SS小説『バス、ポークカツレツ、雨』2013年作

ショートストーリー小説(2013年作)
『バス、ポークカツレツ、雨』


「俺はもう疲れたんだ」
 隣の席に座っている男が急に言った。男の方をちらりと見て、僕はすぐに視線を手元の小説に戻した。男は白いシャツに濃い青色のジーパンを履いていた。髭がきちんと剃られていてすっきりとした顔立ちだった。
 今、僕は病院に向かうバスに乗っている。山道を走っているため時々、バスは大きく揺れた。外はどんより曇っている。今にも雨が降りそうだ。
「もう本当に疲れたんだ。やってられないよ、まったく。なんだって俺がこんな所まで来なくちゃならないんだ。タキガワとかミツルに任せりゃいいんだ」
 男の声は僕だけに聞こえる程度の大きさだった。しかし、別に男は僕に対して話しているわけではないようだ。僕は小説を読み続けていたが彼はそれを止めようとしなかった。たぶん彼は『誰か』に話しかけているのだ。それは僕であり、僕でなかった。
「これでもう3週間にもなる。毎日この山道を登っているんだ。道も覚えちまったよ。この次の角を右に曲がるとトンネルがあって、そこから道は左にゆるやかに曲がっていく」
 僕は病院の中にある飲食店でポークカツレツを食べようかと考えていた。その時、ちょうど小説の中では主人公がポークカツレツを食べていた。香草を入れて煮込んだトマトベースのソースが上にかかっている。できたてのポークカツレツ。それをビールと一緒に流し込んでいる。
「まあ、仕方ないとは思うぜ。これも運命だと諦めてはいるんだ。でも不満って奴はどんどん胸に溜まっていく。そしてそれが俺を蝕んでいくんだ。心臓に繋がった血管がそれを体の隅々まで行き渡らせていく。もう俺は疲れてしまったよ… ああ、くそっ。雨まで降ってきやがった」
 僕は小説から目を離し、バスの外に視線を移す。バスの窓に雨の筋が増えていく。僕は小説を閉じて目を閉じた。
「やばいな、傘なんか持ってきてねえよ。病院に予備の傘ないかな。本当にいいことないな、最近。誰か俺の代わりになってほしいもんだ」
 僕はずっと瞼の裏側だけを見ていた。そこには暗闇だけが広がっている。しかし徐々に暗闇に色がつき、青や緑や赤になっていく。そして僕にはもうそれが何色なのかわからなくなった。
 隣で男は話を続けている。僕にはどうでもいい話だ。僕には関係ない話だ。頼むから静かにしてくれ。誰かこいつを黙らせてくれないか。


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