2021年11月27日(土)~2022年2月11日(金)

これといった切っ掛けなしに始まった日記を、これといった切っ掛けなしに中断していたのを、これといった切っ掛けなしに再開することにした。記録の、というよりも記事上の見た目において空白の期間ができるのを嫌ってというただそれだけの生理的欲求に従って、中断していたときの出来事を書き記しておく。ただしそれは、川底に根付きその水面から顔を覗かせている岩々の一角とでもいうような、日々の些末な物事というよりも忘れがたい目立った催し物のみを拾っていく形になるだろう。そしてそれは、順々に思い出すよりも遡行するように書いていったほうが効率が良いと思われるので、そのような形をとるだろう。

2月の頭に結婚式を挙げた。ご時世もあって親族のみのこぢんまりとしたものだった。妻は綺麗で、とてもいい会だった。賑やかさの要素のほとんどを、妻の側の親戚の子どもたちに担ってもらったことが完全に功を奏していた。素直に幸せだと思え、それが持続した時間だった。ただしその幸福は、服装・照明・絨毯敷きの空間の長時間の滞在・主役という慣れない諸要素がもたらす疲労を、いくらかは軽減してくれるにしろ完全に無に帰してしまうものではなかったが、この疲労も将来の思い出という幸福を構成する要素の一つなのだと考えることも、難しいことではなかった。この日に向けてそれなりの食事制限をしてきた私と、それなり以上のそれをしてきた妻は翌日、近くのラーメン屋で買っておいた冷凍のスタミナ麺をご飯とともに食べた。それも含めて楽しかった。それらの名残としてのいくつかの花が飾られていて、目にも嬉しい状態は続いている。

1月はその準備に追われていた――このように書くと、主導的な立場に立ってくれたうえに実作業も大半を請け負ってくれた妻に申し訳が立たない。しかし気分の上ではそうだったし、いつの日か今年の1月を振り返るとき、そのような月だったと思い出す可能性は高いので、いっそのことそう書いてしまおうと思う。その中ではプロフィールムービーの自作という作業も含まれている。主には母親が溜めておいた三十年分の写真を見た。懐かしいと思うものもあれば、とりわけ幼少期のそれにおいては、懐かしいとさえ思えない未知の私や私を取り巻く環境が写されていた。今生きている人は若々しく、今は生きていない人もいた。年始にはそのアルバムには写っていない、しかしこの先私が撮られる写真に一緒に写り込む頻度が高まっていくのだろうと思われる、妻の両親や兄姉家族に会った。子どもにずいぶん懐かれていて嬉しい。子どもの相手をすることは演技をすることであるという側面が、少なからずあった。子どもをあやすという画一的な態度に自分を昇華/埋没させること。それは苦痛では全然なくて、一定量までは楽しいことだ。

12月末には横浜&江ノ島に行った。海をたくさん見ることができた。2月の結婚式を見据えて食事の量を抑えていく1月に入る直前の、常時満腹でいることを自らに許す最後の二日間だった。日常から遊離することができている時間を、たとえ電車で二時間もかからない場所にいながらでも過ごすことができた。こういう時間が過去にあって、そして過去にあるのだから未来にも当然あるだろうと考えて、その息継ぎのような時間がやってくることをあてにすることができなければ、日常というのは耐え難い部分もあるように思える。しかしその遊離を、おいそれとではないものの味わおうと思えば味わえるという状態に私(たち)があるのは、幸運というか恵まれているのだということも、同時に意識しておく必要がある――のだろうか? そんなことを意識しないまま無防備に享受してしまったほうが、個人としての幸せの度合いは、間違いなく高まったり深まったりするのではないか。

この期間中、俳句に嵌まろうと努力をした。そもそも日記の中断も、日々の些細な感動の出力先を散文ではなく俳句にしようという目論見があってのことかもしれなかった。ラジオに送り、いわゆる優秀句に選んでいただいたものもあった――年惜しむハムの糸にも少しハム、というものだ――が、どうにも嵌まりきれなかった。俳句を読む楽しさには目覚めたが、詠むほうはどうもダメだった。散文を書くぶんの時間と根気と発想を俳句に割こうという意識が長続きしなかった。ただしその面白さに気づくことはできたので、私と俳句との適切な距離を、長い時間をかけて見つけていきたい。ちなみに2021年11月27日(金)に書いた下書きには、以下の文章が残されていた。着膨れというのは季語である。押韻についての引用した文の出典はあとで書こうと思ったままやっていないということが起こったのだということがわかった。たぶん九鬼周造の【時間論】だと思うが。
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みなの着膨れが始まっていた。本日お忘れものが多くなっておりますというアナウンスをよく聞くが、あれは本当なのだろうか。それを耳にしない日はない気がする。

押韻とは、呼吸の反復、生命の絶えざる回帰の象徴である。それは呼吸と生命における、自然と宇宙における無限の反復・回帰を暗示するものである。

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