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『すべて、狂った水槽』第二話(最終話)

 僕は一時的に保護されたのち、高校を卒業するまでの間、児童養護施設が家となった。だがそれもすぐに終わった。児童養護施設は18歳までと決まっていたのだ。
 高校卒業とともに自立を求められた僕は、大学受験を諦めることにした。別に特別行きたかったわけではない。持っているものが少ないので、学歴をつけて安心したかっただけだ。
 不安をかき消すように、本を片っ端から読み漁るようになった。受験勉強をやめて空いた時間は、全て図書館で過ごした。

 両親とはもう会っていない。
 子への暴力で義父は捕まり、長きに渡り見て見ぬ振りをしてきた母親も事情聴取を受けたと聞いた。今、あのひとたちがどうしているかは知らない。
 一度だけ、僕に面会に来た大人がいた。そのときに僕は、「二度と両親には会いたくない。ひとりで生きていく術を身につけたい」と言って泣いてみた。我ながらなかなかの好演だった。
 モニタリングに来た大人はそれを僕の希望として聴取し、支援が切れる18歳以降の生活に助言をくれた。いくつか面接を受け、無事に建設会社の事務の内定をもらった僕は、高校卒業後から紹介で借りた安いアパートに移り住んだ。

 新しい痣ができることはなくなった。
 しかし僕の身体は薄く黒ずんだままで、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
 アパートの狭い浴室で、湯気でぼやけた鏡を通して自分の身体を眺める。――綺麗にはならない。なかったことにもならない。もうないはずの痛みが、時折蘇っては歯を食いしばる。


 ピーン、ポーーン。

 シャワーから流れ出た水の行方を追っていると、空間を貫くようなインターフォンの音が聞こえた。僕はハッとして、急いでシャワーを止めて浴室を出た。
「はい、どちらさま」
 身体にタオルを巻き、玄関の古びた扉をほんの数センチ開けて外の様子を伺う。
「開けろ」
 扉の向こうには、不貞腐れた面の彼が立っていた。あ、うん、と言われるがままチェーンロックを外し、彼を部屋に招き入れる。
 玄関をくぐった彼は、いつかと同じ目をして息を飲んだ。服着ろよ、と小さく嗜める彼の顔色はまるで幽霊を見たかのように青い。
 きっと彼の世界には暴力なんて落ちていないのだ。そうでなければ、あの程度の加虐性に律儀に悩み、自傷を選ぶ子どもなんていなかった。同じような子どもと、ただ年相応にぶつかり合っていればよかったんだ。

 彼は、僕の部屋に出入りするようになった。駅前にある洋菓子店のイタリアンプリンを買ってきたり、夜に来るときは缶チューハイを持ってきたりした。手ぶらで来ることはない。そしてこの前は、部屋に漫画を置いていった。くれたのではなく、”彼の”なんだそうだ。
 彼は本当に奇妙な生き物だった。


***


 「そいつの赤は」と言いかけて、またスマホと睨めっこをする。彼が見ていたのは、様々な赤色の名前が載ったページだった。緋色、猩々緋、赤紅、唐紅、茜色、……と、鮮やかな赤と一言で言っても無数の呼び名がある。
「名前をつけるって難しいだろ」
 瑠璃はまさに瑠璃色って感じだったからさ、と得意げに言ってみた。憎まれ口のひとつやふたつ飛んでくるかと思ったのに、彼は「ああ」とだけ言ってスマホの画面に視線を戻す。唸りながら赤いベタとスマホの画面を行き来する姿が、なんだかとても滑稽に映り、僕はふふっと笑った。

 集中が切れたころ、面倒ごとを放り投げるように彼は言った。
「こんなに赤かったら、どこにいてもわかる。名前なんているのか」
 はぁ、と吐く息がいつもより大きく聞こえる。ダイニングテーブルの椅子に座り込み、どかっと背もたれに身を預けた。

「……君に、見えるのか」
 そんな彼に僕は思わず息を飲んで、小さく独り言を言った。
 深い海の底で、赤色を見ることは叶わない。赤いベタを迎え入れたのは、彼の奥底に映らない、ちっぽけな自分のようだったからだ。
 彼は椅子に座ったまま、「なんか言ったか」と気怠そうに聞き返す。
「その子も深海では真っ黒だよ」
「深海? なんの話だ。だいたい、その前に水圧でやられてしまう」
「確かに」
 あはは、と僕が笑うと、彼は伏し目に歯をほんの少しだけ見せて笑った。
「だから、見えなくなることはない」
 なんの気なしに発せられた言葉が、僕の上を滑る。瞳に光が入り込み、欲が出た。
「この子たち、一緒に住めないかな」
 高揚した弾む声で、僕は赤いベタの袋にハサミを入れた。水がジャバジャバと音を立てて落ちていく。有り合わせで持って来たボウルの中で、赤いベタは再び自由を得た。真っ赤なインクを水に落としたように、それは優美な動きをした。
 僕は重たくなったボウルを両手に持ち、水槽の前に立った。
「やめろ」
 彼は、僕の手首を強い力で握り止める。
「大丈夫な気がするんだ」
「やめろって言ってんだろ」
 動きを止められ、ボウルの中の水だけが大きく揺れた。
「お前なんかが飼えるわけなかったんだ」
「失礼だな。どう言う意味だ」
 言葉の持つ熱がどんどん上がってゆく。彼が握る腕に、さらに力が込められた。
「お前には無理だ、絶対に。大事になんてできるものか」
 次の瞬間、僕は感情の昂りにまかせ、赤を青の水槽へ流した。「おい!」と大変な剣幕で怒鳴る声がする。僕の視界にもはや彼はおらず、自分から離れていく赤いベタから片時も目を離さないでいた。
 真っ赤なシルクがつるんと着水し、骨格の一本一本が再び滑らかに動き出す。チャポンという大きな音に驚いた瑠璃は、ひれをばたつかせて忙しない動きをした。これで赤い新入りに向かっていくようなことがあれば、すぐに止めようと考えていた。見つめる視線に緊張が走った。
 すると二匹のベタは、互いに付かず離れずの距離を泳ぎ始めた。探るように互いに近づいたかと思えば、赤と青が交差しながらひらひらとご自慢の長びれを揺らして遠ざかる。照明に照らされた二色のひれは透け、重なると薄い紫色を呈した。

 ふと、彼の黒いアームスリーブが脳裏を掠める。もう何年も見ていない。あの腕は今、僕の一回り細い腕を掴んでいた。ちょうど数巻だけロールアップされた裾から覗く腕に痣はなく、誰かみたいに痕が黒ずんで残ることもない。内から光るような美しい肌に戻っていた。

 肩の力が抜け、頼りない声が漏れた。すると、同様に脱力した彼が言った。
「お前、怖いよ」
 驚いて彼を見ると、口が形悪く開き、頬が上方に寄り集まって強張っている。
「もっと生に縋れよ。なんでどうでもいいような顔をするんだ」
 きょとんとする僕に、彼は掴みかかる。僕の遥か後ろ側を睨んで、肩を震わせていた。

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