉、文章というのは誰かを傷つけるかもしれない、もしくは、巡って自分を傷つけてしまうかもしれないという危険を孕んでいて(普段の発言だってそう)あまり表に出したくないと思っている。しかし、だ。こうして言葉にしようとしている時点で言葉は表に向けて放たれている。だから、今回は下書きの文章を修正した記事を投稿しようと思う。

下書きは、一度外に放とうとした言葉の仮置きであり誰にも言えない本音。

綺麗な文章を書こうとするからどんどん下書きが溜まっていく。綺麗な文章とはなにか。言葉にも賞味期限がある。言葉だって鮮度が大事と言われるくらいに生きている。鮮度が低いほど綺麗な文章から離れていくのではないだろうか。

例えば、Twitter。このツールは誰もがリアルタイムに思ったことをその時々で自由に発言できるプラットフォームとなっている。ここでうまれたばかりの鮮度の高い文章を呟く。この時、大抵の人はあまりその言葉の意味を深く考えてはいない。鮮度の高い文章とは衝動だ。衝動がエネルギーとなって文章がツイートされる。

私はよく、何も考えず衝動でツイートをし翌日ツイートを消すということをしている。衝動で鮮度の高い言葉を放ち、翌日、冷静さを取り戻した頭、理性で状況を把握してツイートを消している。(ツイートは一度呟いたらその事実は消えないと思ったほうがいいのに。)

Twitterでわりと前から、ツイートの発言を叩いてみんなで晒すという行為が頻繁にされていると思う。また、右か左か、〇か✕か、選択肢がそれ以外にないと言わんばかりに肯定や否定のどちらかで物事を解決しようとする傾向がある。それが、ストレスやイライラの元にはなっていないだろうか。

傷つきたくない、出来れば、余計に怒りたくない、そのためにはどういう心持ちでいたらいいのだろうか。

誰しもが何かに正解や正義などを執着に求めるという傾向は苦しくはないだろうか。私を含めてみんな人間だ。間違いは誰だってする。心が狭いから視野が狭いから、さらに、心が苦しくなるのか。そうなるのは心に空白が、余裕が、ないからではないか。

俯瞰する力、物事に白黒つけずにひとまず置いておく、何でもかんでも、自分の物差しや他人の物差しで良い悪いと決めつけない。時にはそういう否定も肯定もしない空白を作ることが大切ではないだろうか。その空白は静寂や余裕をうむ。

鮮度の高い文章を放つと同時に、そのことに対して過剰に反応しない、揚げ足の取り合いをしない、否定も肯定もしない空白、余裕を意識的につくる努力が必要ではないか。

最後に、時々自分が思うこと。他人の言葉で傷つくのが嫌なら、自分が見ているものが全て正しいとおわないのも必要なスキルではないかと思う。その人の視点での事実と自分の視点での事実がある。その齟齬をなくすようにつじつまを合わせることも大事だが、裏切られてもいい、半分嘘だと思って読むくらいが心にはちょうどいいのかもしれない。