〈小説〉110を

 

ひどく敏感な時期だったんです。そういったことに関して。
だから余計に。

私と同じように一人暮らししている友人が、ストーカー被害にあって。
彼女は結局田舎に帰りましたよ。あの時だって、警察は何もしてくれなかった。
そうですよ。私は現場にいましたから。あの時。
彼女が家に帰ると必ず電話がかかってくるんです。ええ、いつも同じ男。
どこかから見張ってるんでしょうね。「今日は遅かったね」とか、「一緒にいた男は誰?」とか、「短いスカートはよしてくれ」とか。吐くのはそういう台詞です、いつも。
ええ。だって私、彼女の代わりに電話に出たことがありますから。……ああ、もう思い出すだけで吐き気がする。
彼女精神科に通ったんです。安定剤をもらって。
そう、あの日も病院の帰りでした。病院に付き添って、彼女の家まで送ったんです。
そしたらコンドームが。精液の入ったコンドームが、ドアノブに。
お水を、頂いてもよろしいですか?

——続けますね。
こんな風に、無理やりに、ドアノブにひっかけてあったんです。わかります?
本物ですよ。あんなもの、どうやって偽物を?あのドロドロとした嫌味な粘り気が他の液体で出せますか?すぐに警察を呼びましたよ。十分ほど待ったように記憶しています。
何にもしてくれませんよ、ええ、そりゃコンドームの処理はしてくださいましたけど。そんなこと、当り前でしょう。
「この辺りでは最近こういった悪戯が増えています。見回りを増やすようにしますが、まぁしばらくは、あまり夜遅くに外出しないなど自衛策を取ってください」ですって。
ここに証拠があるのに?精液ですよ、こんなもの、調べればすぐに犯人を見つけられるじゃないですか!……って、私怒鳴りました。
なのに。「現場を押さえないことには」って、なんですか?警察は。怠慢もいいところですよ。


***


駅前に店を構える不動産賃貸仲介業店舗の入り口で、ウィンドウに張られた物件情報を眺めている女に先に気付いたのは、営業部長の三井だった。向かいのビルが全面ガラス張りのせいで、特定の時間だけ西日の反射が店の正面玄関に直撃する。今がまさにその時刻で、肩まである髪を首筋の汗を拭いながら時折後ろへ跳ね上げるしぐさと、女の柔らかであろう素材のスカートの裾位置までは確かめられるものの、西日の眩しさでその面相まで正視することが出来ない。
三井はこれから案内する物件の詳細をコピーした用紙を、客用のバインダーに挟む。
ボールペンを探しながら店内を見回すと、遅れて昼食をとった与那覇(よなは)がスタッフルームから出てくる姿が見えた。
「与那覇!」
自分のデスクに向かいかけた与那覇に三井は呼びかける。
与那覇は「はい」と切れの良い返事をしながら三井の方へ歩む向きを変える。三井はバインダーを持ったまま、前方から襲う障害物をゆっくりとよけるようなしぐさでウィンドウに張られた物件の間取り図を隅々まで食い入るように眺める女のほうを、顎で指す。与那覇はすぐにそれに気づき、歩調を速めて玄関へ向かった。
「よかったら中へどうぞ。涼しいですよ」
冷えすぎた店内に、焼けて蒸された生ぬるい空気が流れ込む。

女は自分の名前を〈オガワ〉と顧客リストに書き記した。
おそらく漢字は〈小川 〉で間違いないだろうと与那覇は思うが、契約が整うまでは細かい個人情報は伏せられて当然というのがこの業界での暗黙の了解。
事実冷やかしで来る客のほとんどは偽名もしくは偽の住所や電話番号を書き、思いがけず良い部屋に巡り合い契約の段になって急に本当の名前や住所を暴露する客も少なくない。
「安心して暮らしたいんです。急いでいるわけではありませんが」
オガワが顧客リストの情報欄を書き終え、ゆっくりと視線を上げながら言った。
与那覇は自分の名を名乗りながらオガワに名刺を渡し、正面に座るオガワが書き終えたリストの向きを逆さにし、項目を上から確認する。
「じゃ、やっぱりオートロックですよね」
家賃は十万まで。保証金・礼金は五十万までの予算。
一人暮らしで動物は飼っていない。
店舗近くの駅を含む三駅を最寄り駅とし、駅からの距離は徒歩二十分までが希望。
「部屋は必ず二つじゃないとだめですか?」
「広ければ、ワンルームでも」
オガワは冷たい麦茶を運んできた女子社員に軽く会釈し、風鈴のような丸みの冷えたグラスに手を伸ばす。
グラスを持つ指は白く、ベージュピンクのネイルは桜の花びらを連想させる。
指先から二の腕まで、無駄な体毛は完璧に処理してあり、サテン素材のワンピースはジャケットと対のセットで、二の腕が見え隠れするフレア袖はまだしも、ジャケットの胸元にあしらわれたフリルはオガワの容姿から察する年齢には不釣り合いなようにも思えた。
記入してある通りの生年月日であれば与那覇と同じ年ということになるが、少なくとも五つはサバをよんでいると与那覇は確信している。
「探してみますね」
与那覇は言い、カウンターに置かれたパソコンで物件を検索し始める。
三井が年配の夫婦を連れて物件案内に出るため、玄関先で「行ってまいります」と威勢よく叫び、与那覇はモニターを見たまま素っ気なくそれに答えた。



***


初めから、おかしな気がしていたんです。
不動産屋で、車で案内する時に助手席に載せますか?普通。じゃあタクシーで、一人しか乗らないのに助手席に案内されたら?
『前のほうが涼しいから、助手席に乗りますか?』そう言ったんです。
そんなわけないでしょう。後部座席に座りましたよ。
暑くなんかありません。運転席の横の小さな吹き出し口から出る冷気で十分でしたよ。ね、おかしいでしょう。
それであの男は、自分は沖縄出身だから熱さに慣れていると思われがちだがそうでもないんですよ、とか言って。あのなまり。聞けばすぐにわかりましたよ。昔同期に沖縄出身の子がいましたから。
額から汗が垂れていました。
汚らしい。
案内されたのは二件です。今思えば初めからあの部屋を、私に勧めるつもりだったのでしょう。もう陽が傾いていましたから、時間的にも計ったように、あの部屋を案内したんです。あの男は。
一件目は、酷かった。ベランダを開けると正面に墓地がありました。五階とはいえ嫌ですよ。目の前がお墓だなんて、案内する前に説明すべきでしょう。部屋は確かに家賃の割には広く、管理体制も整っていました。かなり新しい建物でしたし、何よりワンルームでエアコンと浴室乾燥と床暖房という設備は魅力的でしたよ。でもお墓でしょう。
却下ですよ。あて馬だったんでしょうね。引っかかってしまった私も馬鹿でした。


***


急いだ方がいい、と与那覇は思った。
オガワを乗せて走る白い社用車のボンネットに当たる西日が眩しくて運転がしにくかった行きとは違い、フロントウィンドウ上のサンバイザーを畳んで直しても、しっかり両目を開けられるほど陽が傾き始めていたからだ。
二件目の物件まではそう遠くなかった。
マンション横の一方通行の路肩に社用車を停車させ、与那覇はオガワの前を歩き正面玄関へ回り込む。
シリンダー錠でオートロックを解除し、非常階段の場所を案内したのちエレベーターで三階にある部屋に案内する。
「ここの大家さんとは付き合いが長いんですけど、すごく良いおじさんなんですよ」
エレベーターが上昇する間の数秒の沈黙を埋めようと与那覇は話しかけたが、オガワはコンクリートの壁とフロアが交互に流れていく防犯窓の黒い網目を、黙ったままなぞるように見ている。
鍵を開け、先に中に入った与那覇が玄関で紙袋の中からスリッパを二足出す。
ブレーカーを上げ、オガワにどうぞと促し、室内に入った与那覇が明りを灯す電灯器具を探すが、キッチンの蛍光灯くらいしか見当たらない。
オガワが与那覇の後に続いて部屋に上がり、「さっきより狭い」とつぶやくが灯りを探す与那覇には聞こえていない。

入ってすぐ左側にある洗面所の奥の、風呂とトイレは別で、右手のキッチンは三畳ほど。リビングとキッチンの間に格子状の木枠に擦れたガラスがはめ込まれた扉があり、リビングは間取り図に書かれていた八畳よりも広く感じるものの、先ほど見た物件の十二畳あるリビングに比べれば狭いものだった。
東に面したベランダからは陽が傾いた今、ほとんど光が入らない。薄暗い部屋に明りを灯すため与那覇はキッチンの蛍光灯の紐を引いた。コチ、と音がし蛍光灯の白い光で部屋が少し明るくなる。
「設備はさっきの方が断然良いですね。でもここは駅から近いんですよ」
「ベランダに出ても良いですか?」
オガワが言い、ベランダに出るガラス戸を開けようとする。
「ロックがですね」言いながら与那覇がオガワに歩み寄り、ロックを解除しガラス戸を開け自分の履くスリッパを外へ出そうとしたが、オガワはそれを無視し裸足のままベランダへ出た。
風が吹く。
オガワのスカートがヒラリと舞い、白く肉付きのよい太股に与那覇の視線は吸い寄せられる。オガワが振り返り与那覇は不自然に笑みを浮かべる。

「さっきおっしゃったように、風呂とトイレが別というのはやっぱり魅力ですよ」
オガワが部屋に戻り与那覇がベランダの鍵を固くロックしながら言った。
風呂の扉を開ける。スイッチを探り手当たり次第にオンにしてみると風呂場の中の電灯が点いた。
「浴槽結構広いですね、僕んちのよりサイズ大きいんじゃないかなぁ。頑張れば二人で入れそうですね」
与那覇が笑いながら言い、オガワは一歩下がったところから覗き込むように風呂の方を見ていた。
風呂場の電灯をつけたまま向かいのトイレの扉を開ける。
「あ!すごい!ウォシュレットついてます、オガワさん!」
言いながら振り返り、与那覇は目を見開いた。動悸がした。
驚いたのはウォシュレットに対してではない。
オガワがいつの間にかジャケットを脱ぎ、サテン地のキャミソールワンピースの深く切り込んだ胸元には薄明かりでもはっきりと、豊満な胸の谷間が見えたからだ。与那覇は慌てて眼を反らす。扉のノブから手を離し、後ずさろうとするより先にオガワが、「本当ですか」と言いながらノブを握る与那覇の腕に手を掛けた。じっとりと湿ったオガワの手は、与那覇の腕から手の甲へゆっくりと降りる。ノブに重なる二人の手はまるでそれを求め合っていたかのように固く結ばれて、与那覇が指を折りこぶしを作った合図で解き放たれる。
自分の胸板の前にするりと体を滑らせたオガワの裸体にも近い胸元を見降ろす与那覇には、サテン地を通して彼女の胸にくっきりと浮かび上がる二つの小さな突起が何であるかは容易に想像がついた。
下着を纏っていないオガワの体から、麝香(ムスク)の香りが漂う。
与那覇は息を止める。
トイレの天井を見上げ、自分の体が反応しそうになるのを必死でこらえ気を反らすためにイメージしたのは、島人(しまんちゅ)を深い懐で迎えてくれる故郷の、ハイビスカスの鮮やかな赤。澄んだ海の青。


***


それから何度もあの男を、私の家の周りで見かけました。
初めは偶然かと思ったんです。
私の住むマンションの大家とは仲が良いのだと言ってましたから。
でも違ったんです。あの男は会社帰りにも、休みの日にも、私の家の周りに現れました。わかりますよそれくらい。だって、スーツを着た日と普段着の日がありましたから。大家と仲が良いのをいいことに、きっと私の部屋に侵入する機会を伺っていたんでしょう。
不動産屋ですから、鍵なんて簡単に手に入るでしょう?馬鹿にしないでください。頻繁に見かけたくらいで追いかけられていると妄想するほど私だって暇じゃありません。
確信したのはあの男が、私の部屋のポストを覗き込んでいたからです。覗いてただけじゃありません。長い針金か何かで、中の郵便物を盗もうとしていたんです!
驚きました。友人が被害にあったのと、まったく同じ手口でしたから。
友人も同じように、ポストから明細書を盗まれて、携帯電話の電話番号を知られてしまったんです。自分なりに、策を練って予防線を張ったつもりでしたが、甘かったのでしょう。
ええ、間違いありません。
現場を見ましたから。すぐに警察を呼んだってきっと間に合わない。そう思って私、携帯のカメラでその姿を撮ったんです。何枚も、何枚も。シャッター音が聞こえてしまわないかドキドキしながら。

……いえ、もう削除しました。だって。
私の携帯、新しくて。画素数がすごいんです。だからその分、ブレる。
ボタンを押しても、シャッターが切れるのは数秒立ってから。画像が綺麗なだけに、少しの手ぶれでも許してくれません。
震えていたせいもあります。
私の手が。


***


その日のうちに、オガワは契約をした。
本名は小川依子(オガワヨリコ)。年齢は与那覇の推測通り、八つもサバをよんでいた。
後日、本契約を交わすために店舗に小川が訪れた日、与那覇は休日だったので三井が代わりに事務処理をした。小川の住むマンションは、与那覇が自宅から勤務先や駅へ向かうため必ず通るルート上にあった。与那覇はそれについて特に意識はしていない。店舗の近くに住むということには、その周辺の生活環境をより詳しく知ることで客への案内に説得力がつく利点があった。与那覇の自宅付近の賃貸物件を契約した客は小川以外にも沢山いる。
小川のマンションで、不審なことが起こっていると聞いたのは別の件で与那覇が小川の住むマンションの大家に電話をした時だった。
「どうやらねぇ、お宅で仲介してもらった小川って人のポストらしいんですよ」
「警察へは?」与那覇は尋ねた。
「いや、それがさ、うん……なんていうのかねぇ、他の住人から言わせると、飼っているらしい」
「飼っている?ポストの中で、ですか?」
「いやワタシもね、最初は小川さんも被害者だと思ったんだよ。ここは女性の住人が多いから。嫌がらせでポストに虫をいれられて。そう思ってましたよ。それがどうも違う。ポストの中で虫を、カサカサと動く虫を、飼っているらしい」
 
与那覇は別の物件の契約手続きの帰り道、小川のマンションに立ち寄った。マンションの玄関横の集合ポストは銀色の金属でできたロッカー風のつくりで、それぞれ上部に郵便物を入れる小窓がついている。名前を表示している住人はちらほらで、小川の部屋番号のポストは名前が書かれていない。だがそこが小川の部屋であることはこの部屋に案内した与那覇自身はもちろん知っている。管理人は不在のようだ。不審に思われてはいけないのであたりを見回す。もしも、住人に出くわしたら不動産屋であることを明かせばいい。ポストの虫の一件で、苦情が出たと大家さんから聞きましたと告白すればいい。自分に言い聞かせ、湧いてくる罪悪感をねじ伏せた。
店にあったクリップを数個結合し、自作した不細工な形の針金をカバンから取り出す。
小川のポストの小窓へ、針金をそっと刺し込む。
すぐに封筒らしき郵便物の感触を得る。針金を持つ指の本数を減らし、もう少し奥まで入れると底の部分に針金が当たった。そのままゆっくりと左右に移動させる。なにか小さな粒に当たるような感触があるものの、想像していた蜘蛛やムカデの類の虫は入ってなさそうだ。与那覇は首をひねりながら針金を引き抜く。途中で与那覇の手が止まる。どうやら宛名部分がセロファンになっている封筒のつなぎ目に、針金の結合部分に引っかかってしまったようだ。
しまった、と与那覇は思う。
いったん周りを見渡す。
封筒の、見えている角をつまみ、針金と一緒に引きあげてみる。小川依子様と書いてある封筒はどうやら役所からの何かの通知らしい。針金を微妙に揺さぶると封筒と針金が離れた。与那覇は安心し、つまんでいた封筒から手を離す。その瞬間封筒にこびりついていた米粒のようなものが目に入る。と同時に針金に着いていた白い粒の一つが地面に落ちた。
与那覇は身をかがめる。地面に片手と片膝をつき、落ちた粒に目を凝らす。
蛆虫(ウジムシ)だ。
与那覇は慌てて体を起こす。走ってもいないのに息が切れる。蛆虫を靴のつま先でマンションの外まで掃き出し針金を道路の隅に捨て、カバンを持つと逃げるようにマンションを後にする。
早足で進みながら、ひざや、腹や、腕や襟元を叩く。後頭部や、頭頂部の毛髪を掻きむしる。針金から伝わった感触は、間違いなく小川のポストの底に蛆虫が潜んでいる証。いくら払い落そうと体を叩いても脳裏に浮かんだおぞましいイメージは払拭できない。
与那覇は走る。
走っても走っても、とてつもなく嫌な予感が与那覇を追いかけた。


***


ええ、おっしゃる通り、私の携帯の番号は賃貸の契約の際に記入しましたから、あらかじめ知っているはずです。じゃあなぜそんなことをしたかって?そんなことこっちが聞きたい。とにかく私のプライベートが知りたかったんでしょう。郵便物を盗んででも!
……お水を飲みたいのですが。
なぜ駄目なんですか。水くらい良いじゃないですか。けち。
だからあれは自衛策ですよ。自衛策。
さっきから何度も言っているでしょう!
当然です。
あなた方を含めた警察が、そう言ったじゃないですか。
自衛策を、と。
私はだからあの男が、一瞬にして私を嫌う良い方法を思いついたんです。
ふふ……あれはそう、私の、心のこもった贈り物です。
ねぇ、お兄さんは誰かに贈り物をするとき、何を思います?
私はね、受け取った時の相手の顔を想像してたまらなく興奮します。
あの男に、素敵な贈り物をしてやったんです。
ちょうどあの雑木林に良い物を隠していましたから。
あれですか?あれはゴミです。
腐りかけていましたけど、十分に使えましたよ。
せっかくだから綺麗にデコレーションして、見栄えが良いように箱に納めました。
だって。
強烈なインパクトがないと意味がありませんから。
この私に二度と興味を持たぬよう、とどめを刺すために。
あの男が驚き、悲鳴をあげて今までの、一部始終を後悔する姿を想像しました。
ええ、……ふふ……あははは!……愉快でしたよ、それはもう。



***


数日後、与那覇の店に宅急便が届いた。
年に数回は、お礼の品を持ってくる客もいる。宅急便で送ってくるパターンは珍しいが、見覚えのある小川の名前で送られてきた荷物を三井は何の疑いもなく受け取り、お届け先の欄に名前が書かれていた与那覇のデスクに置いた。
その日は客の出入りが激しく荷物に与那覇が気付いたのは閉店作業をしている時だった。
「お前に荷物届いてるぞ」
三井が言い、与那覇はファイルの整理をしながら荷物の依頼主の欄を見る。
その名前に数日前の恐怖がよみがえる。
思い返せば気味が悪いと思ったのはもっと初めの頃だった。
安心して暮らしたい、と与那覇を上目使いで見たときの目。
助手席に乗り込もうと車のドアにかけた手。
バックミラー越しに感じた視線。
そして何よりも、ドアノブを握る手を掴んできたあの強さ。
与那覇に胸を押しつけ、半開きの口から漏らした吐息。
「与那覇さん、開けないんですか?」
唯一の女子社員である安部が固まったまま箱を見る与那覇に声をかける。
「あ……あぁ」
「お菓子だったらおすそ分けしてくださいよぉ。こういうの、久しぶりですね。中身、なんでしょう」
安部が嬉しそうに言う。与那覇は手に持ったファイルを引き出しに戻すためデスクを離れる。与那覇の後輩の佐々木が安部と一緒になって箱の中身を予想する。
「このサイズだと、茶っ葉か海苔じゃないっすか?……ん、重いな」
「わかった!ハムだ!違う?」
「あー、その線アリかも」
「でしょ?」
 楽しそうな二人を見て奥のデスクから三井が、「与那覇宛てだぞ、おまえら」と忠告し、安部と佐々木は舌を出して残った雑用をすませるため散らばった。

ファイルを戻し終えた与那覇はデスクに戻り箱をもう一度見つめる。
小さめの段ボール箱。確かに中元や歳暮のボンレスハムが横に三つ並んで丁度くらいの大きさだ。重さからも概ねそれが適当だと思われる。
与那覇はペン立てからハサミを取り、中央のガムテープに切り込みを入れる。
緊張しながらそっと開ける。
中にまた、箱。
一呼吸置く。
今度は包み紙で頑丈に包装されている。
ベージュピンクの包み紙。小川の爪の色。
箱を持ち上げ、包装紙を剥がす。
初めは丁寧に、徐々に苛だち雑になる。
そして箱。
ざらざらした素材の、白。
茶色い液体が擦れて着いたような跡。
与那覇は箱を胸に抱え、蓋に手を掛ける。
脳裏によぎったのは蛆虫。
「何が入ってましたー?」言いながら安倍が与那覇のデスクに歩み寄る。
「…………ぎゃあぁぁーーー!!」
店の外の通行人が一斉にこちらを見るほどの悲鳴を上げた安倍が、狂ったように逃げ惑う。
与那覇の足元が見えない佐々木は何が起こったのかまだ理解できない。
三井は「どうした!」と与那覇の元にかけよる。
110番を、と与那覇は言いたい。
だが与那覇はすでに腰を抜かし、僅かに痙攣を起こしながら目を白黒させ意識を失おうとしていた。自分が床に投げ捨てた箱の中から乱暴に散らばった赤黒い欠片が、何の屍の肉片であるかを確認するよりも前に。










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