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『すべて、狂った水槽』第一話

【あらすじ】
主人公はクラスメイトの腕に痣を見つける。加虐性に悩むクラスメイト自身が付けているものだと悟ると、自分が身代わりになることを申し出る。主人公の提案を跳ね除けるクラスメイトだったが、煽られて一度だけ手を出し、通りがかりの先生にいじめを疑われる。クラスメイトの疑いを晴らすため、主人公は黒ずんだ肌を見せ、これまで義父から受けてきた虐待を打ち明ける。被虐待児だった主人公に慄くクラスメイトだったが、高校卒業後も家を訪れる不思議な関係性が続く。混泳させられないオス同士のベタを同じ水槽に入れようとする主人公を見て、クラスメイトは長きに渡る虐待被害の根深さを知る。



【第一話】
 それは派手な色合いの長びれを揺らし、僕の目の前を通り過ぎた。エアレーションから出る泡々に振り返ることなく、右に左にと限りある水槽の中を悠然とゆく。僕はこの深海を想わせる真っ青な熱帯魚に見惚れるふりをして、水槽の向こう側に透ける物憂げな男の横顔を味わっていた。

「なんだか君みたいで」
 買っちゃったんだよね、と溢す僕など視界の端にも入れないふたりは、ガラス越しに醸す雰囲気がひどく似ていた。
「”イイトコノデ”って感じがするだろう」
 ベタは、その背びれや尾びれで舐めるように水に触れる。水の重たさを物ともせず、長いひれで一瞬一瞬を絡め取ってゆく生き物は、澄ました横顔でまた僕を袖にする。
 通りがかりの店でこの青に吸い込まれたのは、定めのようなものだった。儚げな横顔に問いの答えを求めたくなった日、僕は”この子”を迎えた。


「この子、ひとりじゃないとだめなんだってさ。可哀想だけど」
 何気なく言った言葉に、彼は「なんで」と珍しく食いついた。
「傷つけてしまうんだ」
 相手を、と口走ったころには、彼の口元がピクリと強張ったのが見えた。冷たいフローリングを眺めたかと思えば、すぐに水槽の中のベタを睨む。そんなことを知るわけもなく、ピアノを弾く指先のようにベタは滑らかにひれを動かした。

 ベタはもともと気性が荒い魚だ。闘魚とも呼ばれるベタ・スプレンデンスは、他の個体を見ると立ちどころに激しい縄張り争いを始め、その美しいひれを傷だらけにしてしまう。どちらかが死ぬまでやり合うこともあるという。

「だから俺か」

 ひとつ間を置いて、流し目に僕を見る瞳とぶつかった。わざと大きく口を開けて笑顔を見せる。上がり切った口角はどこかぎこちなく、冷ややかな花がふたりだけの部屋に咲いた。

 ああ、また失敗した。
 こうして自分に落胆してゆく。

「違うよ。それは見た目の話で」
 彼はいつだってひとり、暗い海の底に沈んでしまおうとする。
「そいつはひとりがお似合いだ」
 そう吐き捨てるように言った彼が、おもむろに水槽へと近づいた。僕はマグカップを握りしめ、二杯目のコーヒーを取りに行く。入れ替わるように水槽の前に立った彼は、青いベタをまじまじと眺めた。

「いる?」
 少し離れたキッチンから、マグカップをひょいと掲げて声をかける。
 水槽を挟んで反対側にいる彼に、僕の声は届かなかった。なにやらベタと話をしているようで、水槽越しに柔らかく動く口元に、心が曇った。


 金木犀の香りが鼻を掠めるようになったある日、僕はベタを購入した店を訪れていた。
「最近、フレアリングをしなくて」
 ベタを買ったとき、初めての飼育だと打ち明けると、親切に品種やその特徴を説明してくれた店員がいた。ベタの動きが気になっていた僕は、スマホで検索する指を止め、ぼんやりと浮かんだ彼女の顔に縋る気持ちで家を出た。

 フレアリングとは、雄のベタがエラを開き、ひれを大きく広げる威嚇行動だ。しかし観賞魚となった今は、ひれの癒着防止の意味合いが強い。毎日定期的に動かすことで、ひれがくっついて泳げなくならないようにしている。
 縄張り意識の強い闘魚の本能はどうしてしまったのか。飼い始めたばかりのころは、一際大きなひれをなびかせていたというのに。

「たまにいるんですよね。やらなくなる個体が」
 眉間にしわを寄せ、神妙な顔で店員の話を聞く。
「飼う環境が悪いんですかね」
 僕の問いに、あ、いや、と彼女はなにかを言いかけると、そのままバックヤードに消えていった。数十秒ほどでいそいそ帰ってきたかと思えば、店員の腕にはいくつか水槽内を彩るグッズと手鏡があった。

「飽きたのかも。それか、刺激が足りない」
 パッと目についたのは手鏡だった。明らかに女性物で、言われずとも年季が入っているのがわかる。黒の下地に大きな白の花柄だった。ところどころ模様のコーティングが剥げ、到底売り物には見えない。
「鏡ですか」
 用途のわからないそれを見て、思わず疑問を口にした。すると店員は手鏡を握り直し、こちらに向けた。
「自分が動く姿を他の雄と勘違いして、フレアリングすることがあるんです。本能ですから」
 本能――あの子も他の雄を前にしたら、互いに傷つけ合うのだろうか。どちらかの動きが鈍るまで、美しい青の長びれを傷ませながら歪み合うのだろうか。

 「その子の性格に依りますし、ともに育った個体にはしないなんて話も聞きますけど……」と、店員は自信無げに付け加える。彼女が持つ手鏡の中には、腑抜けた男がひとり映っていた。

「ベタは混泳させられないので。とくに雄同士は」
 家にある鏡で全然大丈夫ですから、と話を続ける声が遠くなった。これぞチャンスとばかりに物を売りつけるでもない店員の名札には、苗字の上に小さく「熱帯魚が好きです」と書いてあった。
「そう、でしたね」
 曖昧な返事を宙に投げる。ひとりでに傷ついたのは、古びた己のひれだった。


「他の子も見てみたいのですが」
 一緒には入れないので、と前置きし、案内されるまま以前も来た熱帯魚売り場へ向かう。
「小さめですが、よく動く子ですよ」
 店員が示す先を見ると、そこには赤一色のベタがいた。小ぶりな体は、青のあの子より一回りは小さい。きっと虐げられる側だろう、と一目見て湧いたのは同族嫌悪のような感情だった。

「泳ぎは下手じゃないんですね。アカベタなのに」
 冷めた目で水槽を見つめる僕に、店員は「この子は上手です」ときっぱり言った。火がついたのを隠し切れない声色に、ああ、すみません、と慌てて情けなく釈明をする。
「アカベタって、”すごく下手”という意味があるので、つい」
 面白くないことを言いました、と頬をかく。彼女は眉を引き上げ、しまった、と言うような顔を見せた。

「わたし、学がないもので」
 引き上げられた唇からはチラリと歯が見える。苦しい微笑を浮かべ、シャレも分からない女だと卑下する彼女を見て、今日来た目的を思い返した。

「熱帯魚のことはお詳しいじゃないですか」
 あなたに聞くのが一番だと思った、と伝えるには純粋さも色気も足りなかった。

「仕事ですから」

「それだけですかね」

 え? と再び眉を上げる彼女に、それ、と言って、僕は彼女が胸に付けた手書きの名札を指差した。

「ああ、すみません」
 おくれ毛を耳にかけながらバツの悪い顔をする彼女に、そう言うんではなくて、と不格好にまごつく。プライベートに口を挟んだような気まずさに、思わず唇を結んだ。
「でも、あなたも同じじゃないですか」
 屈託のない笑顔を前に、すぐには答えられなかった。ふりふりと瞬きを数回して、逃げるように左上へ視線を逸らす。周囲の水槽から複数のモーター音が響いていた。己の芯が震えていると気づくまで、幾許かの時を要した。

「どうしようもなく、惹きつけられてしまうんです。昔から」
 僕は瑠璃色の子を飼うまで、こんなに優美な魚がいることすら知らなかった。


 赤いベタとともに家路に着くと、アパートの部屋の前には見慣れた男が寄りかかっていた。
 僕はリュックから鍵を取り出し、ガチャッと音が聞こえたのを確認すると、彼に目配せをしてから部屋に入った。家主に続いて敷居を跨ぐのは、もう慣れたものだ。
 靴を揃えようと後ろを向いたとき、玄関に足を踏み入れたばかりの彼から馥郁と香る気配を感じた。
「連れてきているよ」
 僕は、彼の肩に座っていた橙色の小花を摘んだ。小指の爪ほどにも満たない花からは、まだ強い香りが残っている。彼は自分の肩に視線を落とすと、花をなぞった延長線上にいる僕をちらりと見た。長いまつ毛がゆっくりと上がり、現れた瞳は今日も海の底のような静寂さを秘める。この瞳を見つめる度に僕は、青いあの子を大事にしようと決意するのだ。
 金木犀の匂いは、僕にはひどく甘だるかった。

 家に上がると、僕はダイニングテーブルの端に金木犀の花を置いた。すぐそばには青いベタが悠々と泳いでいる。見られまいと、新入りの赤いベタを水槽から離れた位置に置いた。
 コーヒーしかないからね、と言って僕は冷蔵庫からボトルを取り出した。夏の残りだ。とぷとぷとアイスコーヒーをグラスに注いでいると、隠していた赤い子を見て彼が口を開いた。
「また買ったのか」
「そう。でも別居だよ。二世帯住宅にリフォームするんだ」
 コツン、とグラスを彼の前に置き、ダイニングテーブルの空いているスペースで今日買った荷物を広げた。
 仕切りが二枚。透明なものと、色つきのものだ。
 あの真っ直ぐな店員は、大きめの水槽であるならば、真ん中で区切ることを提案してきた。普段は互いが目隠しになるように色つきの仕切りで区切り、フレアリングをさせたいときは一時的に透明な仕切りを使う。一日十分程度だけ、相手の姿が見えるようにしてやるのだ。

「二世帯住宅? ルームシェアとか、もっと洒落た言葉があるだろ」
 彼は、ハッと小馬鹿にしたように笑った。
「フレアリングのために一緒にいるだけ。ほとんど相手の生活に干渉しないんだから、二世帯住宅で同居と呼ぶのがぴったりさ」
 僕は仕切りの外袋を丁寧に外しながら答えた。視界の端に、彼のきまり悪い顔が見えた。なんだか言葉を求められそうな気がして、僕は逃げるようにリフォームを始めた。

 青いベタをすくい、一時的に水槽から出す。生き物がいなくなった水槽に手を奥まで突っ込み、真ん中あたりに置いていた水草と石をよけた。仕切りのセットは簡単だった。それらしく模様替えをし、先住者を右側の部屋に住まわせる。
「いくらなんでも、顔合わせくらい必要か」
 少々狭くなった水槽でも変わらず自由に泳ぐ青を見ながら、僕はぼそりとつぶやいた。そして隠しておいたビニール袋を持ち上げ、再び水槽の前に戻った。
「瑠璃、隣に住む子だよ」
 大量の水ではち切れそうなビニール袋を破かないようにしながら、青いベタの前にそっと差し出した。 「雄じゃなかったのか」
 ふと、頭の後ろから声がした。
 青いベタも赤いベタも雄だ。ひれが長く、見ごたえがあるのが雄の特徴だった。
「この子の青がさ」
 この瑠璃色に、近くて遠い海の底を重ねていると知ったところで、彼が全てを知ることはない。
 海は大部分が未開だ。空に人間を乗せた金属塊が飛び、地面の裏側に住む人に瞬時に声を届けられるようになっても、海についてはほんの一割程度しか明らかになっていない。知ろうとしたひとたちが血を吐く思いで取り組み、やっと一割だ。そう、興味のない人間が成せる技ではないのだ。

 意識を前方に戻し、紹介の続きを話す。
「瑠璃がいたお店から来たんだ。君より少し小さいけど、泳ぎが得意な子だよ。名前は……」
 まだ決めてなかった。なにしろさっき出会ったのだ。赤いベタには目を奪われるような引力はなかったが、ほとんど即決だった。
「なにがいいかな」
 振り向きざまに彼を見ると、気怠そうな声が漏れる。大きなため息が聞こえたかと思えば、睨みを聞かせながらスマホを握り調べ物を始めた。

 この律儀さが彼の首を絞めている。そう肌で感じる度に、僕は遠くを見つめた。


***


「僕じゃ代わりにならないか」

 高校三年の夏、彼の左腕に四センチほどの痣を見つけた。だいたい同じ場所にあるそれは、いつも赤みを帯びた紫色をしていた。血管まで達する衝撃が頻繁にある証拠だ。
 彼は制服の半袖シャツの下に、黒いアームスリーブをつけている。ピチッとした素材は、肌に張り付いてしなやかな筋肉のかたちを浮かび上がらせた。運動部の生徒なら、なにも珍しくない。

 部活が始まる前、彼は決まってロッカーの前でアームスリーブを直す。ひとり周囲に背を向け、黒い布をずりずりと引いたり慣らしたりしながら整えていた。しっくり来たところで手を止めると、ロッカーで待っていたバッグを掴み体育館へ向かう。
 そんな一瞬の間に、ある日僕は紫色に変わろうとしている痣を見つけた。その後も常に新しい痣を抱えていることに違和感を感じ、彼を目で追うようになった。――いや、実際はもうだいぶ前から、彼から目を離せなくなっていた。ぶっきらぼうな口利きをするくせに、端々に典雅さを漂わせる彼が、僕の目には奇妙な生き物に映っていた。

 昔読んだ本の言葉を思い出す。

 ≪あのひとの優しさは、碁盤の目のようにきっちりしている。育ちのいい彼らしい一面だ。手には花を持ち、店の予約を欠かさない。そしてきっと今日も、わたしの好きなチョコレートをバッグの内側に忍ばせている。息が詰まるような完全な幸福の中に、わたしは確かな迷いを感じる。それは微笑みながらわたしの首に手をかける、幼き頃より染みついた呪いだ。≫

 堅苦しさは直せない。そうしつけられたら、最後だと。

 理解も決定もできない歳のころから毎日刻み込まれたものを剥がすのは、容易ではない。端をぴったり揃えて服を畳むことも、溢したジュースを隠すように拭くことも、みな同じ。意図せずに自身の生活の中に紛れ、周りにそれがあたかも性格のように印象付ける。育ちは呪いだ。


 僕には分かっていた。その痣は、彼自身がつけている、と。

「ついにいかれたのか」
 彼はバックを肩にかけ、首を触り傾げながらひやかした。

 帰り道の河川敷で、背の高い草が青々と生い茂る暑い日だった。歩くだけでじんわりと汗ばみ、頭がおかしくなった人間がその辺に湧く。風を切るために交通違反をするもの、一枚余分に脱いで職務質問を受けるもの、夏はそういう季節だ。みんな、どこかいかれている。

 彼に、痣が見えたことを話した。
 「ずっと前から気づいていた」と言った途端、目つきが鋭くなった。疑心にも恐怖にも見える双眸が、僕を捕らえて離さない。よく見ると、彼は痣があるあたりのアームスリーブをぎゅっと握っていた。
 なんで、とは聞かなかった。聞いてもどうにもならない。彼は、この手段を選んだのだ。それがすべてだ。
「僕、慣れてるから」
 そう口にした途端、彼の喉仏が上下した。理解できないものを見る瞳の彼に、不思議と動じることはなかった。
 なんで、と聞いたのは彼だった。
 誰にも話すつもりはなかったが、もし聞いてくれるひとがいるなら話してやろうとも思っていた。哀れみの目を向けられたいわけでも、話を聞かされた相手を困らせたいわけでもなかったからだ。むしろ自分が欠けた人間であると明らかにするような、恥の告白に似ていた。


 物心ついたときには、すでに父親が変わっていた。義父になったひとは導火線の短い男だったので、失敗を繰り返す子どもの僕を嫌った。温厚だと思っていた母親を事なかれ主義の愚かな女だと知ったのは、少し大きくなってからだ。
 おかげで幼少期からずっと痣を眺めて過ごした。そうして皮膚の下で血管が破れ、血液が溢れ出し、やがて再吸収されていく過程の微細な変化に詳しい子どもができあがった。

「だから、問題ない」

 彼が抱えているのは、加虐性だ。
 ある昼下がり、授業を受ける教室で義父と同じ目を見た。普段の彼に似合わない猛々しさで、目先の黒板を睨みつける。そんな瞳をしているくせに、彼は堪えるように唇を結び、拳をきつく握る。あの男とは明確に異なっていた。
 そして、机の下でドンッと自分の腕を何度か殴った。

 ドンッ

 ドンッ……

 続く鈍い音に、周りは誰ひとり気づかない。僕にはこれほど大きく、鼓膜を揺らす音はないと言うのに。心臓が激しく僕の胸を叩く。乱れた心拍のリズムにあてられて、息が吸えているのかどうかもわからなくなっていた。


「怪我してほしくないんだ」
 こんなに綺麗なのに。

 艶のある髪はいつもさらりと軽い。長いまつ毛をくぐるとくっきりとした二重が現れ、その下にある真っ黒の瞳はそこらじゅうの光を集めて不気味なほどに輝く。決して派手な見てくれではないのに、身の内に由来した端正さに心が騒つく。
 彼が他人を巻き込むまいとこの”自己処理”にたどり着いたと悟った僕は、標的になることを申し出たのだった。いかれた提案なのは理解している。これも夏の波間に滑り込ませてしまいたかった。

 気がづくと僕は彼の左腕をとり、アームスリーブをめくっていた。
「また、紫になってる」
 数日前に見たものは黒ずんでいた。そこに一部重なる形で、新たな痣ができている。
「……なんなんだ、お前」
 得体の知れないものに邂逅した彼は、それから一言も話さなかった。沈黙し、目を見開いたままその場に立ち尽くす。その間も指先から伝わる振動は、間断なく僕の手のひらに届く。

 ああ、失敗した。


 それから、人目につかない場所を選び、僕らは時々会うようになった。しかし何度会っても、彼が僕に手をあげることはなかった。

「気にしなくていいのに」

「黙ってろ」

 目と鼻の先まで近づきはするものの、彼はものの数秒ののち掴んでいた胸ぐらをパッと離した。

 その数日後、彼の腕がまた紫になっていたのを見て、今度は僕が彼を呼びつけた。
「なにをしているんだよ」
 この駆り立てる焦燥感がどこから来るのかわからない。
「君はひととやり合わないとわからないよ」
 焦らされている感覚にも似た意地らしさに、つい強い言葉が止めどなく溢れる。目の前の目つきがさらに鋭くなり、一歩足が出る。
「そんなに殴られたいのか」
 次の瞬間、彼の拳が僕のみぞおちを打つ。お腹を押さえてよろけ、壁にもたれかかった。息がうまく吸えなくて、うめき声すら出なかった。

 そんなとき、近くの扉がギギギと錆びれた音を立てて動いた。
「おい、なにをやっている」
 ほとんど使われないはずの部室棟から出てきたのは、保健体育の先生だった。瞬時にバツの悪そうな顔をする彼に、先生は疑うような視線を向けながら僕に声をかける。
「なにかされたのか」
 先生は、彼が手を出した瞬間を見ていなかった。怪しみはすれど、確証を掴まずには動けない。
「大丈夫です。彼とは話を」
 ただそれだけです、と弁明する僕は、目の前の勝機に顔が綻んでいた。その油断がいけなかった。
「いや、ちょっと見せてみろ」
 ズボンからはみ出ていたシャツの裾を、先生が掴む。あ、ちょっと、と言う間もなくペラリとめくられたシャツからは、痣だらけで黒ずんだ皮膚が一瞬にして顕になった。慌てて隠すも、先生の横に佇む彼の目にはしっかりと映った。表情をなくした彼が瞬きひとつせず、先程までめくられていたあたりを呆然と見つめている。
「それ、昨日や今日の話じゃないだろう。お前、まさか」
 先生が、ぎろりと彼の方を見た。
 一瞬にして緊迫感が増す。彼はついに自分の立場の危うさに気づき、焦り始めた。

 疑いの目を向けられると言うのは、かくも恐ろしい。彼は口を微かに震わせ、拳を握りその場に立ち尽くした。絵に描いたように疑わしい現場を前に、言い返すこともできないでいる。


 僕は持っているカードで勝負することにした。
 今日この日のために、今までがあったのだと思った。運命的な巡り合わせだった。
「ああ、これは父親です。義理のですが」
 血の繋がりはありません、とはっきり言ってさえしまえば、さも訳ありと言わんばかりの僕に先生は怯んだ。
「いつからかは覚えていません。証明と言うなら、母に聞いてください。……平気で『気づかなかった』と言いそうですが」
 淡々とこれまでについて打ち明けていく僕に、先生までもが会話に尻込みをし始めた。いち早く、先生の蛇のような目から彼を逃がしたい。――あと一歩。

「他も見ますか」
 僕は、制服のシャツのボタンに手をかけた。ボタンを指で擦り、きつい穴から解放させていく。ひとつ、ふたつ、みっつ……、ゆっくりとボタンを外し、指先だけで先生へにじり寄る。

「いや、今は」
 先生は僕の申し出を断った。
 当たり前だ。いくら男と言え、パーテーションもなしに生徒に服を脱ぐようには言えない。
「ちょっと、今から職員室に来てもらえるか。確認したいことがある」
「わかりました」
 じゃあまたね、と彼に白々しく手を振った。怯えたような表情の彼が、手をふり返すことはなかった。


 職員室に行く途中、保健室に立ち寄った。
「ちょっと、見てもらうか」
 先生は先に保健室の中へ入ると、養護教諭の女の先生に事のあらましを話した。眉を下げ、いつもよりほんの少しゆっくりな語り口で、彼女はまず体調を聞いてきた。問題ないです、と乾いた口調で返すと、彼女は気の毒そうな顔で僕を見た。
 身体を見てもらうことになり、僕はシャツのボタンを再びゆっくり外していた。カーテンを一枚隔てた向こう側では、先生たちが虐待の疑いがあることを慎重に議論していた。
「校長、呼んできますか」
「その方がいいと思います。だって本人が」
「通報の対象ですから、手順を確認した方がいいですね」
 最後のボタンに手をかけたとき、「通報」という言葉に手が止まった。不思議とその言葉に未来を見いだせなくなった。

 卒業まであと半年もあるのに、住む家はどうしよう。
 大学は諦めた方がいいかもしれない。働いて、お金を工面するのが先だろうか。

 昔はこうではなかった。早く家を出たい、誰か助けて欲しい、そう常に望んでいた。それなのに、今はこの地獄を離れる不安が胸の中に渦巻いている。
 ぶたれることにいちいち反応しなくなったのと同じように、いつからか感覚が鈍麻していた。

「僕、一人暮らしできますか」
 シャツを脱いで上半身をあらわにした僕は、やっと一端に心細くなった。周りには大人がまた増えていて、「なにも心配しなくていいからね」などと僕に声をかける。優しくされると、自分が”可哀想なもの”なんだと実感する。

 養護教諭による痣の観察が終わると、再びシャツを羽織った。集まっていた先生のうちのひとりから、話し合いに時間を要すので今のうちに荷物を持ってくるよう指示された。

 大事になってきた。
 そりゃそうだ。わかっているはずなのに、心音がいつもより強く、速く聞こえた。「すぐ戻ります」とだけ口にして、僕は足早に保健室を出た。


「おい」
 誰もいないはずの教室には、男がひとり立っていた。日が傾き、西日が揺れたカーテンを橙色に染め上げる。
「なんで君がそんな顔をするんだ」
 変な顔してる、と笑うと、言葉は返ってこなかった。ただ、ひたすらに怒っている。ただなんとなく、僕だけに向けられてはいないような気がした。
「いつもそうなのか」
 そう、とはなにを指しているのだろう。服に隠れる場所にしかない無数の痣のことか、あるいはじりじりと、ある種の強引さを持って大人に食ってかかるはしたなさか。
「まあ、でも別に。大したことじゃないから」
 嘘ではない。大したことないのだ、この程度のことは。 
「だから俺に殴られてもいいってか」
「それは君が」
「なんだよ」
 ドミノが倒れていく。パタパタと軽い音を立て、指数関数的に速度を上げていく。
「もういいんだ。大元は家のことだし」
 気にしないでよ、と告げると、彼はさらに顔を歪めた。家族を売って自分を助けたことをよく思っていないのかも知れない。だが他に、彼を大事にする方法がわからなかった。

「……いかれてる」
 再び握られた拳は振るわれることなく、彼は教室を出て行った。彼の傷ついたような顔が、いつまでも頭から離れなかった。


>第二話(最終話)へ続く。


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