バーンアウト(燃え尽き症候群)の論文を読んだ
庵野秀明展を見て、次の日から唐突に休みを取り始めてから、今日でちょうど二週間になる。
休みに入って数日経つと「もう仕事してもいいのでは」という気分になってきた。でも我慢して休み続けた。とはいっても子供を保育園に預けている以上、労働はしなければならない。書くことはしないが、美術館に行ったり、映画に行ったり、それまで読めなかった本を読んだ。これまでアウトプットに費やしてきた時間をインプットに置き換えてみたのだ。一週間も経つと、「自分の小説でもこれやってみよう」とか「会話を上手に書いた小説を読んで勉強したい」とか、仕事に対する意欲が、梅雨の合間の太陽のように、ふっと出てくる瞬間ができるようになった。
リラックスする時間が増えてきたことで、二年前のスケジュール表を直視する勇気が出てきて、ようやく開いてみたのだが、吐き気がするほど超人的だった。どうやってこなしていたのか分からない。この時と同じように仕事をすることを考えると、心がシャッターをおろす。
そんな時、こんな記事を見つけた。
私はこうして「燃え尽きた」。30代のバーンアウト経験者3人に聞いた
バーンアウト。燃え尽き症候群。
仕事にひたむきだったはずの人たちが労働意欲を失ってしまった状態のことだ。私は30代でも会社員でもないが、取材に応えている彼らの訴えと、少し前の自分の状況は少し似ていた。「もう50人を超える組織のマネジメントは、怖くてやりたくないなと思っている」とか「共感できる企業と仕事をすることが大事だと気がついた」とか「上司に相談してもメンバーの増員は認められなかった」とか。
労働政策研究・研修機構からバーンアウトについての論文が出ていたので読んでみた。
バーンアウト (燃え尽き症候群) ヒューマンサービス職のストレス
ここでいう、ヒューマンサービス職とは、顧客にサービスを提供することを職務としている職業の総称であり、代表的なものとしては看護師、教員、 ヘルパーなどがあげられるという。また、レジャー・宿泊施設の従業員、 客室乗務員、一部の営業職なども広い意味でヒューマンサービスに含まれるという。
以下、本文を引用しながら、論文を読んでみようと思う。
バーンアウトとはどんな状態か
私はヒューマンサービス従事者ではないが、ここの論文に書かれている例とかなり近い。
いやー、本当そう。「無感動で、無気力」なのである。鬱とは違って、普通に生活はできるのだけど、仕事に感情そのものがわかないのだ。
バーンアウトとは情緒的資源の枯渇である
小説家である私が、なぜヒューマンサービス従事者と同じような症状を発しているのだろう。考えながら論文を読んでいたのだが、「バーンアウトとは過大な情緒的資源が要求される職務で発生しやすい」という一文に行きあたった。
小説家は直接人の体に触れたり声をかけたりする仕事ではないが、人間の私的な問題に分け入っていくという点では似たようなところがあるのかもしれない。
以下、小説家が仕事上でどのように情緒的エネルギーを使うかについて書いてみる。
知らぬ間に増えている? 小説家の感情労働の密度
「一人も傷つけない表現」という言葉が飛び交っている。完璧にやることまでは求められていないせよ、描く対象の立場になって考えることが、近年非常に重視されている。そして、その表現の向かう先は、できればソーシャルグッドであって欲しいと望まれている。そうでない作品には、厳しい批評(感想ではなく、批評の方ね)が浴びせられ、時にバッシングに発展する。
だが、同じくソーシャルグッドをめざす仲間…にしては、作品を鑑賞して批評する側と、批評を受け入れて作品を書く側の負担は非対称的だ。「この作品ではこの立場の人たちの存在がないものにされている」と指をカタカタと動かしてソーシャルメディアに投稿することは十五分もかからないが、その批評(大抵の場合、非常にセンシティブで、難しい問題を指摘している)を前向きに受け入れて作品を作ろうとしたとして、どのくらいの勉強時間を必要とするだろうか。情緒的エネルギーを消耗するだろうか。きわめて膨大である。
そして、そこをなんとか克服して作品を作っている間に「あの立場の人たちが描かれたのはいいけれど、彼らも一枚岩ではないので、ステレオタイプに描かれるべきではない」と批評される。それを受け入れ、「一人ひとりを理解しようと努めなければ」としようとすれば、さらに膨大なエネルギーがいる。
もちろん批評は大事である。中には専門家もいるだろうし、できるだけ聞いて勉強したい。だがとにかく変化が高速すぎる。私はアップデートが速い方だと思っているが、どれだけ全速力で走っても追いつかないのである。汗だくになって息切れしているところに、「遅い!遅い!」と罵声が飛んでくるような恐怖につねに囚われているように思うこともある。
だが、こういうことは精神論でどうにかなるものではない。差別は無知から起こるというが、描く対象者に対して誠実な態度を貫いた作品を書くためには、寝る間も惜しんで、たとえば学者が書いたフェミニズムの本を紐解いたり、社会問題の分厚い本を読んだりしている。その過程で自分の無意識に潜む影と向き合い、これまでの無知な発言を恥じて、落ち込んだりする。自分の作品が誰かを傷つけやしないかを考えすぎて、全身が震えて眠れないまま朝を迎えたことも一度や二度ではないし、勉強するうちに自分が不当に扱われていたことに気づいて動揺したりする。
一方で、そういう作品作りの難しさをまったく理解せず、「恋愛!恋愛を入れれば売れる!」などと時代錯誤なことをいう業界の身内を(相手を傷つけないように)説き伏せることに、ものすごいエネルギーを取られたりもする。
愚痴が長くなったが、私の情緒的資源が枯渇してしまったのには、こうした感情を酷使する労働の密度が前よりも増していることも影響しているのではないだろうか。
バーンアウトしない人が良き労働者なのか
論文の中で、救われた一節である。
バーンアウトになってしまった後の対処法
さて、バーンアウトになってしまった場合、どのような対処法があるのだろうか。論文では下記の六段階を経て回復していくと書いている。
私の場合は周囲が気づいてくれ、声をかけ続けてくれたおかげで(受け入れるには時間がかかったが)、問題を認めることができた。が、ネットでも、編集者との打ち合わせでも「有名作家さんの超人的な働き」を賛美する声を聞くことはよくあり、そんな天才でも努力しているのだから、と自らに鞭を打ってしまったこともある。
二週間休みます、と言った時の周囲の反応は「短い!」であった。でも、産休育休さえろくに取っていない私にとっては、二週間は十年ぶりくらいにとる長期休暇であったし、今までのキャリアを投げ捨てる覚悟くらいのものがいった。
感情の爆発、私はnoteでやりましたね。かなり制御して書いたけど、めっちゃ怒ってました。
私は今、この段階にいるのかもしれない。
無理に仕事を押しつけられたことへの怒りから、なぜ自分がそれを断れなかったのかを考え、期待に応える機械になっていたことを反省し、これからどうしたいのかを考えるフェーズにさしかかっている。
この間、noteを読んで「実は今、私も同じことで悩んでいる」とメールをくれたアラフォーの友人たちとずいぶん話した。就職難や性別的に不利な状況を乗り越えるため、「自分のやりたいこと」など二の次で、ときに自己犠牲的に仕事をして、実績を出してきたような人たちだ。
科学者の友人は「今、私は何をしている時に自分が一番幸せを感じるのかを探っている」と言っていた。「研究するのが幸せって思っていたけれど、それってホントなの?とか、根底から考え直している」
何をしている時が一番幸せかは、私はよくわかっている。でも、その幸せを追求する権利が自分にあるのかどうか、勇気が出ないでいる。
同じ仕事に復帰できたのは20 人中 1 人だけとは、なかなかに重い。
事実、仕事ができない状態まで追い込まれたことのある友人たちは、その後、例外なく転職や異動に動いている。もともと仕事に熱心なタイプなので、転職先や異動先でさらなる成果を出しているらしい。
転職できない小説家はどう立ち直るか
では小説家はどうすればいいのだろう。
職場を変えるといっても、もともと一人である。クライアントはずっと同じだろう。出版社である。上司に限りなく近い立場にいるのは編集者だと思うが、担当編集者を小説家が変えたり選んだりする権利はない。ならば小説を発表する場を変えればいい? 同人誌やZINEを出すか、あるいはnoteのようなソーシャルメディアで自己連載する? それとも小説家から別の職種に転職する?
とりあえず、ここまで書いてきてわかったことは、今までと同じ働き方には戻れるなどという甘い考えは捨てた方が良いということだ。どうやら私は、新しい働き方を真剣に考えなければならないらしい。