もっと傷つけあえばいいのに

 最近「配慮」につかれませんか? 私も疲れています。
 不妊治療でつらいからベビーカーが見たくないとか、ダイエット頑張ってるのに私の前でご飯食べないでとか、ちょっとそこまでいくと……というものも散見されるようになってしまって。
 楽しくTwitterで好き勝手言いたいのに、知らない人のことまで「配慮」しなきゃいけない感覚、もう疲れたというか、人によっては「恐怖」の領域に入ってきてるかもしれないなと思います。

 最近、心理職でプロデビューしたのですが(個人の人生相談もお受けしております★まずは占いからでもどうぞ)、一番大事なのは仕事をプライベートに持ち込まないってことなんですよね。
 普段の会話でクライアント対応しない、って非常に大事です。じゃないと24時間カウンセラーとして生きていくなんて人間には無理だし、私にもたぶん素ってものがあるし。
 でもちょっと難しくなっています。世相が明らかに、このクライアント対応万歳!な方向になってきているからです。配慮万歳!
 Twitterで「こういうタイプの配慮をされてうれしかった」「こんな対応をされて腹が立った」というようなツイートがよくバズっているのを見かけます。心理職から見ると確かに理想的な対応だなとか、おっと膝を打つようなものだったりとか、心理学的な裏付けがあったりとかして結構面白いのですが、はたと気づくわけですね。

「これを昼間のド素人に求めるのか……?」

 それは酷じゃないのか?と。

 わたしですら(いやペーペーが何を言うかっていうのは置いといてですよ)普段のコミュニケーションでマズったなとかよくありますよ。あーしまった今の余計だったーとか。いまこう言っとけば絶対よかっただろうなーとか。もし私の生活を瞬間瞬間を切り取られてTwitterでジャッジされるとかしたら絶対NGシーンありまくりです。
 それを電車の何気ない風景とか、診察室の一瞬とか、マックの女子高生とかで瞬間瞬間ジャッジされるなんてしんどすぎて外歩けないですよね。
 気心の知れた人でも会うのちょっとしんどいのに、新しい人と会うの怖いなと思い始めたら萎縮させられすぎかなと思います。

 そもそもなんですけど、現代の風潮で感じるのはうまい傷つけ方を忘れたのかなってことなんですよね。
 今の時代、小学生にもコンプラが徹底されるいやな世の中になってきています。うーん、もっとバカアホ言っていいと思うんだけどな。
 もちろん、人を思いやる心っていうのは素晴らしいことです。でもこれを身に着ける方法は「人を思いやる心とはこういう行動なんですよーみんなマネしましょうねー」(はーい^^)ではないんじゃないかなって思うんですよ。(でもTwitterでバズっているのってこういうこと、ですよね)
 たぶん私たちは、幼少期から人とふれあって人を傷つけたり人に傷つけられたりしながら人間を学んでいったんだと思います。それは小学生で終わりではなくて、大学に行ったら大学の人間関係があり、会社勤めを始めたらそこのルールがあり、二人で暮らすようになれば別の感情の機微があり……と人生通じて少しずつ学んでいくことなのではないでしょうか。
 ところが、現代ではコンプライアンスとかハラスメントとかの概念が先行して「人に傷つけられた」ということ自体がタブー視されすぎているように思います。それは健全に人と人との間でおきる”摩擦”を、より過激なものにしているのではないでしょうか。
 人と人とがふれあうと摩擦が生じます。それは塩ビ同士なら起きなかったことが、木綿と出会ったがためにバチバチに静電気が起きてしまうようなことです。このとき、木綿が悪いのか、塩ビが悪いのか。それはどちらでもないですよね。たまたま、おり合わせが悪かっただけなんです。
 「これだから塩ビは!」「木綿はコットン100%で自然にいいからな!」みたいなことを言うと完全に意味不明ですが、今のTwitterってそんな感じのことでバズりがちでしょ?
 そこから先に進んで、そもそも摩擦そのものを(この場合で言う静電気を)完全な悪とする風潮もありますが、それには明確に反対です。なぜなら、「あ、自分って塩ビなんだ」って気づくきっかけが失われるからです。なんの学びもありません。

 人はもっと傷つけあっていいのに、と思います。たぶん人には人を傷つける権利があるんです。もちろん刃物を持って右わき腹を深く刺すような「傷つけ」はだめですが、このような深い傷つけ方を防ぐためにも、普段のちょっとした言動や行動で人を傷つけることに対しては多少寛容になったほうがいいんじゃないかなと思います。
 それは傷つけられた側のためでもあります。
 自分を傷つけるもののいない完全に無敵な空間は理想的に見えるかもしれません。もちろん、精神的に深くダメージを負った人にとってそのような空間が必要な時間もあります。ところが、日常的にこのような無敵な空間があると、他人とのふれあい方を完全に忘れてしまいます。
 あるときちょっとびくっとする静電気が生じたとき、それでどのくらい痛がればいいのかわからなくなってしまう。そうすると、本当に小さなことで痛みを感じるようになってしまい、日常生活がむしろ苦痛になります。
 そしてもっと悪いことが二つあります。
 ひとつは、本当に叫びをあげて相手を殴ってでも逃げ出さないといけないような痛みに対して、自分のメーターが振り切れてしまって抵抗できなくなること。
 センサーは敏感になればなるほど、大きな値に対して鈍感になります。これは電気工事の世界だけではありません。人間の心も、小さな傷を拾いすぎると本当に大きな傷に対して対処ができなくなってしまいます。
 そしてもう一つ。自分が相手を傷つけてしまったとき、その傷の大きさが自分で見積もれなくなってしまうということ。本当は忘れてしまってもいいくらい大したことのない出来事だったかもしれないのに、自分のセンサーが敏感すぎるがゆえに、いつまで謝り続ければいいかわからない状態になってしまったり、何年たっても心の中でずっと後悔していたり、自分の心を苛んでゆきます。

 人間が生きていて人を傷つけないことなんてないのですが、ちょっと世相がピリピリしすぎているかなと危惧しています。このままだと、本当に大きな問題に適切に対処できないまま、自分の負った傷がどのくらい大きいのかわからないまま。
 結果的に同害報復の範囲も自分でわからなくなって、本当に刃物を持って右わき腹を深く刺す事態になってしまいます。自分は小さな被害者だったのにもかかわらず、刑事事件の加害者になって人生が転落する事態になるようなことは防がなければいけません。
「どんな些細なことでも好きに傷ついていいが、相手に完全な配慮をもとめるのはやりすぎ」
 この線引きを誤ると、いずれ社会が自分の傷口に入ってくることになるでしょう。

 人はもっと傷つけあっていいと思います。
 私はどちらかというと、ちゃんとごめんなさいをいうことができる大人な社会になってくれたらいいなと思っています。
 袖振り合うも他生の縁、他人との素敵な縁ばかりでなく、いやな縁ともうまく付き合っていきたいですね。

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