見出し画像

【え7】志望校じゃない学校が、母校になった話

私が大学を受験したのは、今から25年前。もう四半世紀も昔の話。
鮮明に覚えていること。少しも記憶に残っていないこと。様々だ。
至って当然の話なのだが。

当時はインターネットなどという便利なシステムは微塵もなく。
宿泊先はJTB。移動手段は「みどりの窓口」で相談するしか術はなかった。
受験料だけでもバカにならない。場所が東京であれば尚一層のこと。
家族が選んだホテルは当然最低ランク。移動手段は当時最も安かった寝台特急だった。

寝台特急なんて、今の人には想像上の乗り物だろう。
鉄道ファンにとっては、憧れの存在なのかもしれない。
今のような「動く高級ホテル」ではなく、2段ベッドがズラッと並ぶ貧相なものだった。ブルートレインなんて格好良い名称は付けられていたが。

2月の初旬。
小雪が舞い立つ寒さの中、私はそれに乗って大学受験に向かった。
滑り止めの目的で受験する学校なので、半ば観光目的で東京に行くようなものだ。18歳の一人旅。ボストンバッグ一つ持って、気分上々での出発だった。ノートや参考書は数える程しか入れていなかったと思う。申し訳程度に英単語カードの綴りが1個。鉛筆と消しゴムは山のように入れていた。そして何故か使い捨てカメラが入っていた。まさに観光だ。「お上りさん」だった。

車内は各ボックスに2段ベッドが対面で並んでいる。後に廃止となるが、この頃から既に乗客は少なかった。乗り物酔いの激しかった当時の私は、進行方向が前になるベッドの下段の席だった。向かいには、前の停車駅から乗って来たであろう女性が座っていた。18歳の男が興奮して声を掛けるような年齢には見えなかった。ご挨拶だけして、ボストンバッグをベッドに置いた。それぞれの上のベッドには、誰も乗っていなかった。ベッドは最後まで空いていた。

東京へとひた走る列車。山の中に入り、いつの間にか窓の外は雪景色に変わっていた。それを見ていた私に、女性は声を掛けた。
「どちらに行かれるんですか?」
私はボストンバッグの中に2,3日分の着替えと、大量の鉛筆と消しゴム。そして使い捨てカメラが入っている怪しいこと極まりない者だったが、一丁前に
「大学受験で東京に行くんです」
と答えた。とても観光気分で滑り止めの大学を受けに行くんですとは言えなかった。今ならジョークで言っていたかもしれない。事実なのだが。

偶然、同じ東京行きの列車に乗り合わせ。
偶然、同じボックスの向かい合わせになる。
その程度しか関係性はなかった女性が次に発した言葉を、私は四半世紀が経過した今でも鮮明に覚えている。

「勝負事で出陣する時に雪が降るのは『白星』といって縁起が良いんですよ」

18歳の私には「はぁ…そうです…か」としか返事はなかった。
外は、うっすらながら白くなっていた。白星が降り積もっていた。
18の小坊主に対するお洒落な返し言葉を、今になっても覚えている。
今の私なら「そうか坊主、しっかりやれよ」ぐらいしか言えないと思う。
その後は特別話し込む事もなく。私は駅で買った幕の内弁当とお茶を飲み干し、そそくさとカーテンを閉め横になった。単語カードではなく、前日に本屋でこっそり買った週刊プレイボーイを読みながら。
列車の「ガタンゴトン」という揺れと音の繰り返しは、眠りを誘う。
ただ、一人で上京するという興奮はプレイボーイのグラビア以上に抑えきれない。夜が更けた頃、下がっていたブラインドを時折上げて外の景色を眺めていた。神戸の街の家々の屋根には、未だにブルーシートが掛けられていた。そんな夜だった。

長く眠ってはいなかったと思う。睡眠不足を感じつつカーテンを開けると、すっかり女性の身なりは整っていた。私は安眠感のない表情で、髪には寝癖もしっかり付いていた。後にTVで観ることになる「水曜どうでしょう」の深夜バスの旅と同じだ。大泉洋やミスターと同じく、私も深夜特急にヤラれていた。
列車に備え付けられている洗面台へ向かい、歯を磨き顔を洗い。ベッドに戻ってカーテンを閉め着替えを済ませる。私が慌ただしく朝の準備を行っている間に、正面の女性は列車から降りていた。そういえば、熱海にあるMOA美術館に行くと言われていた。私が挨拶を出来なかった事などお構いなく、列車は確実に東京駅へと向かっていた。

東京は寒かったが、快晴だった。
JTBのカウンターで聞いた通り、私は東京駅から地下鉄で銀座へ向かい、そこからバスに乗って晴海にあるホテルへと足を運んだ。18歳の私には何もかも新鮮に見える。受験どころの騒ぎではなかった。
ホテルの客室に荷物を置くと、すぐに試験会場である大学まで向かってみた。さすが一番安いホテルだけある。周囲には目的の大学は見当たらない。1時間以上懸かって、会場に辿り着いた。相当な早起きが当日には必要だ。

試験当日の事は殆ど記憶にない。滑り止めではあったが、異常なまでの緊張感で大学に向かっていた。記憶に残っているのは、ホテルが用意した折詰弁当の箱の大きさと、国語の試験で出された「◯◯◯ したい時には 親はなし」という高校生を小馬鹿にした穴埋め問題ぐらいだ。

滑り止め大学の入試が終わり帰途に就く際も、移動手段は寝台特急だった。
今度は誰も同じボックスには居なかった。東京駅で買ったチキン弁当と、「大清水」と書かれた珍しい飲み物を持って、自宅へと戻った。
二週間ほど経過した頃。我が家に合格通知の入った定形外の郵便物が届いた。入学パンフレットと一緒に、尋常じゃない額が印刷された振込用紙も入っていたが、その顛末は後日に。

翌月。
今度は本命校を受験すべく、再び上京した。
2ヶ月続けてブルートレインに乗る事となったが、今回は雪の一粒も落ちて来なかった。洒落た言葉で励ましの言葉を送ってくれる女性もいなかった。唯一の希望は、前回よりも受験会場へのアクセスが良い「池袋」のホテルを用意してくれたぐらいだ。そこもまたJTBとしては最低ランクの宿だったが。
結果は散々だった。直前の全国模試ではB判定。勝ち目はあったが、そこを滑り止めにする猛者達が多かったのだろう。暫くして我が家に届いたのは、定形内にすっぽり収まる封筒だった。厚さも薄い。二兎を追う者は一兎をも得ずだった。私は全て池袋西口にあるホテルのせいにした。試験会場までのルート確認の後に、偶然立ち寄った書店で「辺見えみり写真集」を買った事を棚に上げて。

しかし、結果オーライだった。
滑り止めの三流私立大が母校になったとしても、思い出は沢山できた。
そこの学食は安くて旨かった。それを奢ってくれる仲間もできた。
そこそこ名のある大学で、一応「学士」という称号は頂いた。

私が通っていた高校では、東京に進学する生徒は片手ぐらいだった。
関西に進学する者も少ない。九州から出たがらない連中ばかりだった。
そして、多くの予備校生を輩出した。大学生になっただけでも栄誉だった。最新版の卒業生進路一覧には、三流私立ながらも堂々と大学名が書かれていた。東京工業大学や早稲田大学の横に、申し訳なさそうに載せられていた。
当時は「滑り止め扱い」をしていた母校の受験が2月だった事もあり、早々に合格を決めたことを知った同級生からは、揃って白い目を向けられた。私が大学生になる事は犯罪行為なのか。下衆の極みだったのだろうか。
そんな不穏な雰囲気の中でも、担任は喜んでいた。

「驚いたねぇ。修学旅行のバスの中で環七を『かんしち』と読んでいた君が、まさか東京の大学に行くなんて」

どうせ大学に行くのであれば、東京にある大学に行け。
父のコンプレックスに近い夢を、私は薄氷の思いで叶えてしまった。
「かんしち」と読んだ男の頭には、一年後に地下鉄の路線図が入っていた。