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〈小説〉 ほおずき

「ウンコを」 
思い出したようにコキタが言う。

将来どんな家に住みたいか、という話をしていたはずだった。 
引っ越しのアルバイトで午前の一件目を予定時間より早く終え、おかげで少し長くとることができた昼休憩のあいだ、その日が初対面のコキタと当たり障りのない会話で時間を潰していたのだ。 
「うち、ばーちゃんがウンコ投げるんすよ。こうやって」
腕をしならせて投げるコキタの仕草は、先日テレビで見たゴリラの着ぐるみでウンコを投げる真似をした芸人とそっくりだった。

まだたっぷりあると思っていた休憩時間はスマホの時計を見るとあと少しになっている。さっき買ったばかりの二本目の缶コーヒーの中身はまだ半分以上残っていた。
「トイレでならまだいいんすけど、廊下とか、あと最悪なのが和室。畳の目に染み込んじゃってウンコが。いつまでも臭くて、ほんと圧倒的ぃ! なんかもう鼻がぶっ壊れちゃってぇー! へへへへ」
話す内容の悲惨さとコキタのヘラヘラした笑い顔にギャップがありすぎて気味が悪くなる。コーヒーを無理して飲み干しながら横目でコキタを見ると、今度は黙って指のさかむけを真顔でむき出した。あんまり深く関わりたくないな、と思いながら「お母さん大変だな」と声をかけ、飲み干したコーヒーを自販機の横にあるゴミ箱に投げ入れる。
「昔はあんなんじゃなかったんすけど、おふくろ」
缶を入れたゴミ箱の穴をコキタが鋭い目付きで見る。カンを捨ててはいけないゴミ箱なのかとぼくは確認する。『カン』とちゃんと書いてある。
「『死ね、くそババア!』とか叫びながら、ばーちゃんの投げたウンコ拭いてて、おふくろ頭おかしくなったのかなって、そしたらなんか俺笑っちゃって、怒られんのかなと思ったらおふくろも笑いだして、もうほんと圧倒的ぃ!」
コキタがまたヘラヘラと情けなく笑う。
同情すべきところなのかもしれないが、ぼくは無性にイライラした。
そのイラつきの原因はいくつかある。コキタから漂う室内干しの生乾き臭、頭の悪そうな話し方のわりに端正な顔立ち、そしてコキタの「圧倒的ぃ!」という口癖だ。また急に真顔に戻るコキタから目をそらす。コキタとの付き合いはこの日限りだろう。ぼくはこの日で引っ越しのバイトを辞めるつもりだった。あと半日の我慢だ。

ぼくたちを乗せたトラックは、30分ほど走ったのち目的地に到着し、バックで停車する。
勢いよくサイドブレーキをかけたチームリーダーが「のろのろやってたら蹴り倒すからな」とぼくらを脅す。
「圧倒的ぃ!」コキタがエレベーターのないアパートを見上げながら言う。
午後の作業は2DKの狭いアパートから、新築のマンションへの引っ越しだった。
挨拶した若い夫婦には小さな子供がおり、奥さんの腹は大きく突き出ていた。

人数が増えていく引っ越しを『のぼり』、減っていくのを『くだり』というのだと帰りのトラックでチームリーダーが教えてくれた。
今日担当した二件は、共に『のぼり』の引っ越しだった。
どうせならのぼりがいい。希望に満ちている。 
いずれ自分ものぼるのだろう。誰かと共に暮らすとき、新しい命を授かったとき。
それきり引っ越しのアルバイトは辞めてしまったが、知らない誰かの人生がのぼっていく様子を見ることが出来たのは良い経験になった。
それからぼくは就職し、アルバイトも引っ越しも無縁の人生を送っているのに、どういう訳か、時々コキタを思い出した。コキタというよりも、認知症を患った祖母との日常、そして「圧倒的!」というあいつの口癖を。
祖母が自分の排泄物を部屋中にぶちまけるという惨状、『死ね』と叫びながら拭く母、それを笑い飛ばす息子。
客観的にみて、狂っている。
おそらくコキタは前世で悪事を働いたのだろう。今世でなにかに圧倒され続けて然るべき悪事を。ヘラヘラ笑っているコキタが時々見せる鋭いあの目付きは、前世の悪のなごりに違いない。いずれにせよぼくとは縁遠い世界だ。

就職して二年経った春、祖父が倒れ、三日後に死んだ。
残された祖母が一人で暮らしはじめて半年が経ったころ、祖母の様子がおかしいことに母が気づいた。鬱ではないかとみんなで心配した。
一気に老け込んだ祖母と一緒に暮らすと父が決断するまで、それほど時間はかからなかった。
ぼくたちが住む一軒家は、一階に使っていない八帖の和室があり、父も母もぼくもそれなりに収入がある。祖母一人を養うくらい容易い。
母もぼくも、父の決断に賛成した。ぜひそうしてあげようと盛り上がった。
この引っ越しは、くだりであると同時にのぼりでもある。
祖母をみんなで見守ってやれることに安堵し、またぼくに出来ることはなんだろうと真剣に考えた。
将来介護が必要になっても大丈夫なように手すりのついた介護ベッドを父が用意し、エアコンも設置した。玄関とトイレと風呂にも手すりを取り付けた。
祖母は「畳に布団を敷いて寝たかった」と介護ベッドをみて不満そうだったけれど、遠慮しているのだろうと祖母が寝てからぼくたちは話した。

空き家になってしまった祖母の家を取り壊すことになり、父にとって実家だった祖母の家から大量の荷物を運び込むと、一気によその家のにおいがするようになった。
よくもまあこれだけ荷物が家の中に収まっていたなと驚くくらいの不要品が祖母の家からトラックで運ばれて行くのを、父は寂しそうに見送った。

祖母の家がシートで囲われ、重機が入り取り壊しが始まった頃、おとなしかった祖母が次第にわがままを言うようになった。
食事に文句を言い出し自分の分だけスーパーで惣菜を買ってくる。煮浸しや焼き魚や刺身を、食べきれないくらいテーブルに並べ食べている祖母は、何かに抗議しているようにも思えたが、母はそのほうが楽なようだった。家族が全員そろって同じものを食べなければいけない決まりなんてない。そういう形もあるのだと思った。
冷蔵庫に祖母のタッパーが増え、時々あれがないこれがないとぶつぶつと眉間にシワを寄せている。
父の提案で祖母のタッパーには全て名前を貼ることにした。父が会社で使っているテプラで、祖母のフルネームを印字したシールをいくつも作って持ち帰った。
祖母の世話を母に押し付けていることをこれで帳消しにしてもらえるとでも思っているのか、父は祖母のフルネームシールをそれから定期的に持ち帰り祖母に渡した。祖母はそれを嬉しそうに受けとる。マーキングをする犬のように、祖母はあらゆるものに熱心にシールを貼った。タッパーやコップ、ハンガーや置時計、しまいには和室のふすまにまでシールを貼り、祖母が家を差し押さえたように思えた。

財布に入れていた金がなくなったと祖母が言い出したとき、とうとうきたかとぼくは思った。認知症の初期症状ではないかと母も言った。
祖母には健診に行くだけだと騙し、母が付き添って病院へ連れて行った。診断は認知症の予備軍というだけだった。現状では治療するほどの段階ではないという。
母が友人に相談したところ、早めに投薬することで進行が防げるから他の病院へ連れていった方がいいとアドバイスされたらしい。けれど母が祖母にそれを話すと病人扱いするなとキレて、それ以上話を聞いてくれなくなったので母は諦めてしまった。
それにしても足腰も弱くなり、杖をついても一人で出歩くのは危険な状態なので、介護サービスを受けさせるということで家族で意見が一致し、母が申請をした。
そのことについてもまた祖母は怒った。そんなものは必要ない。わたしは今までも不自由なくやって来た、みんなにも迷惑をかけないと意地をはった。だから介護認定士が来たときだけやたらと気丈に振る舞う。手厚いサービスが受けられなくなるからとダメな風を装うよう父から言ってもらっても祖母のプライドが許さないようだった。結局祖母は一番軽い扱いの要支援1という判定になり、週5日デイサービスに通ってもらうことになった。
日数を減らしてくれと祖母が父に頼んだが、それよりも母の負担を減らすべきだとぼくが父に頼み週5に決定した。

あれだけ抵抗していたのに、通い始めると祖母は楽しそうだった。食事も美味しくみんな優しいと自慢げに話したのでホッとした。風呂も施設で入るようになり、母が祖母の入浴時に介助する必要も無くなった。
しかし木曜日と日曜日は祖母は一日中家にいる。
時々母や父が車イスで外へ連れていくが、それ以外はほとんど部屋でテレビをみている。

その頃から家がぼくにとって落ち着ける場所ではなく面倒な場所になってしまった。
祖母が我が家に来たせいで家の色ががらりと変わった。においまで違う。
死へ向かうだけの祖母に道づれにされるようにぼくの運気の流れが完全に『のぼり』ではなく『くだり』になったような気がした。祖母と暮らしはじめてから、仕事でなかなか思うような業績があがらなかったり、うっすらと片思いしていた後輩を先輩に取られたり、電車で財布を盗まれたりした。何をされた訳でもないのに、祖母のせいにせずにはいられなかった。
そのうちに母が過労で倒れた。

接待や出張で家にいないことが増えた父は、母に謝りもしなかった。「無理するなと言っただろう」と父が病院のベッドで点滴を受けている母に言ったとき、無理させたのはお前だろうと言いたかった。父が母よりも祖母を優先させているとがぼくにもわかった。母が可哀想でならない。思春期にもこんなに父を憎らしく思ったことはなかった。そしてぼくは、金が無くなったと祖母が言ったとき、父がぼくを一瞬でも疑ったことをまだ許してはいなかった。
母を楽にさせてやりたいので、隔週の日曜日はぼくが祖母の面倒を見ると約束した。
とったばかりの免許で、後部座席に祖母を乗せ、イオンモールへ行く。
総合案内所で母に言われた通り車イスを借り、うろつく。
「おばあちゃん、何かみたいところない?」
「抹茶パフェでも食べようか?」
色々話しかけてみるが、祖母は困ったような顔で首を横に振るだけだった。
台所用品の売り場で、目新しい調理器具を見せてもうんざりした表情で顔を背ける。舌打ちしたい気持ちを押さえてフードコートへ連れて行き、フルーツのスムージーを祖母に買い与え、コーヒーを飲んだ。
遠くを黙って見ていた祖母が口を動かす。
まわりの家族連れの声でかき消されて聞こえない。
「なに? どうしたの? いらないなら残していいよ」
ぼくは祖母に顔を近づけて言う。
「疲れた」
答えた祖母の口から嘔吐物みたいなにおいがする。
祖母はうつむいて黙る。
まるでぼくが祖母を引きずり回して故意に疲れさせたみたいじゃないか。 「こっちだって疲れたよ」
祖母に聞こえないよう口のなかで小さく言葉を吐く。
祖母はもう、欲しいものなど何もないのだ。テレビ以外に見たいものなどないし、自分で買ってくるスーパーの惣菜以外に食べたい物もない。
「ごめんね、帰ろうか」
祖母にそう言葉をかけると、鼻の奥がツンと痛む。うっかり泣きそうになって咳払いする。
帰りも無言で祖母を乗せ家へ帰る。一ミリも楽しくなかった。祖母もそう思っているだろう。
祖父が生きていたとき、祖父のとなりで優しく微笑んでいたあれは、もしかすると別の人なのではないかと思ってしまう。庭のほおずきを手に取り、色づいたそれを祖母はそっとぼくの小さな手のひらに乗せてくれた。
「綺麗な朱でしょう」
祖母は実を器用にほぐし、中身を取り出して口に入れ、笛にして吹いた。祖母がやると不思議な音が出るのに、ぼくがいくらやってもほおずきの笛は鳴らず、甘いような苦いような味だけが口に残った。
料理上手で、物知りで、温かな声でぼくを呼ぶ、あの祖母。
後ろに祖母を乗せていることも忘れて、すでに亡くなってしまった人のことみたいに昔の優しい祖母を思い出していた。

家につき、後部座席の扉を開けたとたんぼくは顔をしかめた。
祖母から尿のにおいがする。
「おばあちゃん、もしかして、漏らした?」
訊いてもむっつりと黙りこんでいる。
祖母のスカートを持ち上げるとさっきより濃く尿のにおいが鼻に届く。
「やっぱり漏れてるよ!」
ぼくの声が大きかったせいか祖母は顔を真っ赤にして「うるさい!」と怒鳴った。
そういえば祖母は女性だったと自分の配慮のなさを反省しても時すでに遅く、「ごめんごめん」と謝りながら骨に皮がはりついただけの細い手をとり座席から祖母をおろし玄関まで連れていき、和室の扉を開けて「着替えなよ、洗濯物は廊下に出しといて」と優しく声をかけても祖母は振り向きもせず力一杯和室のふすまを閉めてしまった。
車の後部座席には祖母が座っていた場所が尿でぐっしょり塗れていた。

あるだけの雑巾と新聞紙で吸わせても全く乾かない。一時間ほど格闘したのち、ファブリーズを中身がなくなるくらいふりかけて新聞紙をしき、乾くまでそのままにすることにした。
ぼくはそれきり、祖母が喜ぶことはなんだろう、行きたいところはどこだろうと考えるのをやめた。
隔週で祖母の面倒をみる日曜日がやってくるたびに鉛のように体が重くなった。仕方なく祖母を車で連れ出すたびに「オムツはいた? 頼むからはいてよ、車汚したくないからさ」とぼくが言うので、しまいには祖母はぼくと外出することを拒んだ。
家にいたいのにぼくが外を引きずり回すせいで腰の痛みがひどいと父に愚痴っていると知って、もう二度とどこへも連れていかないと心に決めた。

顔を合わせるのも億劫になったが、母の負担を増やす訳にはいかないので隔週の日曜日は祖母と一緒に家にこもった。
居間にいくと祖母がテーブルでテレビを観ていた。ドラマの再放送らしかった。
「野球が観たいんだけど」
「わたしは見ません」
セールスを断るような強さで答えた祖母の横顔を無意識に睨み付けてしまう。自分の部屋のテレビを観ればいいのに。
テーブルには祖母が食い散らかしたお菓子のゴミが散乱している。
「おばあちゃん、ゴミはきちんとゴミ箱へ……」
「ああすみません!」
祖母の声の大きさに一瞬うろたえる。
「すみませんね! お世話になります! 本意ではないんですよ、こうしてね、お世話になるしか、あなた方にお世話になるしか、ないんです! ないのよ! ああもう!」
祖母が立ちあがり、壁や柱を手すりがわりにしてヨタヨタと和室へ戻っていくのを手も貸さずに見送る。

チャンネルを野球に合わせる。デーゲーム。七回裏。球場のにぎやかな応援歌がテレビから流れるけれど、苛立ちを募らせた祖母の声の余韻が、耳の奥に入ってしまった水みたいにいつまでも取れない。
八つ当たりしたいのはこっちだ。
ぼくの、ぼくたちの家庭を壊しておいてよくも偉そうに文句を垂れることができるな。 
祖母なんかいなくなればいい。
いなくなるということは死を意味している。けれど死ねばいいとはっきり念じることができない程度に祖母に対しての情は残っていた。やりきれない気持ちでテレビを消す。ため息をついたところでこのやりきれなさを解消する方法なんてまるで思い付かない。

ぼくはこれからのぼっていくはずだった。まだ相手もいないけれどいずれぼくが結婚し、この家に嫁や子供を連れて帰りにぎやかに過ごす盆や正月を楽しみにするのだろうと疑いもなく信じていた。
なぜか今想像してしまうのは、このまま祖母と一緒に父も母も老け込んで、この家の老いのすべてを背負い込んだぼくが、こけた頬で笑うことも忘れゴミ屋敷と化したこの家で暮らしている姿だ。

神の啓司のように「圧倒的!」というコキタの声がよみがえる。
薬物中毒者のような定まらない視点と不安定な情緒のコキタ。
祖母が食べ散らかしたお菓子の小袋がテーブルに散乱している。骨と皮だけのあの細いからだに収まったことが信じられないくらいの量を祖母は食べている。個包装の袋はすべて千切られ、裂いた方と裂かれた方で大きさが違う。破りやすいよう配慮されたギザギザの小袋の切り口は、それらをかき集めたぼくの両手にチクチクと小さく痛みを与える。ぼくは自分の両手が小刻みに震えていることに気づく。
ゴミ箱に押し込むつもりで二歩あるいたところで息がもれる。泣きたい気持ちのはずなのに頬がゆるみ、肺の奥がふつふつと揺れ、指の隙間から小袋のかけらがいくつか落ちる。前屈みになった自分の肺を叩き鳴る太鼓のような笑い声は、ずっと潜んでいた自分の中の別人格のもののように思えた。
「圧倒的!!」
叫びながら両手にかき集めたゴミを宙にぶちまける。
思ったように舞わず、テーブルに散らばるさっきより数が少なくなったそれらを再びかき集める。
「圧、倒、的ぃ!!」
テーブルに落ちた祖母の食い散らかしたゴミ。憎しみをこめて手のひらではたき落とす。
歯をくいしばりもう何も残っていないテーブルを強く何度も叩く。誰かの、何かの、息の根をとめるように。
背後で誰かの声がする。
スイッチが切り替わるように我にかえる。
ゆっくり振り返ると、母が買い物袋を手にしたままぼくを凝視していた。薬物中毒者を見るような目で。

「おかえり」
肩で息をしながらぼくは言う。
「ただいま」
母は何も見なかったことにして買い物袋の中身を冷蔵庫へ納めはじめる。
おもむろにビニール袋から取り出したあずきバーの箱を開け一本をむきかじりつく。
歯茎をむき出しにしてあずきバーに歯をたてる母がぼくにも一本差し出してくる。
黙って受け取り袋を開けかじる。凶器のように固いあずきバーに、母の真似をして大袈裟に歯をたてる。
母とぼくは冷蔵庫の前で突っ立ったまま無言でアイスを頬張る。時々目を合わせ、決して言葉にはしないけれど同じ気持ちを分かち合う。

ぼくらは戦っている。
戦いの途中で見た己の愚かさや、醜さに、うちひしがれて笑う。

「今夜はみんなで寿司でも食べに行こうか」
母が言う。
「いいね」
答えながら、外食すると伝えたら、祖母は喜んでくれるだろうかと思う。

はやく死ねばいい、どこかで強く願いながら、それなのにぼくは、焦がれるように祖母の笑顔が見たいのだ。







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