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【読書感想】千利休 切腹と晩年の真実 (朝日新書)

グーテンターク!皆さまこんにちは。フランクフルトのYokoです。新年のお正月皆さまいかがお過ごしでしょうか。一年の願いを込めて初〜をされる方も多いと思います。私は読書を選びました。二日にある方からお勧めいただいたこの本です。昨日と今日で一気に読みました。面白い!

内容もよかったのですが、

固定観念に囚われない発想やものの見方、一次資料からファクトを積み上げ自分で思考する姿勢の大事さを新年に学ぶことができて満足しています。

今の時代にまさに求められている姿勢とスキルだと思うので。

内容に関しての感想はといいますと、

千利休は果たして本当に切腹して果てたのか?定説に挑戦する野心的な本ですが、トンデモ説ではなく、学者らしく丹念な一次資料の読み込みとパズルの組み合わせで追放説に説得力がありました。

千利休の切腹の謎にいきなり入るのではなく、千利休=わび茶といわれるそのわび茶とは何かから入る構成もよかったです。

読んでみると読む前に期待していた堺商人としての利休への言及は少なく、そこは残念でしたが、読ませる内容です。

作者もあとがきで認めるように切腹でないと断言するには推論に近い部分もあります。しかし固定観念に囚われず、一次資料からファクトを積み重ねようとする努力が感じられて、単なる想像でない緻密に組み立てられた説が九州への逐電で説得力があります。資料を並べ日記の天候、手紙からわかる物理的な行動の検証、書き手、受け取り手の置かれた立場、利休との関係、社会的背景を丁寧に分析していますし、先行研究のレビューも織り込んでいます。

時々細かいので専門外の私は(これでも一般向けに端折ったのでしょうけれど) 細かい検証に心折れそうでしたが、原文をのせた上で著者の意訳をのせて分析をするところも好印象。原典をきちんとのせるということは、読者が自分で検証できるように材料を提供しているわけで、日本での書籍やインターネット記事では軽視されていると感じているので印象に残りました。

この本から離れますが、茶道の聖人としてではなく千利休という個人に興味を持ったのは2007年のこと、井上靖の『千利休 本覚坊遺文』のドイツ語版をよしおさんが読み、この本きみは読んだ?どう思う?と聞かれて、未読の私はマズイ(恥)と取り寄せたのでした。当時は絶版で中古本を取り寄せました。

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日本で人気のある井上靖の著作から翻訳されるのではなく、ドイツ人に受けそうなもの、翻訳家の思い入れのある作品から訳されます。茶道、禅、日本文化、切腹というドラマチックな死、しかも謎めいた最期を描いた小説ということでこの作品が訳されたのかなと想像。

ちなみにこの本は、利休は何故死を賜ったのかというテーマで切腹が大前提の小説で、私も切腹についてなんの疑いもなく作品を読んでいました。

そして1年半前、2019年の秋にもう一度堺で千利休に触れる機会がありました。元はいわゆる仁徳天皇陵を中心とした百舌鳥古墳群を散策する旅でしたが、堺市博物館に中世堺の町と堺商人、そしてその堺商人の中のスーパースター千利休の展示を見る機会があり、茶人になるまでの千利休や、商売の才覚について学ぶことができました。

博物館の玄関付近にある利休の銅像です。

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反対側には(隣だったかも…) お師匠の武野紹鴎の像もあり、利休だけの評価でないところが印象に残っています。

博物館内では堺商人の鉄砲を商う商家の再現も。親切な学芸員?の方が写真を撮ってくださいました。向かって左側のスペースはお客様との商談スペース、また町屋はアーケードのように濡れずに歩けたり商家ならではの工夫が凝らされていました。

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日本人は誰も質問せず手持ち無沙汰で、よしおさんの顔を見て何かご質問はありませんかと声をかけてくださったのです。滞在時間から逆算して丁寧に手際よく館内を案内解説、質問も受けてくださったのがありがたやでさらに写真まで撮っていただいたのでした。こちらは私撮影。

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堺の興隆を伝える様々な資料、今思えば千利休が生きた時代であり、今回『千利休 切腹と晩年の真実』を読んでから、この写真を引っ張り出して当時を想像しています。堺の街並みを再現したジオラマ

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堺の町内図のようなもの。家の名前がびっしり書かれています。新しい所有者になる場合は紙が上から糊付けされているところも。商売の成功、不成功などもあったのかも。海が近いのも今と違います。

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堺の街の屏風図、確か住吉大社から出発した壮麗な行列が堺に入る様を描いたもの。

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1595年にスペインやポルトガルからみた日本図です。千利休が「切腹」したとされるのは1591年なので同時代と言えます。北海道はありません…。

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都の京都、あるいは甲斐という地名が確認でき、そこにSakey 堺、と堺の名が記されており、ヨーロッパ人の目からも貿易拠点として堺が認識されていたことが興味深いです。

当時こんな感想を書いていたのを発見。すっかり忘れていました😅。やはり記録に残しておくと振り返りができてよいですね。

10/11(金)に堺東にある古墳群を見に行ってきました。4年か6年前に訪れたときは仁徳天皇陵古墳と堺博物館だけだったのですが今回は反正天皇陵、履中天皇陵、御廟山古墳、いたすけ古墳など様々な古墳を見て歩き、最後は堺博物舘へ。館内のガイドさんに古代の古墳時代における技術力や、中世自由都市堺の歴史や商人の力、千利休の影響などを丁寧に解説していただきました。例えば地図でみると古墳がなぜか一定の方向(しかも複数)に傾いていますがその謎についても教えてもらい面白かったのと、高価な美術品としての鉄砲が買えない武士をわざと質素ななりをした店主が皮肉る場面が再現してあったのが印象的。堺の店は軒先に屋根があり濡れずに歩けたのが伊ボローニャのアーケードを思い出します。                                                                                                  その立派な店構えを再現したコーナーの前でガイドさんに堺の気質を現す言葉を教えてもらいました。京都は着倒れ、大阪は食い倒れ、堺は建て倒れとのこと。どうりで住宅の密集地域でも立派な門構えの家が多く、車もメルセデス、アウディ、ミニ、レクサスなどがゴロゴロ停まっており、広いお屋敷もたくさんで妙に納得。

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それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!

Bis dann! Tschüss! ビスダン、チュース!(ではまた〜)😊







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