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『98万円で温泉の出る築75年の家を買った』の、その家に遊びにいった話

高殿円さんと友人になったのは昨年のことです。

高殿円さんといえばドラマ化もされた『トッカン!』です。デビューしたばかりのころ編集担当さんに「会社員で女性なのだから、お仕事小説を書いてみたら?」とアドバイスをされてまず仕事小説家になった私。しかし、会社員時代に読んだり観たりしていたのは『釣りバカ日誌』とか『金融腐食列島』とか『ハゲタカ』とかとにかく男性むけの仕事ものがほとんどでした。女性むけの仕事ものといえば恋愛メインか、働きたくない女もの、あるいは出版もの……。「お手本になる小説はないのかー」と手を伸ばしたのが当時売れまくっていた『トッカン―特別国税徴収官―』でした。

エンタメ力、取材力、そして働く女の解像度。『トッカン―特別国税徴収官―』は、私の仕事小説の基礎のひとつとなっていきました。
それから十年以上経って、再び出会った高殿円作品が『上流階級 富久丸百貨店外商部』でした。

百貨店の外商部で上顧客の富裕層を相手に働く女性が主人公のこの小説が、出てくる商品がどれもいい!
メーカーにおけるマーケティングリサーチでは顧客に対して商品案を提示して反応を見ることがしばしばあります。あくまで「仮の」商品案なのですが、それでもその会社の提供する技術を購買者としての価値に変換できているかを検討しまくってようやくできあがるものでした。だからか、私はメーカーを舞台にした仕事小説を読むときは、登場する商品を意識して読んでしまいます。
そこへいくと高殿円作品はとにかく商品がいいのです。しかも数が半端ない。「というか、本当にほしいのですが?」と思わせる商品がちりばめられたこの作品、工数がどれだけかかるのか考えただけでもくらっとします。普段からそうとうな買い物好き、商品好きでなければできないことでもあるので……。

ただ、ちょっとだけ気になるところがありました。『上流階級 富久丸百貨店外商部』はただでさえ商品への熱量が高い作品なのですが――

不動産描写になると熱量マックスになる

のです。
それもそのはず、高殿円さんはおそらく出版業界で一二を争うであろう不動産好きな人。

こんな本まで出しておられます。
不動産の専門家の力を借りながら年収三百万円の働き女子(編集者さん)が買える都内マンションを探していくレポート本。(今よりも物件価格が低かったころとはいえ、ちゃんと買えたことに驚きです!)

この本の冒頭で、高殿さんは何軒もの不動産を購入した経験があることをさらりと語っているのですが、「ちょっと待て? なんでそういうことになる?」と私は思ったのです。
東野圭吾ほどの億万長者であれば何軒もの家を所有することは可能でしょう。しかし『トッカン』がヒットしたとはいえ、同年代の女性で中堅作家でもある高殿さんにそこまでの財力があるようには思えない(失礼)。っていうか、そんなに家って何軒も買うものですか?

おもしろいなと思った私は、それからというものの、高殿円さんのツイッターをフォローして眺めていたのですが、タイムラインに流れてきたのは自宅の風呂をリフォームするレポートでした。

えっ、ユニットバスってセルフリフォームできるものなの? というか、ここまでのリフォームをここまでお金を使わずにできるものなの?

それからというもののツイッターをさらに注意して眺めていたのですが、ユニットバスのセルフリフォームがすんだ高殿さんは、今度は温泉の出る築75年のボロマンション、つまるとことろの「温泉ハウス」を格安で買うといいはじめたのです。ひえー、そんなの買っちゃって良いの? だって「負動産」っていうじゃない? 
コロナ禍のまっさいちゅう、高殿さんはその温泉ハウスを迷わず買い、果敢にDIYしていきました。その様子はツイッターでリアルタイム報告されていました。

このあたりで我慢ならなくなった私、高殿さんにダイレクトメッセージを送り「ご飯でもいかがですか?」とお誘いしてしまいました。もちろんその前になんどかリプのやりとりがあってのことですが、高殿さんは「いきなりだな?」という反応を見せつつも池袋までわざわざきてくださいました。
書いているジャンルが近いこともあってすぐに意気投合、温泉ハウスを買うに至る経緯や、DIYを楽しくやってることを、ひとしきり話した後、高殿さんはこう言いました。

あの温泉ハウス、98万円で買ったんだよね。

なんだって?
驚いている私に「遊びにおいでよ」と高殿さんはいってくれました。こういうとき人間は二種類に分かれます。社交辞令だと受け取る派と、真に受ける派です。私はもちろん真に受ける派。いや、たとえ社交辞令だときづいたとしても「遊びにおいでよ」という言質をとったらさいご押しかける派です。そうやって出版不況をサバイブしてきたのです。

そして、ほんとに行ってしまいました。

温泉上がりの一皿

人生が優勝した

たしかにそれ以外の言葉はありません。
この温泉ハウスにきてしまったら、まずは輝く海を見ます。広い空を見ます。温泉に沈みます。近所のお魚屋さんで買った地場の魚を食べます。それだけでもう優勝です。決まりです。だって自宅のお風呂の蛇口から温泉が出るんですよ?

ここにはノイズがありません。温泉に沈んで、ベランダに出て、ジェラートを食べながら、風に当たって、きらきらした海を眺めているだけで、脳につまったノイズがなくなって、シンプルになっていくのがわかります。『わたし、定時で帰ります。』のなかで、主人公に「人は温泉に入るとまっとうなことしか考えられない」と言わせた私ですが、そのとおりでした。

なんのために消耗してきたのだろう。受験戦争を勝ち抜き、JTCに就職してパワーカップルになり、都心に家を持ち、できればタワマンを持ち、子供をSAPIXから御三家に入れる、できれば慶応幼稚舎に入れるという、いわゆる「『東京』というゲーム」(by小川哲さん)にのせられ、そのゲームの敗者となるための人生だったのではないか。そう思ってると高殿さんが言いました。

タワマンに温泉は出ないもんね

もちろんこんな最高の温泉ハウスを買うなんて誰にでもできるわけではありません。リスクはあるわけで、年収三百万円の働き女子が都内にマンションを買うのにはリサーチが必要なように、高殿さんは圧倒的な行動力と不動産好きパワーをもってリサーチを重ね、『98万円で温泉の出る築75年の家を買った』に至ったのです。しかし、誰にでもできるわけではないが不可能ではないのです。もし私が「東京という戦い」に敗れ、ローンが払えずにいまの駅から17分の分譲戸建てを手放したとしても、98万円で温泉が出る築75年の家さえ手に入れて優勝する可能性はじゅうぶんにある。
そしてひとは可能性が与えられただけで元気になるものの。税金をむしりとられた預金残高を気にしたり、卵の底値をさがしてスーパーを自転車で走り回ったりする日々も、なんだか楽しくなってきました。

高殿さんは同人誌も作ってしまいました。

この同人誌、発売から2ヶ月ですでに1300部売れているそうです。

同人誌なのにSUUMOの取材まで受けている……

気になった方はぜひ購入して読んでみてください!

いいなあ、二拠点目。と思っていたら、高殿さんの温泉ハウスをいっしょに行った友人が「私も買う」と言って本当に買ってしまいました。

ちなみに高殿円さんは、郊外で築75年の再建築不可物件を売った経験をつづった『私の実家が売れません!(仮)』を六月末に刊行するようです。

これからの時代の働き女子に必要なのはひたすらに不動産の知識なのかもしれないですね。