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ワーニャの部屋

 映画を観たあと、さて何から手をつけようと思ってまずやってみたのは「ワーニャ伯父さん」を音読してみることだった。話者ごとに拳でこつんと机を叩くところまでは真似ないけれど、一人で、声を出して読んでみる。感情をあまり込めずに、小説文を読むくらいの調子で自分の声にしていく。それだけのことでも、ずいぶん今までと違う感覚で読むことができた。ただことばの内容から筋書きを読み取るというだけでなく、ことばにふさわしい時間を、声によって与えているという手応えのようなものが感じられる。ことばを発した人物の過ごした時間がわかる、とでも言おうか。
 おもしろいことに、ト書きにもまた、読むことで新たな発見がある。事物の名前や配置にも、それを述べるためのふさわしい時間があるらしい。第四幕のト書きを、声に出して読んでみよう。

 ワーニャの部屋。ここは彼の寝室で、領地の事務所を兼ねている。窓際に出納帳やいろんな書類の載った大きな机、小さめの事務机、棚、秤がある。アーストロフ用の小さめの机。この机には作図用の道具類、絵具。そのわきに書類ばさみ。ムクドリを入れた鳥カゴ。壁には、ここの誰にも必要がなさそうなアフリカの地図。油布を張った大きな長椅子。左手に寝室に通じるドア、右手には物置に通じるドア。右手ドアの前に、出入りの農民たちに部屋を汚されないように靴ふきマットが置かれている。秋の夕べ。物音ひとつしない静けさ。
(チェーホフ/浦 雅春訳『ワーニャ伯父さん』光文社古典新訳文庫 )

 机・机・机。大きな机、小さめの事務机、アーストロフ用の小さめの机。使い込まれた机は、その前に座る者の陰画だ。ワーニャの机の周りにある出納帳や書類、そして秤。おそらくワーニャのこれまでの暮らしは、さまざまな数字と格闘すること、事物を金銭に換算することであったのだろう。一方、アーストロフの机の周りには作図用の道具、絵具があり、ムクドリがいる(小さめの、とは言うけれどムクドリのようなけっこうな大きさの鳥がそばにいても違和感がない大きさなのだろう)。「必要がなさそうな」アフリカの地図は、長らくそこに貼られ続け、ワーニャにとってはもはや壁紙のような存在なのだろう。部屋の隣には寝室がある。そこから眠りの気配が漏れてくる。「秋の夕べ」も「物音ひとつしない静けさ」も、部屋に置かれたものの一つのように並べられている。

 第四幕は、このような空間で繰り広げられる。ワーニャにとって親密なこの部屋に、ソーニャはあとから、アーストロフは(あるいはムクドリも一緒に?)ずっとあとから居着くようになった。

 村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」は、このワーニャの部屋を、車という空間に置き換えた小説であり、そこに物語のひらめきと可能性がある。土地に根ざした部屋から、移動する、わずかな座席によって構成された空間へ、ワーニャとソーニャの物語は移し替えられた。それはどのような形で、映画になり得るだろう。

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