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親の命の最後を決める①

 コロナ禍の今、私と同じような状況になっている人も多いと思う。コロナ禍が年単位になってしまったので仕方がないと思うが、まさか自分がその立場になるとは思ってもいなかった。

 ――――2021年4月下旬。M県の老人ホームから連絡がきた。そこには父が入所していて、かれこれ18年くらいそこにいる。老人ホームと言っても、みんながよく目にする寝たきりの特養ではなく、身体が元気な方の老人ホーム。何らかの病気があって1人で暮らせない人。でも、自分のことは自分でできて、自立した人が入所する施設。

 父は私と暮らしている時から3回ほど脳梗塞を起こしている。最後に脳梗塞を起こしてから、身体は元気だけれども失語症と記憶障害があった。1人では暮らせない。その為、そこにいる。当時、転勤族家庭であって、その地に私たち家族が住んでいたので、3回目に倒れた先の病院から連れて来た。社宅に住んでいたので一緒には住めない。それ以外にも理由があって、一緒には住めないのでそうしてもらった。凄く嫌だったと思う。私の前では何でもない素振りで「そっか。そうだな。頭少しバカになったから1人じゃダメだな。わかったよ」と明るく言っていたのを思い出す。

 私の地元は、そこから車で6~7時間かかる所。同じ施設でも、その時に住んでいる近くにいれば週末は会えるからと連れて来た。でも、それはあとから後悔しかなくて、それが今になってこのような感じになってしまった。

 ――――最初の方の一文について話を戻しましょう。

 4月下旬に施設から連絡が来て、内容は【朝方、トイレに行った時に転んだようで、足の付け根を骨折した様子。職員の見回りで誰かが来るまで、ジッと座って待っていたらしい。すぐに救急車を呼び、病院に搬送しました。時間をずらし、病院から連絡が入ると思いますから状況を聞いて下さい。こちらからも改めて連絡します】というものだった。

 何時間か空けて、主治医になる医師から電話が来た。

 【大腿骨骨折】

 実は、震災の数年後に一度大腿骨骨折をしている。今回はもう片方の足。しかも、重症の範囲らしい。まず、折れた骨がある部分に刺さっていて出血をしている。何時間もその状態でいた為に、酷い貧血になっていて酸素も足りていない。まずは輸血をして状態を安静にさせてからではないとopeができないと言う。そして、思っていたよりも状態が悪く『もしかしたらopeをしても意識が戻らないかもしれない』『ope前後に、心マッサージを行うような事態になっても胸の骨が折れてしまい、それが反って苦しむ可能性が高く、それならば心マッサージをせず、そのまま(逝かせて)・・・あげた方がいいかもしれない』など、何が起きても自然に死なせた方が良いということしか言われなかった。電気ショックを1回くらいとも思い、話してみたが、今は電気ショックを一度でもすれば、最後の工程までやらなくてはいけくて、結局は心マッサージをすることになると説明され、既に答えは1つしかなかった。

【何かあっても何もしない。そのまま自然に息を引き取らせる】

 医師にはハキハキと毅然に「わかりました。そのようにお願いします」と言葉を返して電話を終わりにした。きっと冷たい娘だと思ったと思う。でも私は子どもの頃から何人も看取ってきた。事情があって、今で言う【ヤングケアラー】だった。祖母が大正生まれだったこと、叔母が戦前生まれだったこともあって、今だったら考えられない思考で、その中で私は育ったので、学校よりも家族の介護。働いてお金を稼いでいないのでそれが当たり前(この辺りの話はまたの機会に)。だから人よりも多く、この世を去る人を見てきた。それに結婚前は獣医看護師を、結婚してすぐに主人の仕事の関係で食肉牛1200頭の中での生活もあり、多くの死を見てきた。だから、医師が言っていたことに納得していた。悲しみよりも『それなら仕方ない』があった。

 ――――電話を切り、すぐに施設に電話をする。医師との話を全て伝えた。施設の担当者はまず『輸血をしている』で驚いていた。次は『心マッサージをしない。だからこのまま施設に戻れるかはわからない』で驚かれ、それでも私は話を続け『もしも』の時の話をし、寝たきりになったときの為の特養への入所申し込み(順番待ちリストに載せてもらう)と、遺骨になるまでを段取りよくできるように話し合いをした。

 そして週明け、opeをすることに。opeは局所麻酔のようなものだったと言っていた。全身にすると目を覚まさない可能性が大きかったのでとのことだった。それでも途中、眠ってしまい、呼吸が浅くなり心配な感じにはなったが、無事に終わったと連絡があった。この時、医師はopeを終えてすぐに連絡をくれたのだと思う。本来なら顔を見ながら報告してくれるのに電話。人間ではないにしろ、私もopeを担当していたのでわかる。短時間のopeでも心配要素がある患者だと色んなことを考えながら行うので、終わったあと、気分が高まるけどもドッと疲れが出たりもする。これが人間ならそれ以上だと思うし、電話での説明では尚更、気を張ると思ったので何とも言えない気分だった。

 施設にopeが終わったことを連絡する。この先は、何かあった時か退院までは施設の人も病院内には入れないようだったので、お互いに病院からの話だけを聞きながらの会話を(想像しながら)するだけだった。

 何日か過ぎ、医師からの連絡。

 思っていたよりも本人の歩きたい意志が強いようでリハビリも開始したと言っていた。今では歩行器を使いながらトイレも1人で行っているらしかった。しかし、食事は摂らない。何をしても食べないので、高カロリーゼリーを出しているが、それも口にしたりしなかったり。もしかしたら施設に戻れば食べるようになるかもしれないので早めに退院させると言われた。早く食事をするようにならないと衰弱して違う症状で危険になってしまうと病院側は心配している。既に歩行器で歩いているので2、3日後くらいに退院できるようにすると言っていた。

 電話を切り、すぐに施設へ連絡。医師に言われたことをそのまま伝え、退院時の引き取りは施設の職員なので、そのあとは施設と病院とで連絡を取り合ってもらうことにした。

 ――――それから1週間ほどして施設より連絡。退院後、全く食べない。入院前に好んで食べていたものを出したりもしてみたが全然食べない。本人は「食べたくない」と言っているらしい。時々、高カロリーゼリーとヨーグルトを口にするが、それ以外は食べない。どうしたらいいのか。職員に嘱託医の意見を聞いてもらって、その答えを職員から私が聞く。そして、答えを出す。

 【食べられるだけでいい】

 多分、歩いた時のように自分の意思が強ければ無理矢理にでも食べると思う。父はそういう人だ。どんなに苦しくても生き物は食べなければ生きていけない。身体が動かない。そういうのを普段から言っている人だったし、それを行動にしてきた人だ。『生きたい』『元気になりたい』と思っていれば、ほんの一口でも毎食口にしているはず。それをしないということは、誰がどんなに言ってもおそらく無理だろう。だから、そう職員には言った。

 嘱託医からは『胃瘻(いろう)』の話も出たが、意識がハッキリしていて上半身は動くので、自分で抜き取ってしまうから無理だろうと言われたと言っていたので、それは止めた。嘱託医の話と私の答え。きっと施設側は、もの凄く困ったと思う。今はSNSで何でも情報が外部に出る。しかも、話をほんの少しでも歪ませてしまえば、人の命さえも奪えてしまうくらい大騒ぎになる。しかも、人の生き死にに対しても考えは賛否両論で、簡単に答えを出せるものではない。それを私は【食べるだけでいい】と言った。本人が食べなければそのままで。自然に任せてもらっていいと、そう言ったのだ。施設側は、本当にこれでいいのか悩んだと思う。

 養護老人ホームというのは、あくまでも自立している人が入る所。なので点滴など、医療行為を行う何かをしたままはいられない。それらが可能な特養に行くか、長期入院が可能な病院へ入院するか、自宅か。とにかく、今いる所では無理。

 では、この18年。震災もあったのに、どうして私たち家族の近くにしなかったのか。詳しくは、もし書くことがあればその時に書きたい。長くなるから。すみません。でも、これだけ書こうかな。―――年老いた人が、環境も人間関係も1から始めるってどう思いますか?しかも、失語症で記憶障害も少しあって。他人とも上手く会話が成立しなくて、記憶が時々混乱して。いくら身体が自立していても、このような人が、知らない土地で知らない人しかいない所に引っ越すのは。遠く離れ、年老いた親を移動させるとはそういうこと。一緒に住めたら問題がないのは当たり前で(問題ないのは住むという件のみ)、それができたら高齢者施設は要らないでしょ?そういうことです。

 この先どうなるのか。私も施設の職員も嘱託医も、誰もわからないけど【本人が食べるだけ】にして見守ることになった。


                             ~続く~


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