今でも人と全力で向き合う事を 選ぶ私は その背中から全力を 味わい体感した記憶から。 山猿は人になる 私が助けられたのは日曜日 病院はどこも休診。 親戚宅の和室 布団に寝かせられ 氷のうの冷たさ、体の高熱を よく覚えている。 20時過ぎ近所の個人の内科医が ゴルフから帰宅したらしいと 叔父は私をおんぶして滝汗を 流しながら診察を頼み込んでいた 日本国籍が見つからない 保険証も母子手帳もない とにかく見てくれと 他人の子供を必死に助けようと 私は おたふく風邪 だっ
今でも私は動物的嗅覚と直感が強い きっとこの頃から鍛えられた五感 父との記憶 町外れの自動車整備工事の2階アパート 玄関には 九官鳥がいた。 姉と通っていた山手の インターナショナルスクールから1人、近所の日本の保育園に変わった。 言葉も壁はあったのかな? 記憶は薄い 父との思い出は夕方時より連れて いかれたスナックカウンターで食べる スプレーチョコのかかったバニラアイス 夜になると1人で留守番が怖かった リビングでは九官鳥が話してた。 工場の向かいのおじちゃん
自己紹介 初めまして、多国籍な産まれの 主婦子供は2人。 人からは人生経験が何故か 深すぎて濃すぎると言われる。 私は毎日が愛おしい 人の事は知らないけれど 今日までの道を愚直に書き出す。 何があっても叶えたい事がある 海外の父、日本人の母 父違いの姉 私が産まれた。 母は育児放棄ですぐ離婚 姉を連れて出ていった。 この時 日本語のあやふやな 父は23歳 昭和55年だ 外人父と2人きりの生活は 直ぐに無理がやってくる 入れ替わるママ母 帰宅しない日も当たり前