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『竜そば』:無責任さの陰に潜む「子を守る母の物語」

ネタバレあり
※※あまり好意的でない感想なので映画が面白かった人は読まないほうがいいと思います。※※



細田守監督の『竜とそばかすの姫』を観てきた。
事前に未鑑賞だった『バケモノの子』を鑑賞し、演出も作り込みも悪くないのになーんでこんなつまらないんだろう。細田脚本のつまらなさの謎を解明すべし。なんてことで『竜そば』鑑賞。思ってたよりはつまらなくなかった。

がしかし!

この映画あまりにも無責任すぎる。

結構本気でこの無責任さは癪に障ったというか、表現者としてダメだろう。
そういう思いが冷静にふつふつと湧き上がってきた。
特に、監督として演出家としての才気があふれているからこそ、脚本の無責任さがどうしようもなく気になる。

まあ落ち着いてその無責任さについて書いていきます。



■無責任なエンディング

多くの人が感じたことだと思うけど(感じていてほしい)あのなんの解決も思想も示さないエンディングである。

竜の正体である虐待を受けている少年とその弟の元へ駆けつけた主人公すず。すずは彼らに戦う勇気を与え、自らも成長するのであった。めでたしめでたし。

あー全然めでたくない。
なんだこれ。結局こども任せ、当人任せの問題として終わらせてしまっている。しかも成人:未成年、親:子供という圧倒的非対称の中で苦しんでいる子供たちに対してなんの実質的なサポートもせずに話が終わる。悲しきかな後日談も描かれない。

児童虐待というショッキングなテーマを扱うのであれば、映画として、表現者としてそれ相応の態度を示すべきである。それが正しい方法か、物議をかもす方法か、どちらでも良いのだが、その態度を示さなければ、結局エンタメの道具としてしか虐待描写は機能しなくなってしまう。
扱った社会問題のモチーフに対して態度や問いかけをを示さないのは、当然のごとく無責任だ。特に大勢の客が付いている作家なら。

でも流石にそこに何にもないとは思いたいくない。
日本で有数のアニメ映画監督がそんなやつだとは思いたくない。

もしかしたら細田守の意思を自分が見逃しているだけかもしれない。そう思いたいので、終盤のシーンを振り返ってみる。


■すずの「母」の睨み

すずは被虐待児二人(恵と知)の前に立ちはだかりながら、拳を握る父親を「睨み」で退散させる。この描写は一体なんなのか。あんまりにもご都合主義じゃないか!と鑑賞中は笑ってしまった。

しかし、劇場を出た後内容を反芻していて気づく。あのすずの睨み。それはすずが二人の「母親」として父の暴力から彼らを守ったのだ

すずも恵&知も母親の欠如機能しない父親というところで共通している。(この母親の欠如と機能しない父親は細田脚本3作品の特徴でもある)

母親の欠如に関して。
すずの母は彼女が幼い頃に、激流の中洲に取り残された”赤の他人”(ここ重要)を助け命を落とす。恵と知は理由は明かされないが母はいない。

機能しない父親については、一方は暴力で子供を抑え込み、もう一方は会話もろくすっぽせず娘が危険な場所に向かうのもノーテンキに「成長したなぁ」的なことをメッセージするほぼ放任父親である。

このように考えると、虐待に対して「母の目」(母の欠如を埋めること)こそが解決の糸口である!!!(この「母の目」とは言葉通りの母ではなく、SOSを発する人を守ろうとする意思。それは”赤の他人”でも機能する)

なーんて読めるかもしれない。でもさぁ。
そのテーマならそれで恵と知へのアフターケアは描かなきゃダメでしょ。
「僕ら戦う勇気もらったよ」ではいおしまいじゃダメでしょ。「私たちはその後も関わり続けている」にしなければ。結局”物語”のための一過性の解決にしかなっていない

それにこのメッセージが正解だったとしてもあの本編では伝わらないでしょうよ。こういう全体でのチグハグ感は細田脚本のつまらなさの根本である。


以降、私は『竜そば』を「子を守る母の物語」として見ます。


■届かない叫びと感動させる歌声

細田守がおそらく無自覚に描写しているのが竜とそばかす姫の残酷な対称性である。ここも無責任さに繋がる。

Uの世界で乱暴に暴れまわる竜。彼は匿名で(暴れることで)不器用にメッセージを発しているが誰もそれを取り合わず気づかず、むしろ悪役として住処を炎上させられたりしている。

対してそばかす姫ベル(すず)は、素顔を晒し人々を感動させる歌で恵と知へメッセージを届ける。

インターネットを介して繋がることで虐待されている子供たちを救う、”母の目”を与えることができるという風なテーマが全体に敷かれているようにも見えるが、この竜とベルの対称性はそのテーマに対して非常に残酷である。

結局、「素顔を晒さなきゃ他人にメッセージなんて届かないんだよp.s.歌も上手くなきゃね

匿名で不器用なメッセージは届かないよ
子供たちはそうするしかないのに。できないのに。

まあ、すずがその微妙なSOSに気づくという本筋があるので救いはあるが、素顔のベルの歌を”エンタメ”として感動的に描いてしまっているので、細田守は自らあばきだしたネットの残酷さに対して無自覚だと推測する。

歌で感動させるシーンをアイロニックに描くか、SOSに耳を澄まし”目”を澄まそうというメッセージを増幅させるか、どうかするべきだった。
アイロニックに描けば問題提起になりうるし、メッセージを増幅させれば、主張が鮮明になる。

こういう作中で虐待された児童に対するケアのなさ、無自覚さがより一層、エンタメの道具であることを強調させ、エンディングを無責任なものにしていると私は思う。


■無責任さとつまらなさ

私はこの作品の無責任さの根本にあるものは、細田脚本のつまらなさと同じものだと思う。

その根本とは「エピソード間のまとまりの弱さ」である。
もうちょっと突っ込むと「エピソード間での象徴のズレ」である

細田脚本作品『バケモノの子』『未来のミライ』『そばかす姫』は正直どれも観終わった後「で?何が言いたかったの?」となる。
エンタメとしてだけで映画を作ってなさそうがゆえに余計に思う。

何かメッセージが届かないのでお話の意図がわからない→つまらない
となってしまっているのではないか。

なんでこうなるのか。
それはエピソードのまとまりが弱くチグハグに見えるからだ。
でも実は細田脚本はよーーーく観るとうっすーく細い糸で各エピソードはつながっているのだが、それがうっすーく細いので中々観ていて気づかないのである。


↑の記事では、

これらのストーリー展開にはどこにも論理がない。偶然と超自然的な力により、非力なお姫様は手も下さずに魔物を倒してしまうのである。そこにあるのはご都合主義ですらない、ただの夢物語である。

と細田脚本の論理のなさを指摘している。

しかし、私は、「論理がない」というより細田守が「論理」に絡め取られてしまった結果、エピソード間のまとまりの弱さが露呈し、観客からすると「論理欠如」に見えてしまうのだ、と考える。

ここでの「論理」はもちろん「細田守の論理」である。

私は細田守は細かく物事を象徴化して描く作家だと思っている。
しかし細かく象徴するアイテムを設定するがために、その自分の設定に雁字搦めになってしまっている。そして悪いことに象徴アイテムを追加して解決しようとしている。(これはどの作品も不必要と思うほどキャラが多いところを見ればわかる)


■例えば『バケモノの子』

『バケモノの子』はトータルで、「自分の心の闇に打ち勝つためには、(象徴的な意味での)父の支えが子には必要だ」と私は観た。

しっかしそれを表現する道程があまりにわかりづらいというかなんというか。

「自分の心の闇に打ち勝つ」という命題はメルヴィル『白鯨』の描写で現れる。「クジラは自分自身じゃないか」的なモノローグがボソッと入る。だからラストはクジラの姿をした一郎彦(闇を抱えたもう一人の久太の象徴)と戦うのだ。

こういう繋がりが見えてこないと、現実で久太が勉強をする描写がなぜ入るのかわからない。「新しい世界」が知りたい、ともいうが、それはラストの「熊鉄が心の剣になり九太を支える」カタルシスにはあまり響いてこない。

そして父の支えは「剣」として表象してくるのだが、肉団獣バトルみたいなのもので剣の重要性が覆い隠されてしまっている。

「自分の心の闇」を象徴する一郎彦とのエピソードは単に弱い。

こうして「自分自身との戦い」と「心の闇」、「父の支え」が互いにまとまりきらず結果として、「何が言いたいの?」となる。
父と子の話を見せられていたはずなのに、最後はなぜかクジラと戦う?はてな?

例えば現実世界で勉強を教える役割を、人間の方の父に与えてやれば、『白鯨』(自己との対峙)と「父」が繋がり、もう少しテーマを伝えられたんじゃないかと思う。
それなのに、なぜかその役割を少女に託してしまう。こんな感じで象徴が分散していってしまう。おそらく少女は母の欠如を埋めるナンタラな細田理論の重要アイテムなんだろう。

テーマに対して必要な描写と言われればそうなのだが、象徴がズレることでエピソード間の繋がりがかなり細くなり、そのテーマが見えてくる前にまた別のエピソードに写ってしまうのだ。


■(竜そばに戻って)忍くんのズレ

忍くんは主人公すずの幼馴染のイケメン(もちろん声優もイケメン)。

「結局忍くんは何なの?」って思った人結構いるんじゃないだろうか。
この忍くんが今回の『そばかす姫』の中でも顕著にエピソードのまとまりのの弱さ(象徴のずれ)を体現したキャラであると私は思う。

忍くんはすずの欠如した母親の代理としての機能を持っている。

それは作中のルカちゃん(マドンナ)が忍くんに対して「お母さんみたいだと思ってた」的な発言に如実に現れてる。それに何度もすずを見守る役目のように回送シーンでも現在でも出てくる。

ウンウン、これなら「母の目」のテーマもわかりそう。

となった瞬間に忍くんはすずとの”恋愛”に駆り出される。
そして、それをさらに強調するかの如くルカちゃんとカヌー男子(カミシン)の恋愛が示される。
(あと、あの”ちゃちい”ゲームの演出でも恋仲意識を観客に示している)

ルカ&カミシンは相似、対称としてすず&忍の男女関係をより強く描写する。

もはやこれ、わざと忍くんの「母の代理」の役割を覆い隠そうとしてるのではないか????
母と彼氏が同居するキャラって流石に複雑すぎないかよ?

おそらく、おそらくだが私の視力の悪い目でじーっと眺めて細田理論の細い糸を手繰ると(ほぼ妄言の域にも感ずる)このように二人の関係が描かれる理由はこうだ。

「竜とベルは恋仲ではない!!!」

これを言いたくてすずのお相手として忍くんが駆り出されるのである。
竜とベルが恋仲でないことを示して

「竜とベルは母と子である!!!」

と言いたいのだ。きっと。

さらにルカ&カミシンの恋愛要素は、すずに「他者の助けになる」という経験をさせるためである。きっと。きっと。


忍くんは細田理論の重要定義として色々な定理を導き出す役目を背負わされている。だけどそれは複雑で細いエピソードでしか描かれないために何のためのキャラなのか把握しづらい。

というかこの道を通るのにキャラが3人必要なのかよ。とほほ。

(実はベルの正体を知っている人がすずの母親代理なのだ。忍くん然り合唱団の面々も正体を知っていた。……yoasobiもじゃあそうなのか?)


■そしてまたエンディングで。

忍くんが母の代理として特化し、すずを後押しする存在としてその役割を”わかりやすく”全うしていれば、この『竜とそばかすの姫』という物語が「子を守る母」の物語として”もう少し”伝わったであろう。

エンディングの無責任さ「母」についてのエピソード間の繋がりの弱さ(象徴のズレ)によって立ち現れてしまう。

最後の「睨み効かし」のシーンは現実的な描写ではなく、「母」としての象徴的な描写として捉えるのが細田理論では適切なのだ。

象徴的描写に見えない理由はそれまでのエピソードで「子を守る母の物語」が伝わらないことであり、そうなるとあそこは現実的描写として観客に受け止められ、実質的な「行動のなさ」の方に意識がいってしまう。


「子を守る母」の象徴としてのシーンとすれば少しは見え方が変わってくる。




のだが、

「子を守る母」の話であるならあのエンディングはないよね。ってことで頭の議論に戻ってくる。ああ長い道のり。


■機能しない父親としての細田守

ここまで脳足りんでも一生懸命考えたおかげて、この映画の無責任さに対して少しは距離をとることができるようになったと思う。
細田守は多分、しようと思って無責任な態度をとったわけではないのだろう。細田理論に絡め取られた結果、ラストが意図の伝わらないものになってしまったのだ。そう思いたい。(そう思いたいので、頭に描いた「表現者としてダメだろう」は撤回させてください。)


苦くも細田守本人が子(観客)とコミュニケーション断絶を起こす「機能しない父親」となってしまっている。

劇中、すずの父親はあまりにも無責任に映る。

子とまともに話さず、危険な地へ送り出す描写不足の父。
その裏にどんな論理、理屈、考えが隠れていようと前に出てこず伝えなければ子にとってそれは無責任な存在となってしまう。
桃をそっと差し出すだけではダメなのだ。



書いてきた無責任さとは別に本気でムカついたとこ1点。
”障害ノルマ”を犬に背負わせていたところ。これはマジに無責任です。悔い改めてください。


■褒め褒め褒め

評価してる部分も大いにあるので中和します。

・声優の演技
主人公の朴訥な声は千尋を思い出した。竜との物語でもあるし割と意図的?歌もとても上手でそこらへんは素晴らしいと思った。
yoasobiが声やってるってのは知ってたけどエンドロール流れるまで、あのメガネの子だって分からなかった。というか本業の声優かと思ってた。
Uでの有象無象の声を除けば声優はいい感じだったと思う。

・サイバーディズニーミュージカル
ディズニーミュージカルへのオマージュでもあるがそれをサイバーの世界でやるっていうのは単に独自性が高くて面白いと思った。

・映像の解像度
全体的に映像の解像度が高くて3Dだからといってちゃちく見えずに、すごい頑張っていたと思う。竜の城に行く時の矢継ぎ早に切り替わる背景なども美術的に面白かった。
竜の城の炎上などもかなりディティールがあって良かったです。

・3Dすず
現実とUの表現をきっかり分けて、Uですずが現実の姿になった時もちゃんと3Dで表現されるのが良かった。(こういう細かさはいいんだけどね。)
さらに変身シーン。ここは意図的にプリキュアとかセーラームーン的な変身シーンを意識していると思うが、ベルからすずという、衣装から現実の姿への「逆変身シーン」は素直に面白いことするなと思った。

他にいいところはあります。
『バケモノの子』『未来のミライ』よりは見てて面白かったです。


■最後に

改めて『竜そば』で細田守の演出、ディレクション能力の高さを感じる。本当にいい監督なのだ。でも脚本が全てをひっくり返すぐらいに悪い。

作品を面白く見てもらいたかったら、サポートの脚本家を入れて細田理論を柔軟にするか、またはファンタジーをやめなければいけないと思う。

私は細田守単体ではファンタジー向いてないと思っている。(もうこれ以上書かないが)細田守は「ワールド」を描くの不得意な人だ。ファンタジー要素をやめて現実だけの話を書いてくれればもう少し象徴のズレが収まっていい作品になると思うんだけどなぁ。でもファンタジーがなきゃ見る客減るんだろうな。悔しい。

能力高いだけに本当に惜しい監督。

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