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小説であまり書かれない〈家計〉のディティールを書いてヒットした小説家・原田ひ香の新刊は 『財布は踊る』

中堅になって、他の小説家の作品へ解説やコメントを書いてくださいと言われることが増えた。仕事・労働小説を愛する者というプロフィールを押し出したせいか「そういう視点で」とくださる依頼もあるようで光栄だ。

このたび原田ひ香さんの新刊『財布は踊る』の帯コメントを書かせていただいた。

原田ひ香さんと言えば、昨年刊行された『三千円の使いかた』が大ヒット中だ。60万部くらい出ているらしい。
私も読んだのだけれど、とにかく読みやすい。さりげない日常のシーンから始まるのに、物語に引きこまれてしまうのは、登場人物たちが私たちのすぐそばにいそうな市井の人たちの気持ちや、私たちのすぐそばにあるお金の動きを非常に細やかに書いているからだろう。

私たちは実はしょっちゅうお金のことを考えている。駅までバスで行くか徒歩で行くか。コンビニで買うお菓子はいくら以内にするか。家族と行く土曜日のランチの予算はいくらにするか。焼き鳥屋に寄っても、今日は頑張ったから120円の若鶏じゃなくて、160円の豚串いっちゃう? みたいなことを細かく細かく考えている。iPhoneにお金のことを考えている時間を計測できるアプリがあったなら「今日のあなたは8時間、お金のことを考えていました」と出ると思う。

しかし、小説の世界では、いや、小説に限らず、あらゆるエンタメ作品で主人公はそれほどお金のことを考えていない。貧しい設定である場合は別として一万円以下の金銭についてそれほど脳を使っていない。でも読者や視聴者はエンタメ鑑賞しながら、実はけっこう考えている。

『逃げるは恥だが役に立つ』がドラマ放送していた頃、デジタル業界に勤める友人が「主人公たちが暮らすあのマンションって、30代のSE男性が購入するにしても賃貸だとしても無理ではないかと思って調べてみたらどうやら菊名らしい。ならまあ納得だが」と話していた。そう言われてみると私も「非正規雇用さえ失い、家事代行だけで食い繋ごうとしている主人公が歯の治療をするときに自費診療を受けようとするのはあまりにバブリー。実家住まいだから経済感覚がないという描写なのか…」とかなり悩んだことがあった。エンタメにそこまで悩むなよと思われるかもしれない。でも、それだけ、私たちはお金のことを気にして暮らしているのだ。市井の人を描こうとしたとき、彼らがどんな金銭感覚であるかということは大事なのだ。

原田ひ香作品で、個人的に好きなのが『そのマンション、終の住処でいいですか?』だ。

有名建築家による一等地の中古マンションを建て替えるか、そのまま残すかをめぐって住民たちが目まぐるしく活動するこの物語。騒動の渦中に巻きこまれたかのような体験ができて楽しかった。その体験を支えるのは、やはり、細やかに描かれるお金の話だ。

そんな原田ひ香さんの新刊は、冒頭でも紹介した『財布は踊る』。このタイトルをみた時、思った。お会いしたことはないけれど、原田さん、まだお金の話を書くんですか? まだネタあるの? しかしまったく杞憂だった。

財布を主役にしたのがうまいと思う。
一人の専業主婦が節約をがんばって買った高級財布が、いろいろな人たちの手に渡っていく。今いくらお金があるか、その数字と、人の心とがリンクして物語が動いていく。その中には、株式投資にめざめた会社員もいる。

会社に入社した頃から、将来や老後のことを考えて貯金をしていた。
(中略)
ずっと、自分の将来には悲観的だった。このまま一生働いていても、たいして年金ももらえそうにないし、老後は一人で孤独に死んでいくのかな、と半ば諦めていた。それが三十年後、六千万円くらいの金が手元に残る可能性が出てきて、急に目の前が大きく開けたような気持ちになった。

バブル世代の人と話していて「新卒で老後を考える? 早すぎるよ〜」と言われたことがある。でも、わたしたち世代から下はみんな考えてきたのではないか。フィナンシャルプランナーに相談するのは敷居が高いけど、この不安を誰かとはなしたいと思ってきたのではないか。

本作ではたくさんの人物の物語が展開されるのだが、個人的には専業主婦・葉月みづほの再起の物語が好きだ。もし私の財布が空になることがあったら、彼女のことを思い出すと思う。

そんな想いを込めて帯コメントを書きました。告知をしなきゃいけないと思っているうちにすでに重版がかかったみたいです。ぜひ!

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