左翼思想は気持ち悪いものなのかどうかを説明しよう

先日、自民党の杉田水脈議員が「左翼の気持ち悪さ、恐ろしさを再確認した。左翼は存在自体、日本国の恥さらしだ。」とブログに投稿したことに対して、日本共産党の宮本岳志議員が「私は左翼にあたるわけですが、私の存在は気持ち悪いですか?私の存在は日本の恥さらしですか?」という質問をしたことが物議を醸しだした。

せっかく、話題にしてくれたので、話題にしないのはもったいない!
率直に答えるのが礼儀というものである。

率直に答えよう。
左翼には気持ち悪さしかない。
そして、「左翼の存在というものが、日本国の恥さらしか否か」という質問に対しては、「明らかに恥さらしである」と返答しよう。
以下、理由を述べる。

まず、左翼思想の根本にあるのは共産主義独裁主義である。
共産主義思想の根本にあるのは、完全なる物質主義であり、精神的な面を否定している。
共産主義思想では、全てが物と金が全てであり、人々の信仰心、人に対する思いやりや優しさなどは、無価値であるとされる。

例えば、ある人が畑仕事をしているとき、疲れと日射病によって倒れたとする。
伝統的な信仰心を持つ筆者のような人々は、倒れた人の事を気遣い、看病をする。
困っている人が居れば助けるために手を差し伸べる。
人を助けることで、何かの見返りを求めることはないが、困っている人が居れば、手を差し伸べずにはいられない。
「なぜ、困っている人を助けるのか」と問われれば、究極的にはそこには、他者を慈しむという信仰心があるとしか、答えようがない。

対して、共産主義者はどう考えるか。
それは、「倒れている人を助けることに価値があるか」だけである。
人間社会には多くの人が存在する。
一人の人間が倒れ、そして死んでしまっても変わりはいる。
その人が死んでしまっても社会的な労働力に影響がなければ、倒れた人が現れても助けない。
人を単なる労働力という視点だけで見て、「倒れた人を助けるか助けないか」と言うのが、共産主義の究極的な姿である。
そこには、人を慈しむとか、困っている人を助けるという奉仕の精神は存在しない。
これが共産主義だ。

このふたつの考え方を比べたときに、「やはり共産主義が合理的で素晴らしい」と考える人は、心が腐っているとしか、筆者には思えない。
困っている人が居れば助けるというのは、人間が人間である存在そのものであるあかしであるとしか、筆者には思えないのだ。

共産主義思想の行きつく先は、「無意味なものを全て捨て去り、人の優しさや伝統文化、人の倫理や良心を全て捨てて、独裁者の元で独裁主義が体制され、一般人は全て感情のない奴隷である」とするものである。
圧倒的大多数の一般人は感情なく、独裁者に隷属するだけの奴隷である。
このような世界が「理想的である」と考えるのが、左翼思想の者だ。

改めて断言しよう。
このような左翼思想は、筆者には気持ち悪さしかない。
単なる気持ち悪さではない。
吐き気が止まらないレベルである。
だから、左翼思想は気持ち悪いと断言する。

加えて左翼思想者は、以上のような左翼思想により、日本の伝統を全て破壊し、家族も破壊し、神社も天皇も人のつながりも何もかも、伝統も含めて全て破壊して、魂のない奴隷として世界統一政府の独裁者の奴隷として生きていくことを理想と考える者たちである。
このような考えのもとで、日本を破壊するためにありとあらゆる工作活動や政治活動をする者たちを、筆者は「日本国の恥さらし」であると考えるのである。

ここまで気持ち悪いものに対しては、はっきりと「気持ち悪い」とか、「嫌いだ」と言うべきなのである。
そう、日本共産党だけでなく、今や自民党や公明党、日本維新の会、立憲民主党、れいわ新選組、NHK党などが掲げる左翼思想に対して、われわれははっきりと「気持ち悪い」「大嫌いだ」「日本国の恥さらしだ」と断言して、存在そのものを否定すべきなのである。
そして、この思想を究極的に追及するグローバル全体主義に対しても、われわれは反対すべきなのである。

人間が人間たるゆえんは他者に対する慈しみや優しさ、倫理観を大切にするという信仰心に由来する。
それらの否定は、独裁主義の支配者にとっては便利である。
何故なら、その方が人々の結びつきが弱くなり、奴隷支配が容易だからだ。

人が人として人らしく生きる上で、左翼思想である共産主義は断固として否定して戦わなければならないのである。

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