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唾棄したくなるような悪役こそ私だ/「影の現象学」

少し前に「影の現象学」の感想をTwitterでつぶやいたのですが、それを講談社学術文庫の編集者さんが見つけてくれて新しい帯に感想の一部が採用されることになりました。

「影の現象学」の著者は河合隼雄。1928年に兵庫県篠山市に生まれ、臨床心理学者で、京都大学名誉教授でもありました。2002年から2007年まで文化庁長官も務めています。詳しいプロフィールは河合隼雄財団のサイトで見られます。

河合隼雄 その人と仕事

「影の現象学」は1987年に文庫化されて以来58刷を重ねている名著です。2020年にも重版されています。

Amazonの本の紹介にはこうあります。

影はすべての人間にあり、ときに大きく、ときに小さく濃淡の度合を変化させながら付き従ってくる。それは「もう一人の私」ともいうべき意識下の自分と見ることができる。影である無意識は、しばしば意識を裏切る。自我の意図する方向とは逆に作用し自我との厳しい対決をせまる。心の影の自覚は自分自身にとってのみならず、人間関係においてもきわめて重要である。刺激に満ちた万人必携の名著。

この本の解説をするのは遠藤周作。古い型の基督教育をうけた自分には「二重人格ではないか」という悩みがつきまとっていたと告白する遠藤は、当時の日本社会においてはも「裏のある人間は陰険で、男らしくない、卑怯な男子と考えられていた」と書いています。そのため「生活」に仮面をかぶっていたのだと。

仮面がある以上、本面があるはずである。外づらがある以上、内づらがあるはずである。(中略)ほんとうの内づらとは正宗白鳥の言った「どんな人にも、それを他人に知られるくらいなら死んだほうがマシだという顔がある」というその顔である。
それをユング学者の河合先生は影(シャドオ)という言葉で表現されている。
(中略)
私は内づらと言ったが、内づらにも二種類ある。他の人は誰も知らないが自分だけが知っている自分の顔。
もうひとつ、他の人はもちろん、自分も気づかない自分のもうひとつの顔。

怖いですね…。

私が一番怖かったのは「投影」という項目でした。自分の影を認められない人が、その影を他者に投影する機制ががあると河合氏は書いています。以下、本書で紹介されている「投影」の例です。

自分の周囲にいる「虫が好かない」人を取り上げ、それをひたすら攻撃する。自分はお金のことなどあまり意に介してないのだが、同僚のXはお金にやかましすぎる。彼はお金を人生で一番大切と思っているのではないか、などと一生懸命訴えるのである。(中略)このような話し合いをつづけて行くと、結局は、この人が自分自身の影の部分、お金の問題をXに投影していたことが解り、この人がもう少し自分の生き方を変え、影の部分を取り入れていくことによって問題が解決され、Xとの人間関係も好転することが多いのである。

「影の現象学」(河合隼雄/講談社学術文庫)P.49

これを読んで笑えないのは、身に覚えがあるからだ。たとえば私はとある著名人を見て「ずるいほど要領がいい」という思いを抱いている。何の利害もない相手になぜこう感情が動くのか。嫉妬とも憧れとも違う。何しろ相手は大スターだ。人格にも非の打ちどころもない。作品も大好きだ。でも、なんか許せないのである。気になるのである。それこそが影の投影なのかもしれない。「ずるい」と思う私の裏側で、もう一人の私である影には解決すべき自分の問題が見えている。でもそれから目をそらすために、その著名人をずるいずるいと思っているのかもしれない。その問題が解決した日には「なんであんなに気になっていたのかわからない」となるような気がする。
友達と居酒屋で飲むときに「私はあいつ嫌い」と談義するくらいの範疇で、その現象をとどめておけるだけならまだいい。

このとき大切なことは、Xに対して強い悪感情を抱いたとき、自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。確かにXは個人的な影の投影を受けるに値する現実行動−−たとえば、少しケチであるなど−−をしているのであろう。しかし、「金のためならなんでもする男」などというとき、それは現実を越えた普遍的な影の投影になっている。

「影の現象学」(河合隼雄/講談社学術文庫)P.49

少し前に私はTwitter上で「本を売りたいだけの人」という引用リツィートを投げかけられた。ネットメディアに寄稿した文章に対するコメントだった。本を売りたいのは事実だから異論はないのだが「売りたいだけ」の「だけ」は現実を越えていると思った。その人は自らの影を投影するだけでは足りず、おそらく普遍的な影も投影していったのだ。タイムラインを見に行くと、その人は私とかなり近い属性の人だった。
これが暴走すれば、誹謗中傷などの行き過ぎた行為に及ぶ可能性もある。

つまり、われわれは自分の影の問題を拒否するときに、それに普遍的な影をつけ加え、絶対的な悪という形にして合法的に拒否しようとするのである。(中略)ひたすら悪人として攻撃していた人物が、それほどでもないことに気付いたとき、われわれは「投影のひきもどし」を行わなければならない。つまり、その人物に対して投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚しなければならない。投影のひきもどしは勇気のいる仕事である。

「影の現象学」(河合隼雄/講談社学術文庫)P.49

ひきもどすことなどできるのだろうか。現実を越えた影の投影を誰かにしてしまい、傷つけてしまった相手の名誉回復のために、償いを行う人がどれほどいるだろう。匿名の世界ではそのまま逃げてしまうか、あるいは「相手の言動が私にそうさせたのだ」と忘れてしまう人もいるだろう。
誹謗中傷を行なった匿名アカが特定され、罪を問われるようになってきてはいるものの、それが集団で行われるときはどうだろうか。

投影の機制は非常によく用いられるが、これが集団で行われるときは、その成員はその影を自覚することが、ますます難しくなる。集団の成員が全て同一方向、それも陽の当たる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影について誰かも気づかないのは当然である。その集団が同一方向に「一丸となって」行動してゆくとき、ふと背後を振り向いて、自分たちの影の存在に気づいたものは、集団の圧力のもとに抹殺されるであろう。そのことほどその集団にとって危険なことはないからである。犠牲者は集団の行進の背後の影に吸収され、ただ消え失せてゆくのみである。

「影の現象学」(河合隼雄/講談社学術文庫)P.51

影を自覚しない人に起こる機制は「投影」だけでない。親が「影のない」生き方をした場合、子供がその影を肩代わりを引き受けることになる「影の肩代わり」という現象も起きる。他人から聖人と思われている人の子供が放蕩息子になったり犯罪者になる場合などがそれである、と河合氏は書いている。これも集団になると怖い。

集団の影の肩代わりの現象として、いわゆるいけにえの羊(ecapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。(中略)つまり、集団の影を全ていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまで正しい人間として行動するのである。(中略)無意識な程度のひどい人は、そのうえ、このいけにえの羊の存在によって集団の幸福が乱されていると、本気で感じている。そして、その実は、その羊の存在によって自分たちの安価な幸福が贖われていることには、まったく気づいていないのである。

引用ばかりしてしまったが、読めば読むほど「わかる、こういう愚かな人っているよね」とは思えなくなっていく。「これは、私だ」という鏡を突きつけられるのである。帯には私のコメントとして「弱るとまた枕元に置いて読むことになる」とあるが、実際に枕元に置いて読みはじめると、恐怖で眠れなくなってしまう。だが、自分の影を自覚することで、楽になれることもたしかなのである。

目をそらしていたいとはいえ、影はまぎれもなく「もう一人の私」だからである。影などないと言い張ることは「もう一人の私」を抑圧することでもある。だが影は消えることはない。私を無視するなと反逆しにくる。いつか本身を乗っとろうとするかもしれない。苦労して成功をおさめたはずの人がSNSで誹謗中傷を行ったり、地位ある人が恫喝めいたDMを送りつけたりして社会的地位を失ったケースを見てきた。ハラスメントはいけないという作品を作る人がハラスメントを行っている話も聞いてきた。一人や二人ではない。
彼らは自分は正しいと信じて疑わない人たちだった。だがそうやって見て見ぬふりをしてきた影に反逆されたのかもしれない。

心が強いときにこの本は必要はない。過ちを犯したり、失言をして落ち込んだり、弱ったときに私はこの本を枕元に置く。おそらく一生別れることのできない「もう一人の私」と向かい合う。
私の小説に出てくる悪役のほとんどは私の影である。フィクションの中でだけ「もう一人の私」は自由である。物語の中で対決したり、言い分を聞いたり、とにかく存在を認め続けることで、なんとか私は影に乗っ取られずにすんでいるのかもしれない。
物語を書く力を与えてくれるのは圧倒的に影のほうである。

遠藤周作はこの本によって「人間を描く上でいろいろな視野をひろげることができた」と書いている。河合隼雄氏は多くの著名な作家から愛された人物でもある。対談集も出ているので、そちらもオススメしたい。