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うたをうたうものたちのセレナーデ

 朝焼けが消える前からバスに揺られている。僕にはとても珍しいことだった。
 バスの座席でメモ帳アプリを開くのが最近の癖になっている。今日はまず真っ先に最寄りのバス停を降りてから正門までの三分のことを考えた。道に舞い落ちたあとの桜の花は海風に浚われるように、ぶわ、と吹きつけてくるのではないかと。僕はそれが嫌いではないし、多分好きだ。
 画面に指を滑らせる。少しくすんでザラついヒビの入ったフィルム。僕の人生の話をするためにあなたの話をしようと決めていた。 


 あなたは軽音部の一つ上の先輩だ。
 背は僕とほとんど同じくらいで、目がわりと大きくて、髪がけっこう長くてそれを後ろで結んでる。河内紫穂先輩。カワチシホセンパイ。初めて会った時、僕が渡した入部届けを真っ二つに破いたひとだ。折り畳もうとしたら手が滑ったらしい。何で? みたいな。何なら本人が一番びっくりしてる、みたいな。器用さで成績がつくなら絶対「がんばろう」だな、みたいな。まあそういうひとだ。ちなみに破れた入部届でも突き返されることはなくてちゃんと受理された。よかった。
 初めて昼休みに部室(第二音楽室)を訪れた時が初めての会話だった。
「あの時の子!」
 あなたはちょうど焼きそばパンにかぶりつこうとしていたところだった。人生で一番焼きそばパンを美味しそうに食べようとする人だったと思う。
「本当にごめんね」
「いえ、気にしてないです」
「破門にしたかったわけじゃないの」
「わかってますよ」
「ズボンのチャック開いてるよ」
「………………どうも」
 あなたがボーカルとして、僕はキーボード弾きとして、あなたと僕の生活が直接重なり合った時間はとても短い。せいぜい一年半とちょっと。僕が二年の文化祭くらいまで。そのあいだで僕とあなたが何回バンドを組んだのか。二回くらいだったか。ダラダラとセッションをした回数をきちんと数えられないからそのあたりは適当、でもそんなに多くはないと思う。なぜなら僕はあなたの髪を結んだリボンの色よりも歌うときの表情をよく憶えているから。
 でも僕とあなたの物語はそれだけではない。お菓子の空き箱にでもしまってあるような、秘密と呼ぶほどでもないけどまあ秘密、みたいなものが、たくさんある。


 あなたは詞をつくるひとだった。時折、いや、もしかしたらあなたの言葉はいつでも歌だったのかもしれない。ステップを踏むように廊下を歩いて揺れる髪のひとつひとつすら音符だったのかもしれない。それともそれらすべては僕が見たまぼろしみたいなものなのかもしれなかった。傍に大きめのペンギンのぬいぐるみペンポーチがいつも「いた」のは確かだった。そいつの背中から時たまいろんなものがこぼれ落ちてて、あなたが歩いたあとを辿れるようになってることもあった。ヘンゼルとグレーテルみたいに。
 あなたはふとした時ノートに何かを書きつけていた。もしかしたらそれはスマホのメモ帳だった時もあったかもしれないけど、僕がそれに気づいた時はライムグリーンの表紙のリングノートだった。
 なんで気づいたかって、僕もまたそうだから。家に帰れば僕の机の上には五線譜の、四小節や八小節の断片が、プリントの裏に、山のようにある。
 ホントになんのタイミングだったか忘れてしまったけど、僕は僕がなんとなくノートに書き溜めていたフレーズのスケッチをあなたに見せた。見つかったのかもしれなかった。人に見せたことなんて今までなかったそれを。
「わたしこれ好きだ」
「これ?」
「これ、ここ」
 あなたが指したのはくちゃくちゃの生物基礎のテストの裏のぐちゃぐちゃの八小節。
「どういう曲なの?」
「どういう」
 考えたことすらなかった。僕にとって楽譜とはただそこに音があるというだけで、それだけのことでよかった。
 僕が口籠っていると、あなたは滔々と流れるようにメロディにのせて言葉を紡ぐ。
「これで合ってる?」
 その時の僕にはそれが合っているのか、そうでないのか、それすらもわからなかった。うまれたばかりのその歌のことを僕はとても気に入ったのは確かだった。
 あなたがうたった言葉を僕はぜんぶ憶えているつもりでいるけど書こうとすると手が止まる。知らずに形を変えてしまうこととかが怖くて。


 僕とあなたはそういうふうな交流をしていた。元より決まった練習日のようなものがあるわけではなく、各自集まって、合わせて、という部活だった。用もないのに部室にわざわざ寄りつくメンバーは少なくて(多くの人が兼部やバイトをしていた)、だいたい二人でその空間を占領していた。
「あ、ね、これ弾いて」
 時折あなたはそんなことを言った。
 「これ」は僕のメモ書きのような譜面だったり、小学生の頃のちょっと懐かしいドラマの主題歌だったり。
「ユーキくんのピアノはちゃんと楽しそうだ」
 すこんと押せる七六鍵のかるいキーボードでも、技量は出る。
「ちゃんと」
「うん、ちゃんと」
「どういうことですか」
「楽しそうに弾いてるひとが楽しく弾いてるとは限らないように楽しく弾いてるひとが楽しそうに弾いてるとも限らないじゃない」
 それはまあ、わかる。
「でもさ」
 あなたは爪先をくるりとまわす。
「楽しそうに弾いてるなあって思わせるのって、なんにせよいいことだなって、ユーキくん見てると」
「そうですか」
「うん」
 あなたは。
 あなたは楽しく歌っていたのか。それとも楽しそうに歌っていたのか。そのどちらでもないのか。僕にはわからなかった。
 断片的なメロディーがあなたの手で歌になっていく。僕の視界の、霧がかっていたような場所がクリアになっていくのを感じた。
「文化祭でさ、やらないの?」
「なにを」
「ユーキくんの曲」
「やんないですよ」
「やんないかあ」
 それまで一つの曲をつくったことなどなかったし、きっとこれからもそんなことはしないと思っていた。
「わたしはねえ、好きだよ、ユーキくんの曲」
「そうですか」
「うん、きっと」
 西日に照らされたあなたの頬の色をよく覚えている。


 クリスマスにあなたと会った話をする。最寄りの駅前。予備校やなんかが並ぶ通りの交差点でばったり。あなたが意外と近くに住んでいることをそれで知った。
「よ」
 あなたは肩を縮こめながら右手を挙げた。初めて見る私服の胸元には青い大きなビーズのネックレスがあってそれが印象的だった。
「偶然ですね」
「暇?」
「まあ」
「お話ししようよ」
「いいですよ」
 人の少ない地元とはいえ一応クリスマスだから駅前の店はそれなりに混み合っていた。縫うように見つけたカフェのカウンター席。
 思う。あのときすでに僕はあなたに絆されていたんだ。
 あなたは重い髪をゆる、と揺らして、カラカラとソーダのグラスを鳴らす。花の香りの透明なソーダ。ナントカいうシロップの名前、忘れてしまった。
「ねえ、いつから曲を書いてるの?」
 あなたは目の奥らへんを覗き込むように言った。のびやかな声。
「曲、ってほどでも」
「聞き方を変えるね。いつから音符を書いてるの?」
「……確か中学三年だったかと」
「へええ」
「興味ないでしょ」
「あるよー」
「自分の話をするのは得意じゃないんです」
「ふーん」
 だからこの質問はちょっとした意趣返しのつもりだった。
「恋の歌をうたわないんですか」
「それは演目としてではなくだよね?」
「はい」
「ぜんぶ恋の歌だし、ぜんぶ違うよ」
「はあ……」
「あもしかして恋とかしたことないの?」
 意図的な反撃。
「なかったら、いけないんですか」
「なんだ、あるんじゃん」
「僕は何も言ってません」
「沈黙ってほんとに雄弁だよね」
 反論が思い浮かばなかった僕の負け。
「何が恋で何が恋じゃないのかなんてどうでもいいんだよ」
 流れるようなこの言葉も歌だったのかもしれない。アイスカフェオレの氷が溶け切って水になってそれも無くなるまで、僕たちはずっとそこにいた。


「チョコじゃん」
「チョコケーキです」
「くれるの?」
「あげます」
「えーありがと、あそっかバレンタイン、え、明らかに上手い」
 二月の十四日。去年は水曜日。赤いリボンで結んだブラウニーの包みを渡したのが僕で受け取ったのがあなただ。
 バレンタインのチョコレートを貰えないことが居た堪れないので、僕は中学二年の冬から毎年何かしらお菓子を作って周りに振舞うことにしていた。「そういうポジション」を一度得てしまえばこちらのものだった。
「ほいひい」
「よかったです」
 あなたは口の周りにココアパウダーをいっぱいまぶして、笑った。
「んっ、えーわたし何も用意してない、お返ししなきゃだー」
「気にしなくていいですよ」
「返す」
 さてその一ヶ月後のホワイトデー、あなたはちょっと焼き過ぎのクッキーをくれた。そういうところとても律儀だ。
「バレンタインにお菓子の交換をしたからわたしたちは友達かもしれない」
「そうかもしれないですね」
 友達と面と向かって言ってくる人初めて見たなと思った。その感じは嫌いではなかった。器用(物理)で淡々と生きてるつもりの僕と不器用(物理)で多少の起伏のあるあなたは、仲良くなった。仲良しだった。


 学年が上がった。僕は二年生、あなたは三年生。二つ上の先輩は卒業した。一つ下の後輩が入ってきた。いい人たちだった、どちらも。それしか言うことがないのもどうかと思うけど、僕はそういう人間だ。
 あなたがどこそこの大学を受験するという話は風の噂で回ってきた。どうもあなたの担任が口を滑らせてしまったらしい。プライバシーなんてあったもんじゃない。そんなことがあってもあなたは何も変わらなかった。
 この春から誰かが部室に電気ポットを持ち込んでいて、自由に使っていいことになっていた。
「パレたら怒られないんですかね」
「職員室にあっていいものを部室に置いてダメな理由なくない?」
 僕とあなたのあいだでしゅんしゅんとお湯が沸く。
「カップラーメンにする? ココアにする?」
「その二択なんですね。ココアをいただきます」
「はあい」
 春先の空気はまだ少しつめたくて、温かいココアは素直に嬉しかった。
「あ、空き箱捨てないでね」
 ココアの粉のスティックが入っていたワインレッドの紙箱。
「お菓子入れとくから」
「いよいよ住めますね」
「お菓子で生活できるの、ユーキくんは」
「わりと」
「やば」
 二年生になって、少しずつ思うようになったこと。
 生きるのは、息をするのはただそれだけでそれなりに大変だな、と。気づいたのは中間テスト前夜の午前二時だったか。だからどうということはなくても、それは僕の気づきだった。
 まとまりのないボヤッとした断片だけが頭のなかにあって僕はいつもなにも言えない。だから息が苦しいのか。
 なにも言えないけど、僕のなかになにもないわけではないということを知りたい。ごくたまに、音符を並べているとそんなことが頭をかすめたりそうでなかったりする。
 あなたがうたうこともそういうことなんだろうか。あなたがすらすらと紡ぐ詞はあなたが言いたくて言いたくてたまらないことなんだろうか。
 自分のことを淡々と器用に生きている人間だと思っていて、ついでにあなたみたいな(?)人間とは対極にいるのだと思っていたけれど、そんなこともないのかもしれない、とこのとき既になんとなく思っていた。


 あなたも僕も部室に来たり来なかったりして、歌ったり歌わなかったりして、バンド練がある日はスタジオに行って、文化祭が終わった。引退だった。七月。
「お疲れさまでした」
「うん、疲れた」
 赤のちょっとかわいい部Tを着て、このとき僕はほんのちょっと後悔していた。
「つくればよかったなあって思ってます」
「なにを」
「あなたが歌ってくれるなら、僕の曲を」
「やればいいじゃん」
「引退したじゃないですか」
 あなたに歌ってくれと頼んでもいいんですか、とは聞かなかった。
「引退しても卒業しても、歌うのが終わりではないでしょ」
「たしかに」
「わたしは一生歌うのに最後最後ってうるさいんだよみんな」
「そうかもしれない」
「人生なんて全部歌なのに」
「……もしかして怒ってます?」
「わりかし。君にではないけど」
 あなた以外の先輩は皆泣いていたように思う。後輩も含め。僕はちょっと出かかった涙が引っ込んでしまっていた。
「ひとつの場所にずっといられないことなんて当たり前なのに何で泣くんだろ」
「ほお……」
「そのエネルギーほかのことに使えばいいのに」
「結構リアリストというか、シビアなんですね」
「リアルを生きてない人間なんていないよ」
「うーん」
 なんだか頭がこんがらがってしまいそうだ。
「僕、あなたの言葉が好きでした」
「過去形なの」
「現在完了進行形です」
「よかったあ」
「だからまた」
 また、何なのだろう。空白が二秒。
「わたしもね」
「はい」
「君の言葉はとても好きだ」
「はい?」
「君の楽譜は全部言葉だったでしょう」
 そうかもしれないし、そうでないかもしれなかった。
「物語を書いてよ」
「え」
「君の物語、わたしはそれが読みたい」
「曲ではなく」
「曲でもいいけど物語がいい」
「どうして」
「どうしてだろ」
 あなたが部室で言った最後の言葉はそれだった。
 そうだ。それ以来僕は、物語を書こうとして書けなくてこうしてこれを書いてる。あなたの言葉の意味が知りたくて、書いてる。


 今年のクリスマスの朝僕は珍しく早く目を覚ました。することなど何もなかった僕の足は自然とあのカフェに伸びていた。僕はあなたにとても会いたかった。そして声を聞きたいと思った。会えなくてもちっとも構わないと思った。
 そんなことを考えたり考えなかったりしながらテスト勉強やなんかをしていた。陽が登り切った後にあなたはふらりと通りがかった。
「お話ししようか」
 肩にかけたトートバックからペンギンがのぞいていた。
 去年と何にも変わらないような、全部が違うような。窓際のだいぶ狭い丸テーブルの席は少し風が通ったけど明るかった。今年もよく晴れたクリスマスだ。
「何してたんですか」
「予備校の帰りだよ」
「受験、するんですね」
 思わず感心してしまった。
「そりゃあするよ」
「卒業、しちゃうんですね」
「しちゃうねえ」
「どこに行くんですか」
 んー、とあなたはわざとらしい伸びをした。
「とっても頭のいい人たちのいるとこ」
「あるんですか、そんなの」
「あるといいなあって思うのはいけないことかな」
「ちっとも」
「良かった」
 ソーダのグラスの底に沈んだシロップを掬うあなたをぼんやり眺めた。
 あなたは何一つ去年と変わっていないようで、そうでもないことに気づいた。去年よりも前髪の量が薄いなとか、肌の色が透明に近づいているように見えるだとか、途中でキャラメルバナナホットケーキを頼んだとかそういうことに。
「何になるんですか」
「何って?」
「将来」
「大人になる」
「それはそう」
「そういうことじゃないって顔してんね」
「はい」
「わたしはねえ、大丈夫な大人になるよ」
 ちょっと伏し目がちになった。睫毛が長い。
「というと」
「初対面の後輩の入部届けを破かない大人のことかなあ」
「もしかして引きずってるんですか」
「あの後めっちゃ周りに言われた、というかいじられた」
 そうだろう。だって面白いから。
「僕は気にしてないです」
「ならよかったよ」
「じゃあもうとっくに大丈夫じゃないですか」
「わたし全然大丈夫じゃないよ」
 それはもうとっくに知っていた、流れるように切々とうたうあなたの言葉は途切らせたら死んでしまうだろうなと僕はよくわかっていた。きれいなそれらが事切れても生きてゆけることを、あなたは大丈夫と呼ぶのだろうか。
「大丈夫じゃなきゃ、いけないのですか」
「わたしはそう思ってる、おかしなことを言ってもいい?」
「何ですか」
「君は間違いなくわたしの救いだったよ」
 カラン、とソーダの氷が落ちる音。
「わたし世界とか全然好きじゃないんだけどさ」
「はい」
「君の楽譜に切り取られた世界のことは好きだった」
 何だかこそばゆいようなムズムズするような気持ちになった。
「きっと、僕も同じことを思ってます」
「ほんとに?」
「あなたのことばが映す世界が好きでした。世界とか全然わからないですけど」
「わたしもわからん」
 あなたは笑う。煎ったナッツみたいな笑顔で。
「ユーキくんはさ」
「何ですか」
「寂しい? わたしが卒業するの」
 どうしてそれを聞いたのだろう。
「元気でいてくださいよ」
「うん」
「元気でいて欲しいって、思ってますから」
「うん」
 僕が返せる言葉なんてたったのこれだけだというのに。
 パンケーキをひとくち分けてもらった。僕はこの夕方に永遠に住んでいたいなと思った。


 家に帰って僕は真っ先にピアノの前に座った。部屋のピアノはアップライトでもちゃんと重さを乗せられる鍵盤、四才からの付き合い。                    
 僕のあたまの中のメロディーのことを思った。それは僕の生きてきたすべて。それらは言葉になんてならなくても、僕がピアノに向かうことには、意味がある。あなたの詞に意味があるのと同じように、それは。


 バスが着いた。
 卒業式に僕が出るというわけでもなく、準備もすべきことも何もないので曖昧に中庭あたりをうろうろ歩いていた。誰も来ない。そもそもやたらと早い時間のバスに乗ってしまったのだから、当然だった。
 人の声はしない。吹奏楽部のラッパの音だけが遠くでフワフワ鳴っている。式典演奏の準備だと思う。
「あれ、ユーキくんだ」
 あなたがいた。
 時折吹く風が足下の桜の花びらを巻きあげる。
「おめでとうございます」
「どうもね」
「珍しいですね、こんな時間から」
「いや君の方が珍しいわ、卒業生でもないのに」
「正しいことを言わないでください」
「思ったんだけどさ」
「はい」
「泣くの意味わかんないって言ったじゃん、こういうときにさ」
「はい」
「あれ少し違ったかも」
「はい?」
「覚悟してある道を選んで、それに何一つ後悔がなくても、それでも出る涙ってあるんだなって」
 あなたは伸びをする。ホントのことを言うときにする仕草なのかその逆なのか僕は未だにわからない。
「叶わなかった想いの追悼、叶えなかった夢への挽歌」
 あなたは呟く、いつものようにうたうように。
「なるほど」
「そう、だから今日は泣いてる人たちのこと冷めた目で見ないようにしよーと思って」
「もしかして」
「んー?」
「寂しいんですか」
「わかんないかな」
 わかる。わかるからきいてるんだ。わかんないかな。
「桜、咲いてんね。まだ全然寒いのにね」
「そうですね」
 あなたの足元を彩るように、ふわ、と風が吹いた。
「挨拶がしたくて」
「うん、いいよ」
 あなたの手がすっとのびた。
「握手をしよう」
「しましょう」
 ふんわり触れた手のひらが柔らかかった。
「文化祭とか来てください」
「もちろんだ」
「僕のこと忘れないでください」
「いいけど歌詞にされちゃうよ?」
「しないでしょう」
「わたしのこと忘れないでね」
「はい」
「曲にするつもりなの?」
「どうでしょう」
「受験とか、どうするの?」
「僕は頭が良いのでどこでも受かると思ってます」
 あなたの春から通う大学でも、それ以外でも、どこでも。
「最低だ、どうしようもないな」
 そうだ。僕はどうしようもない人間だ。なのであなたの手をちょっと引いて抱きしめた。
「びっくりした」
「びっくりさせました」
「バカか?」
「バカです」
「どうしようもないバカだ」
「嫌だったら突き飛ばしてください」
「オーケー一分経ったら腹パンね」
「慈悲がない」
 逃げたり身じろぎしたりしなかったあなたは細くてあったかくて、ああ人間なんだ、って思ったのをよく憶えている。チョットいいにおいがした。
「どんな気持ち?」
「人間だなあっていう気持ちです」
「わたしねえ、人間なんだよ」
「はい」
 二年間でよくわかった。あなたはとても切実に生きる人間だ。切実に生きるあまりうたうように喋ってしまうし、入部届を破くこともある。僕と似ているようで真逆で、でも逆っていうのは真の場合もあるって数学で習ったし、そういう感じかもしれない。
「人間だから嫌われるのとかがさあ、こわいの」
「こわくていいんですよ、多分」
「知ったふうな口をきくじゃん」
「知らないです、何も」
「そうだよ」
 そう。僕もあなたも、互いのことも何もかも知らない。
「でも」
「なに?」
「あなたみたいに生きれたらなってちょっと思いますよ」
「どのあたりが」
「一生懸命生きてみるのもいいなって」
「そう?」
「はい」
 これは僕の心からの言葉だった。
「やっぱ受験とかですかね」
「それは知らないけど」
「あと謝ることがあって」
「なに?」
「やっぱり物語になりませんでした、僕の話」
「そーなの?」
「はい」
「うん、いつかでいいよ、いつか見せてね」
「はい」
 ひっついていた身体を離して、あなたと目を合わせた。 一分は誰も計っていなかった。あなたに会えなくなくなりたくて、りんごの香りのリップクリームを塗ったであろうあなたの唇は大変美味しそうで、あなたのつるりと丸い瞳に僕の顔がうつってた。
 いつか必ずあなたに届けることができますようにと、そう願って僕はこれを書いてる。その時は四行前のリップクリームのくだりだけは消すと思う。今これを書いてる僕は何であの時キスとかしなかったんだと思ったり思わなかったりするけど、これも後で消す。絶対にだ。
 これを書き終えたら、今度はペンギンを連れた女の子の話を書くつもりだ。あなたの話を。

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