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チャプター2:花びら舞う帰還

「ああ、もう春か……」

花弁がついた軍帽を右手で取り下げて、さっと左手で軽く花弁をはたき落としながら、俺は静かに呟いた。

もうこの付近は桜が満開なせいか人通りが多く、馬車も忙しなく走り去ってはまた違う馬車が通っていく音が聴こえてくる。

そしてその後ろからも、ハイカラに着こなした女学生達が、元気良くお喋りしながら桜並木を眺めては、俺の横にどんどん通り過ぎてゆく。

そんな光景を、俺はふっと横目で微笑みを零したが、内ポケットから懐中時計を取り出し、ぱかっと開けて時間を見た瞬間。咄嗟に襟を正し、手に持ったままの軍帽をグッと深く被り直した。

「嗚呼、いけない、時間が間に合わなくなるな」

あまり時間をおしてしまうと、家で待っているのであろう父が、俺を容赦無く叱り飛ばしてくるだろうと予想ついたので、せかせかと、急ぎ足で道を歩き出した。

嗚呼…、足早に歩いて行くだけなのに、一歩一歩ずつと前へ進んでいけば、ひらり、ひらりと桜の花弁が舞っては散って行く。その光景を眺める度に、儚くとも美しすぎて、却って言葉が失ってしまいそうになるのではないかと不安になる。幾つになっても相変わらず、そう、見慣れてはいたとしても、初めて見たかのように見惚れてしまうのだ。

あまりにも儚い、散りゆく花弁が愛しくとも哀しい、それが宿命かのように。

希は、その時間さえも留まっていたいと想う俺を赦してくれるだろうか?など思い馳せながら、その道をすたすたと歩いていけば、急な斜面の道が目前に見えてきた。急な坂をさっさとかけ登れば、アールデコ風の洋館が見えて来るはずだと思いながらも、ぜえぜえと息が乱れて、額からは汗が滲み出てくる。

「参ったな」

後もう少しで着くのだと云うのに、かなり汗だくになるのは、致し方ないと俺は思っているし、慣れたとはいえ大変不便な場所に住んでいるのだから其れも致し方ないとは思い、諦めてはいるのだ。

それに帰ったらすぐに水を浴びて清めたい、重たい軍服など脱ぎ捨てて着替えたい、読みかけの文學を読みたいなどと思いながら、どんどん坂を登って行く。

そんな俺のお住まいだが、当初、洋館を建てた時、御近所からは好奇心な目で見に来たけれど、次第に馴染んできたらしい。だから珍しいとは言わず、とても分かり易いのか、梅田家と言えば、アールデコ風の洋館と指すと云うらしい。迷った人にも分かり易いと言ふ意味を込めてなのだそうだが、あゝ慣れと言うものは末恐ろしいものだ。

それが俺の家であるが、更にもっと言ふと俺が生まれる前にあったもので、なんでも明治時代に建てた館を、そのまま大切に使っているらしいが、そろそろ危なっかしいところが何箇所かあるそうで、建て直せるなら建て直したいと、父が寄越した英吉利人にみて貰って居るのだそうだが、勿体無いと俺は思う。たとえそうは思ったとしても、主導権は父だ。どうせ却下されるに違いない。

だが、父も父で、祖父から受け継いだ洋館を大事にしているのだろうから、呼び寄せたのだろう。父曰く、彼は建築の事なら何でも知っている人物と仰るのだそうだが、はてさてどんな館に変貌するのだろうか。と、思った処でやっとのこさ終着し、ゆっくりと左手でカチャリと門を開け、屈みながら右足からすっと入り左足で揃えたところで、ピシャリと右手で門を閉じたまま、ふっと盛大に一息をついた。

だが、其れさえも虚しく、更に階段があるので、疲れた身体を鞭打ってでも駆け登っていくしかないのだ。溜息が出てしまうがそれは致し方ない。古い建物といふものは、そういうものだと割り切るしかないのだろう。

「この服を脱いでしまいたい…」

其れぐらい、この服は汗でびっしょりと濡れて仕舞う。幾ら軍服とはいえ、この階段で流石に参るなと呟きながら言ったところで、俺は再度溜息を吐いた。

本当にこの階段は一体何段あるのだろうかと思いながら、徐々に上がっていく度に俺の背中にはじんわりと汗が広がり、尚かつ気持ち悪さを感じつつも、駆け足でも何でもこの階段を登って行かなければならない。

でないと、雷を落としてしまうほうが俺は怖いのだ、とくに父上だ。普段は穏やかな人でも、時間には厳しい。

「仕方あるまい、着いたらすぐに脱ごう」

最後の一段の終わりに差し掛かった所で、ゆっくりと息を吐いて、休憩をとっていたところを玄関の掃除をしていたお手伝いさんが俺に気付いたのか「御帰りなさい、御坊っちゃん。お父上様が上のお部屋でお待ちしておりますよ」と声かけてきた。

「沼津さん、只今、戻りました。」
「はい、ご無事で何よりです御坊ちゃん、ああ急がないといけませんよ」
「有難う、今急いで行くよ。当然父上はおかんむりだろうからね」
「ええ」

駆け足で急いで、上の部屋へ上がっていこうとする僕を微笑みながら見送るこの女性は、沼津さんというお手伝いさんでここに働いてからもう随分と時が経つ。それこそ、俺が子供のときからずっと面倒を見てくれている女性だ。

思い出すだけでも俺の悪戯で何度壊したお皿や、壺をみて雷を落としては俺を子供扱いしないでくれる人でもあるし、流石にもう御坊ちゃんと呼ぶには年齢が過ぎているのに、それは止めて頂きたいと言っているのだが、慣れです慣れと言って譲ってはくれない。

「あ、御坊っちゃん、その帽子と御鞄は部屋に戻しますよ」
「ああ、御願いしてもいいだろうか」
「構いませんよ、御坊っちゃんの事ですからね」

沼津さんはそっと微笑んで俺の鞄と帽子を受け取り、一礼をしてその場から去って行ったのを見届けた俺は、急いで階段を駆け上った。息を荒げながら駆け上るなんて何時ぶりだろう。

もう少しで扉の前に差し掛かるというところで、俺の心臓は高鳴り始めた。すでに汗だくのまま、手で軽く汗を拭いながら扉の前に立ち止まり、深呼吸をして心を落ち着けた。深呼吸を繰り返し、気持ちを整え、そっと扉をノックした。

「父上、慶次郎です。今、戻りました」

返事はない。いつものことだ。父は俺の姿を見るまでは何も言わないのが常だ。俺は静かに扉を開けると、そこには父が厳しい表情で座っていた。

「慶次郎、遅かったな」

「申し訳ありません、父上」

部屋に入ると、いつもの威厳に満ちた姿の父が、机の前に座っていた。彼の視線が僕に向けられると、その厳しさが一段と増すのを感じる。俺は敬礼をし、父の前に立った。

「今日は、少しばかり遅れてしまいました」

父は俺を一瞥し、手元の書類に目を戻した。彼の冷静な態度が、俺の緊張を更に高める。

「もうすぐ、出発の日が来る。その前にしっかり準備を整えなければならん。わかっているな、慶次郎」

「はい、父上」

俺は背筋を伸ばし、真剣な表情で父の言葉を受け止めた。父の厳しさの裏には、俺を思う気持ちが隠れていることを知っている。それでも、今はその期待に応えるしかないのだ。

「では、行って準備を始めなさい。時間は貴重だ」

「承知しました、父上」

俺は一礼し、部屋を後にした。扉を閉めると、再び汗が滲んでくるのを感じながら、急いで自室に向かった。これからの準備を考えると、心の中に一抹の不安がよぎる。それでも、俺はやるべきことをしっかりと果たす覚悟を決めた。

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