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さよならごま団子スープ

そうそう、この味。
妻と一緒に入った台湾料理屋で、何十年ぶりにその味を感じていた。
妻はどうやら初めて食べたようで、その味に、ふーんと深く頷いている。
甘く温かい汁に入ったその団子はつるりと口に入り、噛むと中から濃厚な胡麻餡が出てくる。

そうか、これは本来こんな味の食べ物なのだ。
あの時彼女が作ってくれた味とは、似ているようで違う。でも懐かしさは、もうどうしようもないくらい同じ重さで、胃の中に落ちていく。
僕は思い出す。彼女との記憶。
もうすっかり忘れてしまっていた、とりとめない些細な記憶。

あの頃の僕は、自堕落な大学生だった。
大して勉強はせず、麻雀と漫画を読むのに勤しみ、ボロボロのアパートはいつも薄汚く汚れている。

僕のアパートの壁は薄い。
だから、隣には住む中国人とも韓国人とも分からない、可愛らしい女の子が住んでいることも僕はすぐに理解してしまった。
いつも比較的聴き取りやすい日本語で、挨拶のみをする彼女だが、その部屋に同じ国の友だちがくると、呪文のような言葉を早口で捲し立てた。

彼女の名前はジーヤンとも言うし、時と場合によってはニナとも名乗った。
彼女の部屋には時折、たくさんの人がそこを訪ねてくる。
たくさんの足音とたくさんの声と湿気が彼女を覆い尽くし、彼女の正体をより分からなくしていた。
ジーヤン、と声をかけても返事をしない日もあった。かわりにニナ?と呼ぶと彼女は笑った。チョトマッテネー、とカタコトで彼女は僕に言う。僕は、本当は彼女が日本語が堪能なことを、もうずっと前から知っている。

ある日のお正月、彼女がごま団子スープを振舞ってくれた。
作りすぎたから、お隣さんもらってよ、と僕に言う。僕は彼女から、お隣さんとかオトナリサンとか、そんなあだ名で呼ばれている。
僕はありがたくいただくことにした。

私の国では、正月にこれ食べるよ。
とわずかに訛りがある話し方で言う。
「おいしい」
そう僕が言うと、よかった。と彼女が言った。

彼女は突然、姿を消した。
ある朝、男性の強烈な怒鳴り声と共に目を覚ますと、僕はそっと部屋の玄関を開けた。
彼女の部屋から、彼女の声だけが聞こえる。
ジーヤンジーヤン。
男たちは、なんどもその名前を繰り返す。
他の住民たちは微動だにしない。
警察も来る。パトカーも数台止まっている。
それでも彼女は姿を見せない。
ようやく彼女が姿を表すと、彼女は婦警に取り押さえられていた。
警官は彼女をチェンメイと呼んだ。

彼女が何をしたのか、彼女がなんだったのかは今となってはよく分からない。
よく彼女と一緒にいた、早口の呪文のような言葉を話す女の子とは時々会うけれど、お互い知らないフリをする。
そしてそのまますれ違いながら、僕はあのアパートから出て行った。

チェンメイの事は誰も知らない。
誰も知らないけど僕は知っている。
観葉植物に水をやる姿。
異国の鼻歌。
強いお香のにおい。
捲し立てられた異国の言葉。
わずかな隙間に植えられたハーブたち。
気がついたら忘れてしまっていたけれど
どれもこれも、全部僕のもの。

タンエン、というのね。
ごま団子スープを口にしながら、そう僕の妻が言った。

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