短編を作ってみよう④思いがあふれてきたら執筆に進む(ネタバレ度:★★★★)
下記の記事の続きです。
<これまでのあらすじ>
「ほろ酔い読書」というお酒をテーマにしたアンソロジーの2冊目の執筆陣に加わらせてもらった朱野。Twitterで対立した二人が生牡蠣を食べにいくという設定を思いつく。対立したのに一緒に牡蠣を食べに行く理由を考えるうちに「炎上させられた方が復讐するために来る」というアイディアを考えついた。そう、これは戦争の物語。牡蠣をめぐる戦いの物語でもあるし、資本主義の世界で誰が生き残るかをめぐる戦いの物語を書いていくことにする。
プロットはほぼ完成。しかし、オイスターバーに取材に行った数日後、朱野は胃腸炎に苦しむことになったのだった。
それでは続きをやりましょう。
思いがあふれてこないと書けない
思いなんかなくても小説は書けるという人はいる。でも私は「思いがあふれてくる」フェーズに自分を追いこまないと執筆ができない。
私がプロットを精密に作るのをみて、「あそこまで作りこむ前に、自分は書きたくなってしまうんだよね」とコメントされることが多い。そういう人は普段からつねに「思いにあふれてくる」フェーズにあるのだと思う。表現者として強いタイプだ。ラップバトルにも強いと思う。
だが私はどちらかというと抑圧的なタイプである。父は「ここで有名になりたきゃ人殺すかラッパーになるか」と謳われた町で育ち、そこから脱出して親族でひとりだけ東京に戻り、有名企業の管理職にまでなった。父を見ていて思うのは、初対面の相手に失礼な態度を取ったり、怒りなどの感情を露わにしてしまう、会社員のおじさんたちはいわゆる「育ちがいいボンボン」あるいは「治安のいいところで育ち、危機に見舞われたことがない」人なのではないかということだ。あまりに無防備に思えて仕方ない。父は折に触れて私に感情の抑え方を教えた。感情を表に出すことは、とくにお前のようなやつは、危険であるというふうに育てられたように思う。だからなのか、思いを外に出すまで、私には何層もの壁があるのだ。
プロットをやりこむのにはもう一つ理由がある。心の表層にある、社会から強いられてきたテンプレートな思いを剥ぐためだ。これは誰にでもあると思う。取材しているときでも、あるいは取材されているときでも、精神科のカウンセリングを受けいているときでも、語りの最初の方に出てくる思いというのは、「私にも悪いところがあったと思うんです」とか「この問題に悪い人はいないのです」とか、なあなあであることが多い。
社会に期待されている言葉だったり、現代の道徳心に沿ったのもだったりするものだったりする。心の奥の奥のところに仕舞われている、たとえば今回の主人公が抱いている「復讐したい」とか「全てを奪ってやりたい」とか、間違っているかもしれないけど本音だよねテヘな思いって、口に出てくるまでに何回もかかるものなのですよね。
じゃあ、最初から「全てを奪ってやりたい」と言えてしまう現実にいたらヤバイ人、何も考えてないか、あるいはサイコパスみたいな人を書けばいいかというと、それもあまり面白くない。いや面白いかもしれないが、読んでいる人に「これは私の話だ」と思ってもらえないのではないかと思う。社会からの期待や現代の道徳心をちゃんと持っている人がそれをかなぐりすてて「あいつ許さない!全てを奪ってやりてえ!」と叫ぶ心境に普が至ってしまうその過程を書きたいじゃないですか。
プロットの基礎ができていると執筆で4回転ジャンプができる
プロットを何回もやっていたら、執筆がつまらなくなるのではないか、という問いももらう。でも、何回もやってたらつまらなくなる話って、ぶっちゃけつまらない話なのではないかと(あくまで私は)思う。たとえば「本能寺の変」、何回やったって面白いじゃないですか? 織田信長が死ぬシーン、何度も書けるじゃないですか。
そして、むしろガチガチに基礎固めがされているほうが私は新しいことができる。「本能寺の変で織田信長が死ぬ」というプロットが詳細に固まっているからこそ、さらにその上にいろんな大河ドラマの脚本家が新しい趣向を重ねられるのと似ているかも。
フィギュアスケートの競技は何回ジャンプを飛ぶか、どんな振りをするか、あらかじめ決まっている。にも関わらず、ジャンプが全て成功すると選手から自由な生命体としての躍動がいつも以上に感じられる。「私を見よ!」という思いが爆発しているように感じる。
それと同じといっていいのかわからないが、プロットが精密に仕上がってから執筆に入り、自ら設定したミッションを全て成功させたとき、私のなかにも自由な躍動が生まれる時があるのだ。難しいジャンプはおおかた成功させてしまったのだから、あとは自由に楽しくステップを踏めばいい。そういうクライマックスというものがあるように思う。
作家の思いがあふれないなら読者の思いもあふれない
さて、ヴァージョンアップした設定をもう一度見てみよう。
編集者さんにプロットを見せるときは、もう少し推敲して、結末まで書いて、さらに面白く仕上げるのだが、今はいいだろう。
いま大事なのは、この設定を見た自分のなかに、思いがあふれてくるかだ。頭のなかで、登場人物たちが勝手に喋り出したり、彼らのことを考えると涙が出たり、するようになったら、そろそろ書いていいころだ。
ブログを書くくらいの軽いノリではじめる
小説は書き出しが命……。
みたいなテンションで始めると私の場合は失敗する。「私はちょっとは売れた小説家だし、どの作品も完璧に面白くしなきゃ」とか思うのもまずい。気負ってしまうと指が動かなくなるので、ここ数年、私は小説を横書きで書くようになった。ほら、私らインターネット老人って、もう20年もインターネットで駄文を書き続けているではないですか。10代後半はネット掲示板、20代前半はテキストサイト、20代後半はブログ、30代前半はmixi、30代後半からはTwitterやnote……。どれも鼻ほじりながら書いてきたじゃないですか。あれくらいのリラックス度で、「こういう人たちがいるんですが」と相互フォロワーに語るくらいの雑さで最初はいい。
Wordの新規作成ファイルを開き、レイアウト変更もせず、タイトルも入れず、原稿用紙何枚か書くなんてことはすっかり忘れて、とりあえずなんかテキトーに書いてみる。
1行目に「生牡蠣は生牡蠣が好きな人と食べに行かないとダメ、たとえ相手が嫌な奴だったとしても」という、物語の根幹となるセリフをまず置いている。これを正体を隠している女性キャラ・上原莉愛にいわせることによって、のちのちの伏線にしようとしているようだ。
……「ようだ」と書いたのは、執筆中は過集中に入ってしまい、いろんなことを無意識でやっているためだ。語り手は、上原莉愛を炎上させたアカウントである城戸行人にしてある。途中で視点を交代させて、復讐する側の上原莉愛の気持ちを語せるのか、最後まで城戸行人に気持ちの変遷を語らせるのか、この時点では迷っている。
店員の服が「黒いセットアップ」と描写されているが、これは「ソムリエエプロン」のこと。名前がわからなかったため仮で書いておいて後で調べる。
店の前で会って、店内に入るまでの流れを1ページ半ほど書いてみたという感じで、読んでもまったく面白くないですね。でもこんなんでいいんです。
続きは翌日です。
面白い!もっと書きたい!と思えるまで前半部分を書き直す
翌日の原稿です。前日の原稿を読み返してみて、これじゃ面白くないと思ったのでしょう。いかにもバトルっぽいサブタイトルを入れて、城戸行人(35)のキャラを「SNSではソーシャルグッドを謳いながらリアルではマウンティング野郎」な感じにしています。前半彼にかなりイキらせておいて、後半彼女のカウンターを食らわせた方が面白くなると思ったのだろう。
こんな感じで、5日ほど書き続けてみたのだが、このイキった男性キャラ、書いてて面白くない。35歳でこんな古くさいナイーブマッチョはあまりいない気がする。いやいるにはいるだろうけど、私はあまり古いタイプの人物は描きたくないのですよね。あと「リアルではマウンティング野郎」ってだいたいSNSではバレてるじゃないですか。本人は新しいタイプとしてふるまってても文章から古漬けの沢庵のような匂いが滲むものじゃないですか。強調したい言葉をやたらと「」で囲んだりね。そんなやつの語りなんて三分と聞いていられます? 後半で上原莉愛に復讐されるとはいえ、できれば彼が語り手である間は、読者に愛されるキャラにしたい。
うーんと悩んだ次の日の原稿がこれ。
サブタイトルを消して、最初の上原莉愛のやや意味深なセリフを元に戻した。そして城戸行人のキャラを変化させた。……というか、彼が自ら変化した。上原莉愛の落としたスマホをなんと彼はキャッチしたのだ。やたらいい人ぽい動きをするじゃないか。もしかしたら、SNSだけでなくリアルでもソーシャルグッドなやつなのかもしれない。
現代の30代男性は、男だらけの運動会のような社会と多様な社会の狭間にいる人たちだ。「本当に平成生まれ? 昭和一桁世代では?」と思えるほど保守的な人もいれば、「本当に平成生まれ? 令和生まれなのでは?」と令和の生き方になじみ切った人もいる。そのどっちなのか、わからないことが多い。20代女性からしたらさらに疑わしいだろう。
途中で視点を変えることでエンタメにメリハリをつける
とりあえず物語前半で、彼自身が語る自分自身は「本当に平成生まれ? 令和生まれなのでは?」のほうにした。ソーシャルグッドなビジネスパーソンにしておくことにしたのだ。読者が城戸行人のことを「なんか新しい時代の人だ〜」と思いはじめたあたりで、視点をくるりと上原莉愛に切り替えて「私はこいつの本性を知っている」と彼の過去を語りはじめた方が、エンタメとしてのメリハリがつく。
個人的なこだわりは思い切りやる。たのしい!
個人的に楽しかったのは、主人公二人のTwitterのbioを書いていた時だ。のちに原稿を見せた編集者さん(たぶんツイ廃)から「bioを見るだけでキャラが分かりますね〜」とコメントをもらって嬉しかった。
ちなみに城戸行人のbioはこんな感じ。
この文字数、Twitterのbioに入るのかなと急に不安になって、たしかめましたが、大丈夫、文字数内でした。この数年、ベンチャー企業やスタートアップ企業に勤めている人たちのアカウントを見つけるたび、ブックマークに入れてコレクションしていていたのだが、それが役立った。
上原莉愛のbioもかなり凝ったのでぜひ作中で見てみてください。
小説において前半部分はとくに大事だ。ここでどんな初期値を入れるかで前半の面白さは決まってしまう。前半と後半にかける時間の比率は私の場合、7:3くらいではないだろうか。
こんな感じで原稿をどんどん書いていく。稿を重ねるごとに細かく解説しているとキリがないので、書いてる間に起こった意外なできごとをいくつか紹介してみようと思う。
書いてる間に生まれいずるキャラクターたち
友人と話していて「営業部の田中がさ」と会話のなかに新キャラが出てくることがないだろうか。「誰?」と最初は思い「同僚か」と気づき、聞いているうちに、だんだん田中の行動パターンに詳しくなり、会ったこともないのに気づけば「わかるわかる、田中ってそうだよね」などと相槌を打ったりしてしまう。
そんな風に、語り手が急に会話に出してくる新キャラというものがいる。物語上必要だから出てくるのではあるが、著者の私ですら「誰?」といいたくなる新キャラだ。
メインの登場人物の設定を詰めておくと、このように新キャラがぽこぽこでてくるので楽しい。
今回の短編で生まれた新キャラはこんな感じ。
1)城戸行人の共同経営者・真崎道成
城戸行人同様、ソーシャルグッドなビジネスパーソンを演じているが、昭和平成の匂いがする。城戸行人は彼が嫌い。
2)上原莉愛の上司・綾瀬エマ
スタートアップ企業の代表で、無職だった莉愛を拾ってくれた存在。莉愛のエネルギー過多なところを気に入っていて、彼女の復讐を支援する。
3)赤いビックリマークマン
城戸行人や上原莉愛をTwitter上で悩ませるクソリプ勢。中高年男性であることが多い。赤いビックリマークを多用する。
牡蠣に当たるシーンは要らなかった
身を挺してノロウィルスによる胃腸炎にかかったというのに、ラストまで書いてみたところ、結局、牡蠣に当たるシーンは作らなかった。当たる前に物語が終わってしまったのだ。
そういうこともある。
そして、当たった直後は「二度と食べられない」と思ったのに、今はもう食べにいきたい気持ちでいっぱいだ。そういう自分を「強いな、私は」とか思ってしまうあたり、牡蠣ってマッチョでネオリベ気質な人が好むフードなのですよね。辛いカレーと似てるポジションだと思う。そういう要素も小説の後半に入れられたので良かった。
さてここまでで、
・二人のキャラクター
・二人が対立した理由
・物語の構成を決め、プロットを仮組みしてみる
・生牡蠣について勉強する
・舞台となる店を取材する
・プロットの詳細を埋めていく
・いよいよ執筆! 〜どの視点で描くか迷う
・視点を変えるかどうかを迷う
・執筆しながら設定やプロットを微修正していく
ここまできたんじゃないでしょうか?
さて、いよいよ楽しい推敲だ。
原稿用紙50〜80枚で依頼されたのに、なんとできあがった原稿は120枚もあるぞ! ここから40枚も削りました。これをしばらく寝かせて、忘れた頃にもう一回推敲して、編集者さんに提出です。
これで終わりかって?
いやいやゲラ作業があります。小説を読者に届ける前にもう一回読んでみて、物語が思い通りに動くかを脳内でテストするんです。校正さんに指摘された誤字脱字を直したりもします。
次回は完全なるネタバレに突入すると思うので、本編をそろそろ読んでしまってはどうでしょう?
つづく