佐藤文香「渡す手」を読む

 佐藤文香『渡す手』の表題作「渡す手」を何度か読み、未だ読み切ったという気がしない。詩はまとまりのある物語ではなく、そのつど明滅することばの時間だと思っているけれど、ならばそれぞれのことばが明滅するための響き合いはあるはずで、しかしそれがまだ、十全には感じられていなくて、だから読み切った感じがしない。

 読み切って片付けられないから詩は携えられるのだとも言える。その、十全ではないところも明らかにしながら、いまのところわたしがどう読んでいるか、一連ずつたどって、記していこう。

粉のような草花が、そのあたりに近景も遠景もなくございます、
その一帯は私という存在よりも上位であることを提示し続ける、
差し入れた腕が掠れるようなことにもやはりなるほどと、一抹の
恐縮が灯る。

「渡す手」

 詩の一連目は、比較的わかった気になる。目を惹くのは「腕が掠れる」だ。自分の腕が何かの対象を「掠め」とることはあっても、いきなり自分の腕の輪郭や形が「掠れる」ことはあまりない。それはおそらく、「粉のような草花」に手を差し入れたせいであり、近景も遠景もなさそうに見えたその草花たちには、やはり差し入れることのできる奥行きがあった。
 「やはりなるほど」と納得する語り手は、納得したいなにごとかの事態を前にしたのであり、それは「粉のような草花が、そのあたりに近景も遠景もなくございます」という光景だったのだろう。「ございます」という物語調は、どこか、芝居めいた夢を見ているようで、その近景も遠景もない景色のない中に、ほんとうに遠近はないのかしらと思って腕を差し入れてみたら、確かに草花の粉に紛れた腕が掠れるので、そこにはやはり腕が紛れてしまうほどの奥行きがあったのであり、しかしそんな確認のために、私よりも上位にある草花たちに腕を差し入れたのは恐縮だったのだろう。恐縮がともしびのように灯るので、夢は確かに照らされる。

 世界は、と言い、その音のうち愛を取り出したあとに呟く、唇を
 手の甲におしあてて離すと、なにもかも話し終えたあとのように
 息が肺の底へ降りてくる。そこへ松明をかざしに、小さな方たち
 はいらっしゃる。

「渡す手」

 「その音」とあるから、ことばの音を感じたくなってくる。世界のどこに愛があるだろう。「SEKAI」。なるほど確かに「AI」がある。「AI」を取り出したあとは「SEK」なのだが、ここでは何が残ったかではなく、愛を取り出したあとに呟いたことの方が大事なのだろう。何を呟いたかはわからない。わからないが、かすかな呟きにいかほどの息が必要だろう。ところが、ほんの呟きのあと「なにもかも話し終えた」と思うほどの息が吸い込まれて肺の底へ降りて来る。唇を手の甲におしあてるという儀式が、この魔術を生んだのだろうか。底へ、いや、そこへ、松明。おや、「TAIMATSU」ここにも「AI」がある。愛が灯されるのだろうか。たっぷりと吸い込まれた息は松明を輝かしく燃焼させそうだ。それにしても「小さな方たち」とは。「方たち」「いらっしゃる」とうやうやしく呼ぶところを見ると、「上位である」一帯からの使者だろうか。

 摘んできたものを珍しいから咲かせるとがんばって、養分を買い
 に行くはずのあなたがシンクをよぎり、昼に掠れた私の腕を、し
 かとあるもののように抱きに来た。小さな方たちは左に寄り、私
 の内膜へ触れて湿らせた手で、松明を握り消す。

「渡す手」

 あなたが登場し、世界は、にわかに色づきだしたように見える。「昼に掠れた」とあるから、一連目は昼だったのが、この三連目はもう夜なのかもしれない。目には掠れていた腕を、触ることで確かにするからだ。「左に寄り」ということばにひっかかる。なぜ右でも真ん中でもなく左なのか。いや、ここでは、左右ではなく「寄る」ことが肝心なのかもしれない。寄るから内膜に触れる。そこは湿っている。湿り気を得た触覚の力。もはや視覚ではなく触覚が夜を専制した。その証拠に、視覚のよすがである松明を触覚で「握り消す」。

 今日の一枚、それが花野として翌朝またございますならば、その
 一層下のここもまた、話者の息に満ちた部屋のようにあるでしょ
 う、そこに私の、臓器は飴の類なので、喉から入って私のかたち
 に、落ち着くつもりなのです。

「渡す手」

 「今日の一枚」とは何か。枚数で数えられる何か。「ございます」というからにはまたしても夢の用語か。一枚がわからないから、「一層下のここ」もどこか分からない。上下関係は一連目の響き合っているようにも読める。とすると、「一枚」は遠近のない(しかし腕を掠めることのできる)草花たちであり、「一層下のここ」とは私という存在だろうか。
 だとしても「そこに私の、」がどこにどう続くのかもわからない。「そこに私の、私のかたちに」と言い淀んでいるのか。にしても「臓器は飴の類なので」がまたわからない。存在は息に満ちた部屋だが、臓器は飴の類なのか。喉は存在の入口なのか。「存在と臓器」という哲学書があったら妙だな。「飴」ということばの甘ったるい、粘るような感触が、あまりにも「息」とかけ離れていて落ち着かない。「あ」の隣に「い」はいるのに。世界にも松明にも、一帯にも一枚にも愛はあるのに。わたしのかたちに落ち着くつもりなのは小さな方たちなのか。

 雨は冷えて、私からあなたのかたちに移り歩く小さな方たちに、
 細かな茎や葉が配られていく。

「渡す手」

 飴の感触は液体の雨となり、しかし冷えてここでわたしははたと、「小さな方たち」が、「ちいさなかたち」を吃音化したものだと気づく。かたち、と言おうとして、一つ余計に足を踏んで、かたたち。吃り、余計に足を踏み出すからこそ、ことばは転がり出す。かたたち、かたたちと歩くかたたち。「細かな茎や葉」、もう松明ではない。あるいは、それらはやがて松明になるのか、わからない。ちいさなかたたちの在処が息ならば、かたたちはかたちからかたちへ、息と共に移り歩くだろう。かたたちの足取りはカキクケコを多く含んで、くっきり響く。「こまやかなくきやはがくばられていく」。「コ」で始まり「ク」で終わる詩。


(この稿を書くにあたって、2024.4.19に開かれた「声と身体の読書会」でのディスカッションを参考にしました。参加者のみなさんに感謝します。)


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