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学生の化粧は本当にダメなのか?

 先日、私は安原健太(@yasuharakenta)さんの↓のエッセイを目にした。

 私はこのエッセイを拝読し、女性が「かわいい」と発言することの裏の意志や、どう捉えられてしまうのか、あまり自分が強く意識して考えたことのなかった視点からの切り口であったため、自分にはなかった新たな視点から物事を考えることができ、とても考えさせられる部分も多かった。

 このエッセイについて、同じくこのエッセイを読んだTwitter上の知り合いは「ナンパされることが「いいな」と思う友人もいるが私は絶対にそうは思わない」といった旨の投稿をしていた。この考えは私も想像することができる。「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものはない」というのもよく耳にするし、リアルでもネット上でもそういった事例は存在するであろう。しかし、私はこの旨の投稿を見た時、真っ先に浮かんできた一つの作品がある。それは百田尚樹氏著作の『モンスター』という作品である。この作品では、幼いころから容姿が醜いことでひどい扱いを受けていた主人公である和子が、風俗嬢として働きながら整形を繰り返し、自分の理想の顔に近づいていく、というあらすじの物語である。この物語中での数度目の整形が終わった時、街を歩いている和子が見知らぬ男にお茶に誘われるシーンがある。いわゆるナンパだ。この時の和子はこの男の誘いを断るのだが、後の文章で和子の胸中が語られる場面があり、和子は人生生まれて初めてナンパをされた、という事実にとても喜んでいたのだ。

 もちろんこの物語はフィクションであるし、もし自分が容姿が並より優れているような、ナンパをされるような女性であれば、おそらく嫌悪感を抱くと思う。しかし、この物語のようにナンパをされることで自分がそのような人間であり、自分の価値をその行為によって認めることができるような女性もこの世には間違いなく存在するのではないだろうか。(この物語の主人公のケースはあまりに特殊ではあるが。)これを引き合いに出すわけではないが、もちろんこの世界には35憶人もの女性がおり、一人一人が違う人間だ。ありきたりな言葉にはなってしまうが、「人それぞれ」なのだ。(なのでもちろんナンパや性的対象として見られることに嫌悪感を感じる女性はたくさんいるので男性陣はそのことを念頭に置いておくべきであろう。)

 さて、前置きが長くなってしまったが、今回私が最も考えたいことはこのエッセイ中でも語られている「学生の化粧の是非について」である。時代が変わってきているとはいえ、いまだに多くの高等学校では化粧禁止の学校が多いであろうし、私の出身校も原則、化粧禁止で服装頭髪検査において化粧をしている女子は担任の教師から指導を受けていた。私は当時、恥ずかしいことではあるが女性の化粧についてあまり深く考えたことはなかった。しかし、大学生になり、社会人とも関わる機会が増えた。そして大学で教職科目を履修している影響もあり、女性の化粧について目にしたりすることも増えた。社会人にもなると「女性が化粧をしないのはマナー違反」とまで言われるくらいに、社会では女性が化粧ができることが必須のスキルのようなものになっている。というより、社会人になってからではなく、大学・専門学校等、高校を卒業した女性はみな一様に、そして当然と言わんばかりに化粧をすることを求められるようになる。一年前までは「化粧をするのは学生として…」等々言われていたにも関わらず、である。

 このことについて今までも気にすることはあったが、このエッセイをきっかけにしてこの問題について考えてみたくなった次第である。

 さて、それではネット上に転がっている「学生が化粧をしてはいけない理由」をいくつか拾ってみよう。

①「高校生はまだ子供であり、化粧をする必要はない」②「校則で・ルールで禁止されている以上ダメなものはダメ」③「女子生徒同士での見栄の張り合い・上下関係が生まれる可能性」④「若い肌・幼い肌にメイクはよくない」⑤「化粧に気を取られ学業がおろそかになる」⑥「非行に走る恐れが大きくなる」⑦「社会に出れば否が応でも化粧をしなければならないのだから今はしなくてもいいのではないか」

など、上記のような理由が多くみられた。ここからはあくまで私個人の、そして男性という視点から物を書くのでそれを前提においてもらえると有難い。(そもそもこの問題を男性が取り上げるのは難しいものではあるが…)

 一つ一つ理由について吟味してみたい。まず②「ルールで禁止されているからダメなものはダメ」これは暴論であろう。もちろんルールを守ることの重要さは言うまでもない。しかし、校則はどうであろうか。実際に私も恐ろしく厳しい校則を目にしたことはあるが、明らかに「これはどうなんだ?」というルールもある。(極端な例をあげると、女子生徒はポニーテール禁止 とかね) この文章を読んでくれている方の中にも理不尽な校則にモヤモヤした経験を持つ人も少なくないと思う。理不尽であるうえに、なにより生徒はこの理由では到底納得しないであろう。④、⑦に関しても大人がこのルールを正当化するために用意したものに聞こえてならない。⑤はどうか。これも疑わしい。実際に化粧を学校でバチバチにしている人でも成績が良いといったような話も聞きますし、結局勉強するかしないの人によるところでしかない。⑥ 非行と化粧に因果関係はもしかしたらある可能性はあるかもしれないが、このことだけで生徒全員を縛り付けるのはどうか、とも疑問だ。学外では化粧をしている女子高生が大半ということもあるだろう。③についてはなかなか私の知ることができるところではないため、申し訳ないが割愛させていただく。(むしろ教えていただきたい) 最後に①。結局のところこれがすべてであると思う。子供と大人の境界の線引きの一つとして化粧を用いている、このことの正当性を強調するために他の上記に挙げたような理由を引っ張ってきているように見える。とはいえ、教職を履修している自分もいるため、先生方の言いたいこともわかるのである。「そういったことを気にせず、勉強に励んでほしい…」そういった先生もたくさんいるだろうし、気持ちもわかる。

 しかし、これは同時に児童生徒の主体性を損なわせている可能性もある。校則で生徒を縛るのは簡単であるうえに、そうすることで教員自身が考える「理想の生徒像」に生徒を落とし込むのも簡単である。しかし「正しい生徒」とは「理想の生徒」とはなんだろうか?校則を何の批判意識もなく受け入れ、厳守することが「理想の生徒像」ならばそれは間違いではないのか?

 おそらくこの文章を教育現場に携わっている先生方が見れば「教育現場に立ったことのない若者が」と思うであろう。そのとおりである。実際に教壇に立ったこともなく、教員としてこの問題に向き合ったわけではないので、理想論になっているかもしれない。しかしそれゆえに見えてくる視点もあると私は思っている。これだけ世の中でやれ主体性やらクリティカルシンキングなど言われているこの世の中で校則に何の疑問も持たず守る生徒が「理想」であるとは私には思えないのである。校則で縛り付けるのではなく、この問題を「生徒の主体性を試すもの」として捉えなおすことはできないだろうか。化粧という事柄一つでも生徒が「選択すること」「何が正しいのか」ということを考えることができる機会にできないだろうか。

 とある記事では化粧を許された学校でも、化粧をしている生徒のほうが少なかった、という事例があったという。これが答えではないかと思っている。化粧をするのもしないのも、結局のところ個人の選択であり「人それぞれ」なのではないだろうか。



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