不分明な面
余り、人の不安を煽るものは漫画など、創作物に置いて、僕は無関係にして、震災文学なんて、都会人のノリで、簡単に作るのは、不愉快だ。作りたくなんか、無い。
例えば、流行りの呪術廻戦等は特に、気をつけている。
彼らの話は、最終回だけ、アニメで、現時間でたまたま起きててみていた。
見たくて見たわけではない。
だが、終わり方が、不気味で、自分と否が応でも、関連付けてしまう。
碁盤の目の様に見える上空から、光の線が降りて、ヒビが走り、ぽっかりと、真っ暗な穴が影の様に、空いている。
それを見てしまい、その当時は感嘆したが、今は忌まわしく、吐き気がする。
こう言うものは現地人には、好意的に、少なくても、私からは、受け付けない。
ネタ感が、嫌である。
1月1日に、震源から比較的離れた地点で震度4で、地震が起きた時に、酷く、気持ちが落胆した。
自分の性と迄は行かなくても、物語との関連付けは、どうしても関連付けてしまう。
しかし、さして呪術廻戦に関心のない方の意見も聴くと、否定的な意見があったので、僕は理性を保てた気がする。冷静になれた。
信じるのは勝手だ。
好きな人の気持ちは、水を差す気もしないが、続編を決定発表の後で、差し替わったのか、真偽は定かでは無いが、こういう世論の声に左右されるこの物語は、そこまでの出す値打ちがあるだろうか?
そういう人の不安を煽って迄、ホラーを見る要素。その価値が、我々に本当にあるのか?
それをこの震災の混乱に乗じて、作り手がヒットを目論んで無くても、無意識の領域で作っていようと、僕はそういう、誰がどう言う過程でこの話を好むのか?身元不明な人々の求める需要こそが、一番不確かなのでは無いか?と疑念を抱かざるを得ない。
人間に過ぎない、何の専門知識もない人間が、それもズブの素人が玄人の言う事を理解できる訳が無い。
専門知識を知らない無知が何を救えるのだろうか。物語の過度な傾倒は危険である。
同じく、私が出来るのは正しい情報を伝える事ではなく、人々が其々各々何を個人的に抱いているか?その内実を一人一人紐解くだけに過ぎない。
これが、誰の人命を救うのだろう?私自身でさえ、益々、怪しい。
こういう災害時、私は極力、創作の制作は控えている。
受け取ってしまう、負のエネルギーとも言える、被害者感情が、生々しく、痛々しいのだ。わたしの精神衛生上、好ましく無い。
其れぐらい、この災害は、甚大な被害だと言える。
怖いモノで、災害に対する予備知識が、基本的な事すら、ままならず、混乱して、狼狽えているのだった。
そう、基本すら、予防線を平野部のため、張れず、そこまで危機感が無かった。
だから、阪神淡路大震災の亡くなった数より、熊本大震災や、能登大地震の震災の亡くなった数が少ないのは、人口密集度が多い少ないで、有るのは分かる。教訓も活かせないのは、当事者ではないからなのか?わからない。
それは別として、被害数の正確な把握は、現地の人間の方が、長けている。地元民が、積極的発信をしている。
報道機関より、民間人が、被害の惨状を、危機感を察知している為、脚がある人が、率先して、現地へ、交通網の麻痺した、遠方に四苦八苦していた。
都心部の遠方では、どうしても、他人事感が、拭えず、遅延の差を否めない。
テレビで惨状を目の当たりにしても、だ。
悲劇の深刻さは、映像からだけでは、把握出来ない。
現地の声は安否確認の為、生存の不安な人にとっては、貴重なのだ。