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【#私が美術館にいく理由】 あの「空間」があったからこそ

オトナの美術研究会の今月のお題は「#私が美術館にいく理由」。
学芸員さんがおっしゃるように、たしかに難しいテーマ。

仏像フリークの私がお寺にいく理由を考えてみた場合は、世の中に存在する仏像をできるだけ見ておきたいという制覇欲があるだろうか。
でもそれより明らかに大きいのは、「いけば何か感動が得られるかも」という期待の方かな。見たことのない仏像であっても、再見のものであっても、その時の自分と響きあうものがあればいいなという願い。

では、美術館にいく理由は?

うーん、私はそもそも、そんなに美術作品が好きだとはいえなかったりして。
毎月メンバーの皆さんが書いていらっしゃる記事を読むと、作品についてきちんと記述されていて、本当にすごいなあと思う。私なんて、作品にまつわる歴史や作家の人生にはワクワクさせられるけど、たぶん実際の作品はちゃんと見ることができていない。

それは、私に絵心がないことに大いに関係している。
図画や美術の授業でデザインやカリグラフィーは面白かったけど、読書感想画なんかは苦労したなあ。高校の芸術は、音楽を選択する以外考えられなかったし。
だから美術館に行っても、どうやってその絵を描くかという視点から見ることは皆無。やっぱり自分で制作する人と私とでは、美術館にいく“気合”からして違うよなあ。

じゃあ、私はなぜ時々ながらも美術館に行ってるんだろう?

自分の意思で行くようになってからを振り返ってみると、月並みながら、「この作品は実物を見ておかないと」「この特別展は見ておく方がよさそう」「海外旅行するなら、あの美術館には行くべきでしょ」から始まっている。
もう少し成長してからは、下調べをして、興味をひかれる展覧会や美術館/博物館を訪ねているかな。
今は美術史を勉強しているから、その関連が多い。

……えっ、これって読書するのに似ていないか?

「教科書に出てくるこの本くらい読んでおかないと」「有名な作家は代表作を1つくらい読んでおく方がよさそう」「この絵本は子どもに読み聞かせしておくべきでしょ」などから始まり。
自分なりの読書をしようと割り切ってからは、読みたいと惹かれる本におもむくままに近づいているという、これも美術館に行くのと同じ行動。もちろん、情報を得るためや娯楽のための読書もある。

そういえば、美術館に行ったあとと、読書を終えたあとの経過も似てるんじゃないか?
「うおぉー!」と衝撃を受けるほどの展覧会/書物を経験するのは、人生に数度あるかないか。でも自分でアクセスした展覧会/書物の場合、かなりの確率で、そのなかに少なくとも一つはジワッとくる作品/文章が存在している。人生の肥やしになっていく何かが少しずつ得られているというか。

美術館での鑑賞法と本の読み方も、私にとっては同じみたい。
絵の描き方に注目しないのと同様、読書中に文体や構造を学ぼうなんて考えていない。ただ、自分に合うかどうかだけ。

美術鑑賞と読書が似ているなんて書いたら、美術好きの人は怒るかもしれないな。書物という机上のものではなくて、美術作品はリアルなものなんだって。
まあ、そう言われても仕方ない。そういう人間もいるんだとスルーしていただければ。

          *      *      *    

では、美術館にいくのと読書するのとで違うところは?

……誰かと「時間」を共有することだろうか。
私はなかなか機会がないけれど、美術好きな人と一緒に美術館にいって、いろいろ語りながら鑑賞したら、きっと新鮮で楽しいだろうな。
読書でも同じ本を読んだあとで感想を言い合うことはできるけれど、さすがに読んでいる「時間」そのものの共有は無理だな。

「時間」の共有といえば、美術館は微妙な時期のデートにも使える場所。
福岡を例にとるなら、交際しはじめのカップルが大濠公園で散歩をして、相手のことをもっと深く知りたくなったとする。そのときは公園横の福岡市美術館に入って、美術品に対する相手の反応などをチェックすればいい。
逆に散歩だけでイマイチだと思ったなら、一緒に美術館に入ったのちは自分だけの鑑賞の世界にこもって、残りのデート時間を潰せばいい。
あるいはカップルが倦怠期になれば、散歩のあとに美術館に入りでもしなければ、その後の食事の際の話題にも事欠くことだろう。

では「時間」の共有のほかに、美術鑑賞と読書とで違う点はある?

……あった。
美術館という「空間」を明らかに欲したことが、私にはある。
あれからもう30年近くも経つのか。

          *      *      *    

働きだして3年目か4年目のこと。私は仕事で大失敗をした。幸いまわりの方々のフォローにより大失敗の“未遂”で済んだが、一人前の仕事人としてやっていけそうだという鼻っ柱を、完全にへしおられた。
その日は、ミスをして悔しいというよりも、起きていたかもしれないことの重大性に頭のなかが真っ白になっていた。上司からは、怒られるのではなく、次回同じ場面に出くわした時の対処法を指導されたが、そうできるかの自信はまったくなくなっていた。

翌日は、たまたま仕事が休みの日。
私はなぜか衝動的に、やきもので有名な佐賀県・有田にあるCHINA ON THE PARKの忠次館に出かけていた。

CHINA ON THE PARKは、宮内庁御用達の深川製磁が運営する工場隣接の陶磁器テーマパーク。忠次館は、そのランドマークともいうべき、深川製磁の博物館かつギャラリーである。(以下の画像は深川製磁のホームページから。なお同社は、先日のNHK『美の壺』で取材されていました。)

パーク内には深川製磁のアウトレットショップなどもあるのだが、私は吸い込まれるように敷地一番奥の忠次館へ。
忠次館には、創業当初の作品から最新作まで、また20世紀初頭の大壺から現代の食器まで、深川製磁の作品が広々としたフロアに並べられている。
なのに、そのとき私が何を見たのかは、まったく覚えていない。

館内でも、やっぱり仕事の失敗のことばかり頭に浮かび上がってくる。
鑑賞なんてとてもできる心境でないのだけれど、陳列された作品を見ているふりをしながら、ほんの少しずつ立ち位置を変えて。
訪問する人もそんなに多くない所なので、かたい表情で長い時間たたずんでいた私は、館の人から見ると変な客だったにちがいない。

何も目に入ってこないながらも、相当な時間をかけて隅から隅まで「鑑賞」して、少しは視線を上げられるようになったのだろう。天井の方からやわらかい光が差しているのに気づいて、吹き抜けの2階にあるカフェにも行ってみようと思った。

でも、アップルパイ(だったか?)を食べようとしても、また失敗のことが反芻されて、フォークを持つ手が震えてくる。
ようやくコーヒーカップも持てるようになったのは、静かながらもお腹に沁み入る音楽が流れていることに気がついてからだった。

退館するときには、庭園のラベンダーを写した絵葉書を1枚いただいた(購入したのではなかったはず)。忠次館の隣には、その季節になると約2000株のラベンダーが咲き誇る斜面があるのだ。

絵葉書は、それから数年後に大切な人に宛てて送った。何と書いたかは憶えていないけれど、その時にはもう、絵葉書なしでも仕事をやっていける手応えを得ていたのだと思う。

忠次館には以後何度か訪問して、やきものもきちんと鑑賞できたし、ケーキもしっかり味わえた。カフェの音楽は真空管アンプを使ったものと知って、納得もした。
でも、最初に忠次館に行ったときの気持ちはどうしても忘れることができない。仕事の世界は甘くなかったから、私はその後にもっと大きな失敗をしているにもかかわらず。

          *      *      *    

最初の失敗のとき、どうして忠次館に足が向いたのかは、今考えてもよくわからない。

当時CHINA ON THE PARKはできて数年で、私はまだ行ったことがなかったから、あの重厚な煉瓦造の建物を訪ねてみたいという潜在意識はあったのだろう。
ただ、少なくともラベンダーは目的ではなかったはず。帰るときにガーデン担当の男性から「今度はぜひラベンダーの時期に来てくださいね」と言われたことは記憶にあるから。
(今ちょうど咲いている時期ですね、また行きたくなってきました)

まあ、家に閉じこもってもどうせ読書なんかできなかったとは思うが、なぜ大好きなお寺や日本庭園に行くのではなくて、忠次館だったのか。やきものを見るのも好きではあったが、なぜ風光明媚な場所へドライブするのではなくて、忠次館だったのか。
やっぱり考えてもわからない。
でも忠次館のあの「空間」があったからこそ、私はまた出勤して、その後の仕事のステップを積み重ねられたことだけは間違いない。

学芸員さん、スタッフのみなさま、滅多にいないとは思いますが、あの時の私のような客の存在もどうぞお許しください。

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