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長編執筆はフルマラソンだと思った話

お久しぶりです。
長編の執筆がつらすぎて、noteを書くどころではなかった朱野です。

昨年の秋に小説を書けなくなって、休むことにして、今年の春ごろに短編が書けるようになったのだけど、その結果、取り戻したのは「小説書くのがつらい」という感覚だった。
書けない間は「書けるようにならなきゃ」って危機感でいっぱいで、「書く」っていう行為が美化されてて、楽しいものように錯覚していたのですよね。でも短編を書き出して「つらさ」を思い出してしまった。久しぶりに800メートル走ってゼイゼイするような感覚だ。
この秋から長編の執筆に復帰してさらなる「つらさ」を思い出している。フルマラソンを走っているような感覚だ。フルマララソン、出たことないけど。つらいからと言って立ち止まってしまったらさらにつらくなることがわかっているので、右足と左足を交互に出すしかない。
そして、ただ走ればいいってわけじゃなくて、自己タイムを更新しなきゃいけないのがつらい。

書きたいと思っていた記事はたくさんある。生産体制を整えるため、仕事場に投資したり、技術書典に行くなどしてリスキリングをしたり、執筆ツールをnovel-writerに変えてみたり、ランニングクラスに入って隔週でトレーニングしたり、Instagramでファッションや家事のスキルアップをしたり、いろいろしていたのだ。それを書こうと思っていたのだが、長編を書き出したらエネルギーが吸いとられてしまった。

noteが友達とさす楽しい将棋だとしたら、長編小説はタイトル戦だ。一手打つたびに「この一手は勝ちに繋がっているのか?」と悩む。「この段落に、この一文を入れるのと入れないのとで、登場人物の行動原理が変わってしまうのでは?」という悩みがはじまると、寝ている最中もずっと考えているらしくて、「やっぱり入れよう」と深夜に目が覚める。朝は目が開いた瞬間に今日が何日なのかを確認し、残り時間の少なさに絶望する。消耗するので、昼は仮眠を挟んで糖分も補給しなければならない。座っている時間が長くなると筋力が低下し、集中力が落ちるので、気が乗らなくてもランニングクラスに出かけていく。翌日はひどい筋肉痛になり、階段を手を使って登ることになる。

何かの修行?

そうだ、よいことを一つは書かなくちゃ。
ランニングクラスに初めて参加したのは八月の猛暑日だ。気温は37度を超えていて、太陽の下に露出していた肌は焦げたように真っ黒になった。一時間筋トレをして、一時間はランである。東京を走っていると、都心の地名に「坂」が入っていることが多い理由を思い知る。皇居から国立競技場まで走って帰ってくると、古参メンバーから「今日はいつもより長く走ったんですよ」と言われた。「よくついてこられたね」と褒めてもらった。中堅作家にもなると褒められることが減る。「もっとできるはず」とハードルが高くなっていて、そのハードルを超えるのには「頑張る」だけでは無理だ。でもランニングクラスでは暑さに耐えて、体のつらさに耐えて、みんなについていくだけで褒めてもらえる。

ランニングをやるのは初めてではない。十年前もクラブに入って十キロくらい走っていたし、子供がスイミングをやっている間にジムで走っていたし、ついでに子供二人を乗せた電動なし自転車で急な坂を毎日登ってもいた。初めての参加でもなんとかついていけたのはそのおかげだ。だが、メンタル面だけで言えば、長編を書いてきた経験の方が強い気がする。坂を登っている時、並んで走っていた人が言っていた。「たとえゆるやかでも、長い坂のほうがメンタルをやれるんです」と。「もう終わると思ってスピードを上げて角を曲がるとまだ坂が続いている、そこで心が折れてしまうんです」わかる。

長編を書き上げて「終わったー!!!!」と編集者さんに送ってベッドに倒れ込んだと思ったら、すぐ返事が来て「こことここを書き直しましょう。来週までに」と言われることはよくある。直して出してもゲラがくる。二回もくる。ゲラをやっているときは、すでに次の長編にかかっている。この仕事をしている限り、坂は終わらない。「私は坂が好きです。トレーニングしていれば強くなれるので」とコーチは言うけれど、長編の場合は書くごとに勾配がどんどん急になっていく感じがある。たぶんそれは売れても売れなくても同じ。だけど、途方もなく長い坂を登っている最中に、空に虹がかかっているのが見えることもあって、走ってるのって楽しいなと錯覚できることがある。その瞬間のために右足と左足を交互に動かし続けている。今いるのは初心者クラスだが、余裕が出てきたらマラソン大会にエントリーしてみたいと思っている。