〈小説〉ああ、ロミオ
「わたしは死んだことになってるんだよ」
おにぎりを陳列棚に全部おさめて振り返ると、悲しい目で美濃くんがわたしを見ていた。
「だからさ」
同情してもらおうとか慰めてほしいとかそんな気持ちはない。
毎日ストーカーから守るために、義理で送ってくれるようになった美濃くんに申し訳なくてわたしは言う。
「わたしに何かあっても、親はなんとも思わないよ」
空になった運搬用の青いコンテナを持ち上げると、美濃くんが無言で取り上げ、バックヤードに運んでくれる。「ありがと」と言ったわたしの声と重なるように、自動ドアが開き来客のメロディーが鳴る。
なぜ二人が結婚し、わたしが生まれたのか不思議に思うくらい、物心ついたときから父と母は仲が悪い。ひとりっ子のわたしはいつも板挟みに合い、二人の緩衝材になった。
学歴の低い母と仕事中の事故で足に障害が残った父は互いに罵り合い、顔を見ればいつも眉間に深いシワを寄せている。なのに母は食事の世話だけはきちんと三食欠かさず、父も食事のときは黙って箸を動かした。
毎晩葬式のように暗い雰囲気で三人で食事をしながら、囚人が脱獄を計画するように、どうすれば家から出られるか、そればかり考えた。家から、両親から、正当に逃げる手段としてわたしは県外の大学へ進学した。
大学を出たら実家に戻り、就職して家計を助けると約束して。
「そんなことないよ絶対」
数人のレジ打ちを終え、思い出したように美濃くんが言って、それがさっきの話の続きだと気づきわたしは鼻で笑った。
バイトを終え、一緒にコンビニを出て、アパートまで送ってもらい、手を振る。
美濃くんが背を向け立ち去ったのを確認してから、アパートの外階段を登りかけて振り向くと、去ったはずの美濃くんがいた。
「どうしたの?」
訊くと美濃くんは、さっきバイバイした場所でわたしを追い払う仕草をした。行って、と口だけ動かしている。わたしが家の中に入るのを見届けようとしているんだとわかった。
うん、とうなずきもう一度手を振ってから、階段を登り終え玄関の鍵をあけて、振り返らずに中に入った。ドアを閉めてから「やさしい子」と思わず呟いた。
送ってもらうようになって数か月が経ったとき、わたしは美濃くんを解放してあげようと思った。水商売のバイトをしていた頃の客がわたしの帰りを待ち伏せし、後をつける姿を見なくなってから、もうずいぶん経つ。美濃くんは優しいから、わたしから言ってあげないと永遠にわたしを送り続けるだろうと思った。それが原因で美濃くんの恋を邪魔するようなことがあってはいけない。
「もういいよ」
「え」
「もう、今日で最後でいいよ。一人で帰れるし。なんか、悪いし。いつまでも送ってもらうの」
「あ……おれ、いないほうがいい?」
「ううん、そうじゃなくて、美濃くん彼女とか好きな人とかいないの?」
美濃くんは黙って、口をとがらせる。
「沖さんこそ」
「わたしは美濃くんがいたほうがいいよ。いいけどさ」
「んー、じゃあこれからも送ります。おれ、沖さんになんかあったら困るし」
あまりにもまっすぐな目で言うのでドキッとした。
バイト仲間として以上の気持ちが含まれていればいいのに、と思った。
「甘えていいの?」
「頼りないかもしんないけど」
「美濃くん、やさしいね」
美濃くん、と呼ぶと自分まで高校生に戻ったような気持ちになる。
まだ酒も男も知らなかった頃。
親に見放されてまで叶えたい夢もなかった頃。
「おやすみ」
笑わずにわたしが言うと、なにか言いたげな表情で数秒黙った後、「おやすみなさい」と美濃くんは笑った。
美濃くんが、美濃くんの意思で送ってくれている、そう思うと一緒に帰ることが楽しみになった。
本当はもっと遅くまでシフトを入れて稼ぎたかったけれど、美濃くんが上がる時間に合わせてわたしも上がるようにした。
気のせいかもしれないけど、美濃くんの歩くスピードが日に日にゆっくりになっている。
もっと美濃くんに近づきたいと思ったわたしは、バレンタインデーにチョコレートをあげることにした。ハート形の、安物のチョコ。
義理かよーと笑い飛ばして美濃くんがわたしから逃げられるように、本気が見えるチョコにはしなかった。ズルいなと自分でも思うけど、高校生の美濃くんに、水商売の経験がある年上の女がどんな風に映っているのか不安だったのだ。
それでも渡すとき、わたしはうっかり「義理じゃないからね」といってしまった。軽はずみな告白をしてしまったことを少し後悔するほどに、わたしは美濃くんのことを好きになっていた。
はじめて主役を演じた舞台のDVDを手に入れたので、それを美濃くんに観てもらおうと思った。劇団員以外に友達も知り合いもいないから、わたしがわたし以外をきちんと演じられているか知りたい。演技をしていない素のわたししか知らない美濃くんの感想を、どうしても聞きたかった。
いつものようにバイトの帰りに美濃くんが送ってくれ、良かったら家に来てわたしの舞台を観ないかと誘った。断られたときの返事も用意していたけれど、美濃くんは、「観たいっす」と少し照れながら答えた。美濃くんに待っていてもらい、大急ぎで家の中を片付けた。床に散らばったままの畳んでいない洗濯物をクローゼットに放り込み、袋の口を開けたままテーブルに置きっぱなしだったグレープのグミをひと粒口に入れた。
下で待つ美濃くんを呼びに行きながら、DVDを観てもらう以外に美濃くんにしてほしいと思っていることが頭をよぎる。今日自分がつけていた下着を思い出す。少し汗をかいていることが気になった。
二本のうち一本が切れてしまったままの薄暗い電灯の下に美濃くんを座らせ、パソコンでDVDを再生した。
唇を薄く開いたまま、美濃くんは画面に目を凝らす。
その横顔をわたしはじっとみた。
つるんとしたきれいな頬。濃くて短い睫毛。うすい二重。
すっと通った鼻と、輪郭のはっきりした唇。
深く息を吸い込むと、ちゃんと男の人の匂いがした。
制服姿の肩がすぐそこにあって、わたしの子宮のあたりがきゅんとする。
動画が終わり、どうだった? と訊くと、慎重に言葉を選びながら美濃くんは感想を言った。ちょっと恥ずかしかった。沖さんじゃないみたい、と。
美濃くんと見つめ合って息をのんだ。制御していた感情のメーターが振り切れるのが自分でもわかった。
腕を伸ばし肩をつかんで、目を開けたまま唇に吸い付いた。
少しだけ美濃くんが拒んだように思えて、唇を離し「もう一回していい?」と訊いた。
美濃くんは答えないかわりにわたしを受け入れる態度を見せた。美濃くんの唇は、外側は少ししょっぱくて、内側は甘かった。舌で確かめるように前歯の裏側をなぞったら美濃くんがからだをよじった。舌の裏側までなめようと奥まで探ると、溺れそうになったみたいな慌てかたで美濃くんがわたしの二の腕を強く掴む。
美濃くんがわたしの服のなかに手を入れ、からだをまさぐり、服をたくしあげる。ブラジャーのホックを外し、胸を両手で包み込み、ピンと立つ二つの突起のうちの片方を口に含む。感じていることを教えてあげたくてわざと甘い声を出す。もう片方の突起へ口を運ぶとき、ちらりと目だけでわたしを見る。その表情に鳥肌がたつ。
我慢できなくなって美濃くんの下腹部に手を伸ばし、制服のズボンの上からなぞると、びっくりするくらい固いものがそこにあった。
「ちょっと待って」
美濃くんが言い、動きを全部止める。
いつも一緒にコンビニで働いている、いつも帰りみち送ってくれる、あのやさしい美濃くんと、いやらしいことをしていると思うと笑えた。
覚悟を決めたのか、美濃くんがわたしをベッドに押し倒す。
美濃くん主導でキスをされて、愛しくてたまらなくなって美濃くんの髪をくしゃくしゃにしながら息継ぎの合間に「好き」とささやいた。
美濃くんは慣れない手つきでわたしを抱いた。初めてか、それに近い感じだった。
かわいい、と思った。大丈夫だよ、と言いそうになった。
終わったあと、美濃くんはコンドームの処理に困っていた。裸のままトイレにはしり、トイレットペーパーをぐるぐる手に巻いて、台所でコンビニの袋をとって美濃くんのもとに戻った。
「うち箱ティッシュ無いんだ。ごめんね」
「あ、自分でやります」
急に敬語に戻る美濃くんを笑って、トイレットペーパーと袋を渡した。
しわくちゃになった制服のシャツを着て、美濃くんは帰った。
美濃くんを深くまでおさめた場所がいつまでも火照り、湿ったままだった。
ベッドに落ちていたどちらかの陰毛を手で払い落とし、シーツに顔を押し付けて深く吸い込む。美濃くん。美濃くん。美濃くん。シーツをなで回しながら、にやけた顔でバカみたいに何度も名を呼んだ。
次にコンビニで美濃くんと会ったとき、店長にバレてしまうんじゃないかとハラハラするくらい二人とも顔が真っ赤になった。
普通を装っていつも通り送ってもらい、あの日のことには一切触れずに何事もなかったように手を振って別れた。無表情を決め込んだわたしの心臓は爆発しそうなほど激しく鼓動を打ち、こんなのまるで初恋じゃないかと自分を馬鹿にしたくなるくらい動揺していた。
それから二日会わない日を挟んで、またバイトが一緒の日の帰りみち、白い小さな箱をくれた。ホワイトデーのお返し? と訊くと違うと首を横にふる。
箱を受け取ったものの、わたしも美濃くんも黙ってしまい、とうとうアパートの前についた。
美濃くんは押して歩いていた自転車を停め、姿勢を正してわたしの真正面に立つ。
神妙な顔をして美濃くんが口を開く。
「順番を、間違っちゃったかもしれないけど、ちゃんと言ってなかったから、言います」
「はい」
「好きだから、ぼくと、付き合ってください」
一点の曇りもなくまっすぐに、人生をかけたような神聖な告白をされて、わたしは感動した。プロポーズみたいだ、と思った。
「はい」
美濃くんがわたしの手を取る。
「あけて」
言われて、握っていた箱の包装紙を丁寧にはがし、開ける。
シルバーのネックレス。小さなハート型の透明の石。
「大切にします」
「ぼくも沖さんのこと、大切にします」
男の人と付き合ったことは今まで何度かあったけど、こんなに遠慮してしまう恋は初めてだった。美濃くんが、授業だとかテストだとか学校を連想させる言葉をときどき発するたびに、高校生だということを思い出し、なにかいけないことをしているような気になるのだ。
未成年に、淫らな行為をしているような気に。
けれどそれは性交中に限ってはわたしをひどく興奮させた。
恐る恐るだった前戯も回を重ねるごとにうまくなり、男の子が性交のテクニックを習得し、大人の男に成長していく過程を体感することができた。
休みを合わせ、昼間から一日中わたしの部屋で性交をする日もあった。
交わっても交わっても美濃くんは疲れることがなかった。
バイト帰りに家に寄り、短い性交をする日もある。そんなとき美濃くんは日付をまたがずに必ずその日のうちに帰った。
そのまま朝まで過ごしたかったけれど、未成年という事実がいつもわたしを聞き分けの良い女にした。
一緒にお風呂に入るために遅くまで帰りを待つ小学生の弟や、反抗ばかりするけれど大切に思っている妹の話を美濃くんがするたびに、わたしはこっそり焼きもちをやいた。
家庭を大事にする美濃くんがその日のうちに必ず帰るとき、わたしはなぜか不倫しているような錯覚を覚える。
妻子ある男と付き合ったことはないけれど、多分こんな感じなんだろう。
美濃くんと一緒に頬張ったポテトチップスの食べかすを拾いながら、むなしくなってシャワーも浴びずに眠る日もあった。
「いまどきYouTubeにチャンネルも持たずにさぁ、ホームページのレイアウトもガッタガタ、SNSの更新もぜんぜんだよ、あんな状態だったらないほうがましだよ」
バイトを終えて美濃くんに送ってもらったあと、同じ劇団員のトモヤが「飲みに行こう」と家まで誘いに来て、トモヤの自転車に二人乗りして深夜の居酒屋へ行った。
もうすぐオーダーストップになるからと、まとめて頼んだチューハイのグラスがテーブルを埋め尽くしている。
「平成は終わるんだよ」
赤い顔のトモヤが言って、わたしは焼き鳥を前歯で串からずらしながら馬鹿にして笑う。
「関ジャニのさ、あれ誰だっけ名前忘れたけど、あいつだって、『尊敬する先輩がいたらジャニーズ辞めてない』って言っただろ、俺あの言葉で目が覚めたんだよ。保険も年金も払えずに賞味期限切れの腐りかけた弁当食って禿げていく伴さんみたいになりたくねぇよ俺。おまえ親から『娘は死んだと思うことにする』って言われたんだろ、死んだままでいいの? 沖奈津美はこの世から抹消されたままでいいの?」
劇団員のなかで一番年上の伴さんを引き合いに出し、トモヤは劇団をこき下ろす。
たしかに、わたしが大学を中退し、演劇にのめりこむきっかけとなった舞台に出演していた尊敬する先輩が二名退団してから、わたしたちが所属する劇団は勢いがなくなった。
前期の学費を納めたのにと電話口で半狂乱の母に言われ、娘は死んだことにすると生活費も打ち切られ、それきり両親と連絡もしないままもうすぐ三年が経とうとしている。
役者で食べていけるようになるまでは、両親にはこちらから連絡を取らないと決めているが、このまま今の劇団に所属していても、望むような未来へはたどり着けないような気がしている。
「中央に殴り込みかけようぜ」
「ダサ」
「どこが」
「今言ったこと全部だよ。特に『中央に殴り込みかける』とか。クソダサい」
「俺は行く。東京に。おまえも来いよ。失うものなんかなんにもないだろ」
チューハイをすべて空にして、誘ったくせにわたしから千円を奪いトモヤは支払いをすませた。
汗臭いトモヤの自転車の後ろに乗る。
フラフラと安定しないのでわたしは両足を開いて伸ばしバランスをとる。
「どっちがダサいかよく考えてみろよ」
捨て台詞のようにトモヤが言い、「うるせー」と言い返して別れた。
蓋をして、考えないようにしていたことをトモヤにぐちゃぐちゃに散らかされたようで気分が悪かった。
それなのに、稽古にいってもバイトに行っても美濃くんといても、バカにしたはずのトモヤの言葉をわたしは無意識に反芻していた。
夜眠るとき、朝起きたとき、トイレで便座に座りながら、バスでつり革を掴みながら、わたしは気付くと呪文のように何度も「中央に殴り込み」と唱えていた。
「こないだ言ったこと、全部本気だから。先行ってる。おまえも来いよ」
トモヤはその日退団届けを出し、東京に出た。
確かに失うものなんて何もなかった。このまま中途半端な場所でくすぶって終わるより、『中央に殴り込み』をかけて、ポテトチップスの食べかすよりもっと小さなチャンスを拾うために、東京へ出た方がいい。そんな気持ちになった。
次の日のバイトを休み、電車を何本も乗り継いで東京のトモヤに会いに行った。トモヤは喜び、所属しようとしている劇団の数人に会わせてくれると方々へ電話をかけた。
テレビドラマに出たことのある人や、今では超有名俳優になった元劇団員と同期の人も来たのでわたしは萎縮した。
居酒屋でぎゅうぎゅうに詰めて座り、演劇についての思いをみんなが熱く語った。目標や夢があり、その先の展望もあった。ダサいのは間違いなくこのわたしだとレモンサワーをちびちび飲みながら泣きそうな気分になる。
「彼女も入団するんでしょ」
初めに自己紹介されたけれど名前が思い出せない人に言われ、小さく首を振る。
「その予定です」
トモヤが答え、わたしはトモヤをにらむ。
「はい! 俺、彼女が主役やった公演のDVD観たよ」
誰かが手を上げて言う。
「マジすか!」
トモヤが自分のことのように喜ぶ。
「オーディションなんか受けなくても、あの公演みりゃ一発合格だろ」
「いい雰囲気してるもんね、彼女」
別の人に言われて愛想笑いで答える。
居酒屋を出て、みんなと別れ、トモヤの新居に帰る。
2DKの、なんにもない部屋。
顔を洗い、うがいをした後、酒臭い息を吐きながら「奥で寝ろよ。敷くものないけど、毛布ならあるよ」と奥の部屋を指す。
「おまえが心を決めてから言おうと思ってたけど、じつはもうおまえのことも座長に話してあるんだ。希望するなら、是非って、座長が」
カーテンを閉め、毛布を床に敷きながら「なんで」とわたしは訊く。
「一緒に住まないか」
「は?」
「ここにベッドを置けばいい。トラック借りて、運んでやるから」
「なんで? なんでわたしなの?」
「おまえには才能がある。この前の公演、すげー良くて、俺、感動したんだよ。おんなじ目標持ってて、芝居の才能があるおまえとなら、好きとか嫌いとかそういうの関係なく、一緒にやっていけると思ったんだよ。おまえが男でも女でもどっちでも俺、同じように誘ってた。なにより……」
一呼吸置いてからトモヤは続ける。
「暮らしが楽だろう、一人より、二人のほうが」
むかむかした。結局お金のことか、と思った。
道連れで、金ずるにされるなんてごめんだ。
でも、じゃあなぜ翌日帰るとき、駅でトモヤが「訊くの忘れてたけど、おまえ彼氏いんの?」と言ったとき、「いない」とわたしは答えたのだろう。
心のどこかで、トモヤと暮らし、その先への道しるべがあると感じられる劇団に入り、役者として日の目を浴びる自分の姿を想像してしまったせいだ。
帰り道が無くなったら、進むしかなくなる。
今までのわたしを捨て、新しく挑戦することに何をためらう必要がある。
それに、トモヤと暮らせば、家賃や光熱費が半分で済む。ストーカーにつけられる心配もない。オーディションも受けやすくなる。有益なつながりもたくさんできる。
自分の家に戻り、袋から出して洗ったもやしにポン酢をかけただけの晩御飯を食べながら、決意が固まっていくのを感じていた。
日曜日、久しぶりに会った美濃くんは、数日前より大人びて見えた。制服を着ていないせいかもしれない。
朝からわたしの部屋で性交をし、カップラーメンを食べ、一緒にシフトを入れた夕方のバイトの時間まで近所を散歩しようと外に出た。
スーパーで飲み物とシャボン玉を買い、美濃くんが小さい頃から遊び場にしている神社に行った。
賽銭箱に小銭を投げ入れ、太い綱を二人で振った。
手を合わせ目を閉じ終わってから、「何をお願いしたの?」と訊くと、「沖さんが、女優として成功しますようにって」と美濃くんが笑って、なぜかトモヤの酒臭い息を思い出した。
朽ち果てかけた木製のベンチに腰掛け、シャボン玉を袋から出す。
小学生くらいの男の子たちが数人で集まってなにかをしながら、こちらをちらちらと見ている。
「ここで毎年夏祭りがあるんだ。今年は一緒に行こうよ」
ベンチから立ち上がり、わたしがシャボン液をつけた棒を吹くと、小さく連なったシャボン玉が風に運ばれて舞い上がった。
「行く行く。わたし、わたあめ食べたいな」
美濃くんもシャボン玉の行く末を見守る。
「沖さんの、浴衣姿が見たい」
「大きいのつくるね」
細い息を長く続けて、わたしは今までで一番大きなシャボン玉を作ることに成功する。
「おめかししてよ。たまには」
「いつもこんなだから?」
わたしが言うと美濃くんは優しく笑って、「貸して」とわたしの手から棒をとる。
美濃くんが吹いたシャボン玉が風にのり、空に高く昇っていくのを見ながら、浴衣っていくらするんだろう、と考えた。買うお金があるかな。それまで美濃くんと続いているかな、と。
「ねぇ、今だから訊くけど、わたしの舞台観て、本当はどう思った?」
あの日のことを思い出したのか、美濃くんは少し照れた。
「どうって?」
「ストーリーとか、んー、共感できるところがあったかどうか、とか」
美濃くんはシャボン玉をやめて、シャボン液にキャップをかぶせた。
「本当のこというと、ストーリーが、ちょっとまあ、意味わかんなかった」
ははは、とわたしは笑う。
「でも、でも沖さんは、とっても良かったよ」
「ロミオとジュリエットのパクリだからね」
言いながら、脚本や座長、そして劇団をこきおろしたトモヤと、同じ感情を抱いている自分に気づく。それでも飲み込んで演じきれたのは、わたしが主役だったからだ。
「ああ、美濃。どうしてあなたは美濃なの」
わざとらしい身振りをつけてわたしは言う。
「なにそれ」
美濃くんがわたしを見上げて笑う。
「知らない?」
笑う美濃くんを無視してわたしは続ける。
「その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛すると誓って。
そうすれば、私は、奈津美の名を捨てましょう」
「有名なの?」
「有名だよ、すごく。映画にも何作もなってるよ。ほんとに知らないの? ロミオとジュリエット」
「タイトルだけは聞いたことある気がするけど……ハッピーエンド?」
「ううん、死んじゃう。どっちも自殺」
美濃くんのとなりに腰掛ける。
「やだな、そんな結末」
シャボン液をビニール袋に戻し、わたしは美濃くんの手に手を重ねる。
「色々あるんだよぅ、大人の事情が」
体を揺らしながら押し付ける。
「子供あつかいすんなー」
美濃くんがやりかえしてくる。
「好きだけじゃ、どうしようもないことがあるんだよ、美濃くん」
「ねえその、名字、いい加減やめない? 下の名前で呼んでよ」
わたしたちは見つめ合う。
「頭のなかで練習しとく。恥ずかしいから。じゃあ美濃くんも奈津美って呼んでよ」
「奈津美」
ささくようにわたしの名を言う美濃くんの唇を見つめる。
「もう一回」
「奈津美」
「好きだよ、美濃くん」
「名字」と笑う美濃くんの唇を、わたしは唇でふさぐ。
境内の裏からこっそり私たちを見ていた男の子たちが「チュウしてんぞ!」と騒ぐ声が聞こえ、美濃くんが唇を離す。
「見たいんだよ、見せてあげようよ」
そう言ってもう一度顔を近づけると、困ったような表情でわたしの肩に手を回した。
「決めた?」
トモヤから連絡があったとき、自分じゃない誰かが勝手にわたしを喋らせたみたいに、「決めた、いく」と返事していた。
不動産屋に賃貸契約の解除を申し入れ、単発で行っていた詐欺の片棒を担ぐようなテレアポの事務所とコンビニの店長に退職するために電話をした。
もう何か月も行ってなかったテレアポの事務所の電話番号にはもう繋がらなかった。
コンビニの店長は、「本当はこういうのダメなんだよー、最低でも一ヶ月前に言うのが世間一般の常識だからね」とはじめは怒っていたけど、最後には「こんな辞め方するんだから有名になってもらわなくちゃ困るよ。一緒に働いてたんだって自慢できるくらいの女優さんになってよね」と言ってくれた。
劇団の座長に退団を伝えに行くと、「トモヤだろ」と怒りに満ちた顔で言われて追い出された。お世話になったのに、裏切るような形になって申し訳ない気持ちになった。
翌日には二、三日暮らせるだけの荷物を持ちトモヤの新居に転がり込んだ。
近くの居酒屋でバイトの面接を受け、新しく所属する劇団に挨拶にいき、歯ブラシを買い洗面所に挿した。
わたしの家にある冷蔵庫や家具を、これから同棲をはじめるというトモヤの友だちが引き取ってくれることになり、ベッドと衣類をついでに軽トラでこちらへ運んでくれることになった。
ときどき自分の家に帰り、少しずつ運べるものを運んだ。
その間ずっと美濃くんからのLINEと着信が止まらなかった。
――なんで辞めたの? とりあえず電話出てよ
黙ってコンビニを辞めたことを怒っているようだった。一日に数回だった美濃くんからの着信は日を追うごとに増え、ひどいときは一日に58回鳴った。
――何かあったの? 心配です。もうなんでもいいから、元気かどうかだけ教えてください
急に弱気な文面が送られてきて涙がでた。
――東京行くんだね。会えなくてもいいから、声だけでも聞きたいです。お願いします
口止めしていたコンビニの店長が話したのだろう。懇願するような美濃くんからのLINEを既読にしたまま、わたしは部屋の荷物を全て出した。
不動産屋に鍵を返却するのが朝早い約束だったので、前の日の夜、なんにもない自分の家に戻った。断ったけれどしつこいのでトモヤも連れて、もうすでに懐かしい場所になってしまった自分の家に、コンビニで晩御飯とつまみとビールを買い向かった。
このまま美濃くんとは自然消滅できればいい。
夢みたいだったと遠い出来事にして、胸の中にずっとしまっておきたい。
そうすれば、美濃くんを好きな気持ちを淡い思い出として閉じ込められる。
いつも美濃くんに送ってもらっていたのとは逆の方向からアパートを目指し、鉄の錆びた階段が見えたとき、集合ポストの前で座り込む人影が目にはいる。
暗闇の中、帰りの遅い親を待つ小学生みたいに、小さくからだを丸めて座り込んでいたのは美濃くんだった。
「ああ……」
わたしが声を漏らすと、全てを察したかのようにトモヤが「鍵」と言ってわたしの手から鍵を奪って先に行く。
一緒に働いていたところとは別のコンビニで買った白い袋を手に提げたトモヤが、集合ポストの前を通りすぎ、階段を登ってわたしの部屋の鍵を開け中に入るのを、美濃くんは立ちあがって見届けた。
「そういうことだったんだ」見たことのない怒った顔の美濃くん。
近づいて、「違うの」といいかけてわたしはやめる。
本当に好きなのは美濃くんなのに、夢を追うために好きでもない男と駆け落ちのような形で東京に出て暮らすことを、何時間かけて話したってわかってもらえるわけがない。ロミオとジュリエットがそれぞれ自殺した経緯を話しても、共感してもらえないだろうと思った時みたいに。
「美濃くんの」
視線をあげ美濃くんの目を見てまばたきをひとつすると、涙がすっと頬を伝った。
「家族に生まれたかったな」
たとえばお母さんになって美濃くんにお腹いっぱいご飯を食べさせたかったし、妹や弟になってお風呂で髪を洗って欲しかった。
まばたきをするたびに頬を次々に涙がこぼれる。同じルートをたどって頬を流れ落ちていく涙は温かくて、演技ではない本当の涙は体温と同じなのだと気づく。どうしてわたしは美濃くんから離れようとしているのだろう。美濃くんと別れる理由を見失いそうになる。
「意味わかんねぇよ」
わたしをにらみつけていた美濃くんの瞳がみるみる潤んでいく。
「美濃くん」
好きだよ。
本当は。
「美濃くん……」
とても、とても、大好き。
「なに」
にらむのをやめた美濃くんの目から、頬を伝いもせずに大粒の涙が落ちる。
「いままでありがとう」
美濃くんが笑おうとして、でもうまく笑えなくて、口を歪めて鼻をすする。
「ちょっと待って、マジでおれ、無理なんだけど」
手の甲で涙を拭いながら駄々をこねる子供みたいに美濃くんが言って、抱き締めたくなってさらに一歩近づいたとき、「奈津美ぃ」と階段の上からトモヤの声が聞こえた。
美濃くんがトモヤをちらりと見上げて、それからわたしをみて、ふう、と息を吐いてから黙って背中を見せる。
いかないで。
止める権利なんかわたしにはない。
でも、いかないで。
もっと駄々をこねて。地べたで寝そべって、いやだいやだと訴えて。大人にならないで。ずっと一緒にいたいと泣いて。
うなだれて歩く肩が震えている。手のひらで顔をぬぐう仕草。
心がちぎれそうに痛い。
夢なんか持たずに平凡を求める普通のわたしと美濃くんだったら、うまくいったんじゃないか。離れなくても良かったんじゃないか。
考えたって仕方のないもうひとつの未来があったのかもしれないと、小さく遠くなっていく美濃くんの背中を見送りながらわたしは思った。
見上げるともうトモヤの姿はない。ゆっくりと現実に引き戻されるようにアパートの階段を登る。
玄関を開けると中途半端に靴を履いたままのトモヤが立ったまま壁にもたれて待っていた。
「どいて」
トモヤを押し退けて、なんにもなくなったがらんどうの部屋に入る。
膝から崩れ落ちるようにざらついた冷たい床へ座りこみ、ベッドを置いていた場所をみた。
はじめて美濃くんがわたしの乳房を味見するように舐めたとき、美濃くんが見せた子供と大人の狭間の顔を、わたしは一生忘れないだろう。美濃くんはきっと素敵な大人になる。そして誰かの恋人になり、誰かの夫になり、絵にかいたような良い父親に、美濃くんはきっとなる。
「彼氏いたんだ」
トモヤが背後で台所の白熱灯を付け、さっき買ってきたコンビニの袋をあさり、ガサゴソと音をたてる。
「彼氏じゃないよ」
「じゃあなんで泣いてたの」
思い出したように美濃くんにもらった首もとのネックレスに触れる。
「好きな人だからだよ」
「ふーん…………いいの?」
「いいわけないでしょ!」
「どうすんの」
「……どうしようもないよ」
振り返り、トモヤが包装をむきおわって手に持っていたシーチキンのおにぎりを奪い、わたしはそれにかぶりつく。乾いた海苔の破れる音がする。
「どうしようもないことって……あるよな」
トモヤが静かに言う。
わたしは答えずにおにぎりを口に押し込む。頭の中で何度も練習したのに、一度も呼ぶことのなかった美濃くんの、下の名前を思い出す。
止まっていた涙がまた急に溢れだして、海苔がのどに詰まって咳き込み、米つぶが口から飛び出して床に落ちる。
トモヤがわたしの背中をさすり、手のひらの温かさが上下する。
咀嚼しかけたおにぎりが口のなかに残ったまま、わたしは噛むことをやめて、天井を向いてわーわーと声をあげ、子供みたいにいつまでも泣いた。
了
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