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李琴峰さん、受賞スピーチ「生き延びるための奇跡」

グーテンターク!皆さまこんにちは。

今日は李琴峰(り ことみ)さんの芥川賞受賞スピーチが素晴らしく、もっと言うと気迫に打ちのめされました。生き延びるための力としての言葉と文学。このその感動を書きます。

李琴峰さんは『彼岸花が咲く島』で第165回芥川龍之介賞を受賞。台湾出身初の同賞受賞者としても注目を集めています。8月27日の授賞式が行われた際の受賞スピーチが「生き延びるための奇跡」です。

こちらのサイトで全文が紹介されていますので是非ご一読くださいね。

彼女の冷徹なトーンながら、苦しみ、悩み、もがき、怒り、戦ってきたのであろう彼女の人生そのものがスピーチの言葉として溶け込み、立ち上ってくるようでした。

「生まれてこなければよかった」という幼き頃、大人になっても自分は世界から祝福され、歓迎される種類の人間には決してなれないとしか考えられずにいた彼女が得た生きる力となったのが知識に加えて文学をあげられたところ、ここに私は非常にひきこまれます。

文学と言えば、世の中に役立たないもの、理系文系の話でいうと馬鹿にされる文脈のド文系の真ん中に文学がふわっと位置付けられている世の中を悲しく思う私は李琴峰さんの力強い(そして挑戦的でもある)彼女のスピーチが心に響きました。

“世界の悪意はあまりにも巨大で、個人はあまりにも小さい。しかも、世界は決して間違ったことを認めようとしません。いくら個人を踏み躙り(にじり)、痛めつけ、絶望の淵に突き落とし、死の闇へ葬ったとしても、世界というのはただけろりとしながら、何もなかったように回り続けるだけ。全ては個体の脆弱性のせいとして片付けられてしまう。     そんな理不尽なほど途方もなく、得体も知れない獣が相手だと、思わず立ち竦み、打ち震え、死による解放を希求するのも道理でしょう。実際に悪意や敵意を向けられ、嘲笑や中傷を浴びせられ、傷だらけになり、死の淵を彷徨ったこともありました。”
“今日まで生き延びてこられたのは、他ならぬ知識と文学の力だったと思います。知識は私に客観の目を授けました。それによって、自分自身の置かれた状況や境遇を、時間的・空間的に距離を置いた視点で見ることができ、更には苦痛の根源を模索する手がかりを手に入れることができました。文学は私に表現の手段を与えました。それによって、絶望や無力感、怒りや憎しみ、悩みや苦しみといった主観的な感情を消化することができました。世の中の浅薄な雑音に耳を傾けるより、私は書物を読み耽り、自分自身を刻みつける代わりに、私は文字を刻みつけました。それでも怯えに震える孤独な宵があり、涙を流す眠れぬ夜がありましたが、それらに耐え忍びながら今日、私はこの芥川賞贈呈式の壇上に立っています。”

彼女が作品を書く上での問題意識は言語や国家、文化や歴史に対する思索、更には現代社会や政治に対する危機感や、カテゴライズされることの苦しみです。

それが心にの琴線に嫌な形で触れる人がいるのか受賞後に彼女に浴びせられた暴言は凄まじかったようです。

しかし彼女からすれば、そういう暴言の数々、その彼らの行動やヘイトそれこそが『彼岸花が咲く島』という小説を寓話的なフィクションからより一層予言に近づけているのだと言います。

彼女はスピーチ後半にこうも述べています。

『彼岸花が咲く島』という作品は予言になるか、それとも単なる寓話に留まるか、それは著者の私に決められることではありません。この国、そしてこの世界に生きる一人ひとりが、その行動によって決めることです。

「一人ひとりが」「その行動によって」「決める」こと。

顔が見えるところでは空気を読んで、自分ではない誰かを責める、匿名ならそれは暴言に。そんな今の風潮に対する強烈なアンチテーゼのように思いました。

彼女がスピーチで語った内容を頭の片隅において、自問しながら本を読んでみようと思います。

それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!

Bis dann! Tschüss! ビスダン、チュース!(ではまた〜)😊




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