文体の舵を取(り終わ)った③

 文体の舵を取り終わった。4章は参加できなかったものの、それ以外の課題についてはなんとかやり終えることができた。
 (ほぼ)完走した感想(RTA動画以外でこの言葉を使うことになるとは思わなかった)は別の記事で書こうと思っている。

以下に残りの章(第8章~第10章)まで置いておく。​

第8章 視点人物の切り替え

問1(チェスの設定はテキトーです)

 ヤオがその決断をしたのは、盤面がミドル・ゲームに差し掛かったころだった。
 最初の一手はd4を選択し、黒がd5と受けたのでc4と指した。
 クイーンズ・ギャンビットの形だ。
 いくつかの激しい展開を除けば、この定石は穏やかに進んでいく。なるべく早死にはしたくなかったヤオにとって、うってつけだった。いくつかの激しい展開、というところも、まさかこんな交流イベントで相手が差してくるとは思えなかった。
 そんな予想が何故立ったかといえば、相手が世界チャンピオンだったからだ。しかも形式は三十人対一人の多面指しで、TVクルーも入っていた。
 ヤオの思惑は確かに当たっていた。盤面は双方穏やかに進んだ。
 そしてヤオはもう一つ用意していた手を使うことにした。
 ————Qxd7、相手の女王《クイーン》とこちらの女王《クイーン》の交換《エクスチェンジ》

 盤面の様子が明らかに変わったのはその手からだった。黒番がクイーンズ・ギャンビットの展開に選んだのは様子見を意図する定石で、そろそろ攻めるべき局面だったが、そこで白の指してきた手はチャンピオンにとってもあまり経験したことのない珍しい手だった。なぜ珍しいかと言えば、それは「無価値」な手だったからだ。形勢に優劣の変化を与えない、単純に同じ価値の駒を交換するだけの手。最初はチャンピオンにも狙いがピンときていなかった。
 狙いに気づいたのは、それからすぐの手。今度は騎士《ナイト》同士の交換だった。またもや無価値な手だった。
 「そうか、きみの狙いは……」
 チャンピオンはヤオに聞こえないくらいの小声で呟いた。

 盤面は終局に差し掛かろうとしていた。分かっていたことだが、やはりチャンピオンというのは並大抵ではない。ヤオの前へ美術館の絵でも流し見るかのような足どりで現れ、ふらりと立ち止まったかと思えば、盤面を一瞥してノータイムで指す。三十人だった参加者たちはエンド・ゲームまで持たずに次々と負かされていった。そうしてヤオともう一人だけが残った。彼がこうして残れたのは相手が分かった上で誘いに乗ってくれたからだ。だがそれも終わりに近い。ヤオとチャンピオンの駒数は同数、種類も同じ。だが、その配置が決定的に異なっていた。白の歩兵《ポーン》はチェーンのように斜めに結びついて三角形を象り、その頂点は刃物のように黒の陣形を真ん中から切り裂いていた。それはもう何をしても挽回できない形勢で、ヤオはとうとうリザインした。

 ヤオは最後の一人として残ることはできなかった。最後に残ったプレーヤーは、チャンピオンのサインが入った携帯用の折り畳みチェスセットを貰っていた。旅行用のトランクみたいな形をした、真ん中に蝶番があるタイプのものだった。数時間も頭を使い続けたヤオは疲れ果てて、足早に帰宅した。
 それから一週間ほどして、ヤオの家に一つの小包が届いた。中には折り畳みのチェスセットが入っていた。チャンピオンのサイン入りで。驚いたヤオが盤を開いてみると、中には手紙が入っていた。
 
 「ヤオへ
 先日きみが見せてくれたディフェンスは実に素晴らしいものだった。
 きみには才能がある。これからもチェスを続けてほしい。
 しかしながら、どうしても気になる点があったので、こうして一筆書かせてもらった。
 あの時のきみの狙いは『勝ちを捨てて引き分けを目指す』ことだったね?
 確かにそれはある一面で見れば正しかった。圧倒的な力の差がある相手に対しての駒交換は、駒の価値がそもそも同価値ではないから、逆にきみにとって利益となるのは確かにそうだし、きみが読まなければいけない手筋も減る。
 だがこれは実にもったいない。ここまで指せるのであれば、もう少し勝ちを貪欲に狙っても良かったと思う。もし劣勢になっても、きみの引き分け《ステイルメイト》の才能があれば、いいところまではもっていけるだろう。
 経験を積めば、君はきっとGM《グランド・マスター》になれる。
 世界チャンピオンになれるかは分からないけどね」

問2

 土から飛び出している木の杭を、そばに置いてある槌で釘を打つように三回叩く。そうすると願いを聞いてもらえる。ただし絶対に杭を抜いてはいけない。それがこの村に伝わる神頼みの方法だった。謂れは良くわからなかったが、母がスィリーにそう教えた様に、スィリーもデッカーにそう教えた。ふんふんと話を聞いたデッカーは、もちろん真正面から信じていたわけではなかったけど、ときおり墓場の方からコーン、コーン、コーンという音が聞こえるたびにその話を思い出していた。
 デッカーは村の門番で、訪れる人間を誰何するのが仕事だった。村の門を叩く多くの人間は商人で、外の話をよく彼に聞かせた。都市に行くだけで数週間かかるこの村では、ほぼすべての人間がその一生を村内で全うする。それにほとほと嫌気がさしていたデッカーは、いつか絶対にこの村を出てやると決意していた。
 しかし彼女にはそのためにどうすればいいのか見当もつかなかった。だから墓場で杭を打つことにした。それ以外にやり方を知らなかった。
 土饅頭と簡素な石板が並ぶ墓場の一角に杭はあった。近くに槌も置いてある。
 ずしりと重い槌を拾って、ちょうどデッカーの胸の高さくらいに突き出ている杭を打つ。
 コーン、コーン、コーン
 振動が杭を伝わって、地中の奥深くへと伝わっていく。そして、杭に貫かれた棺の中で、彼が目を覚ました。
 また願い事か。ヴィーロンは起きてすぐにそう思った。ここに埋められてから、一体どのくらいの年月が経ってしまったのかもう分からない。大昔に、ある村民の問いかけに気まぐれで答えたら、いつの間にか神様か何かと勘違いされてしまったらしい。頭の中に声を直接送ってしまったのがまずかったかもしれない。諦めたようにため息をつき、地上の声を聴く。
 ――村の外に出たいです。
 若い女の声だった。途端に血の渇きが襲ってくる。もう何年も血を飲んでいない。この忌々しい杭さえなければ……
 ――村の外に出たいです。
 渇きに耐えられなくなる。ヴィーロンはデッカーの頭に直接、囁いた。この杭を抜けば、お前の願いは叶う。
 どこからか急に聞こえた声にデッカーは心底驚いて尻もちをついた。本当の話だったの、と震える声で呟きながら、同時に考えた。願いを聞いてもらえるというのも本当ではないだろうか?
 しかし母の言葉が頭をよぎる。杭を抜いてはいけない。声が聞こえる。杭を抜け。
 杭を抜いてはいけない。杭を抜け。杭を抜いてはいけない。杭を抜け。
 杭を抜いてはいけない。杭を抜け。

 デッカーはよたよたと立ち上がり、墓場を出る。誰か人を探さなければ。
 一人ではあの杭を抜けない。

第9章 直接言わない語り

問1

A:汎銀河住民登録番号は?
B:00148665454152だ。
A:001番台か、久しぶりに見た番号だ。職業は?
B:番号を見りゃ分かるだろ、わざわざ聞くんじゃねぇよ。
A:こちらも仕事なんでね。職業は?
B:……<占星的宇宙航海術師>だよ。
A:とっくに無くなった仕事だと思っていたんだがね、どうだい首尾は。
B:半径10光年以内じゃ、もう俺しかこの仕事をしてねえけどよ、たまに物好きや占い師と勘違いした奴からの依頼が来る程度さ。早く通してくれ。
A:なるほど。まあもう少し待て。何日間滞在するつもりだ?
B:7日だ。
A:地球単位日でか?こっちの日単位で言ってくれ。
B:……28日だ。
A:今回の依頼者はどこの地域の人間だ?
B:そんなことまで言わなきゃいけないのか?
A:最近大統領が変わったばっかりでな、まだ反対派の動きが落ち着いていないから警戒レベルが高いんだよ。
B:ああ、あの「お姫様」か。
A:そうさ。もう割に合わねえのは分かりきってるのにハビタブルゾーンの外へ調査船を出そうとしていやがるんだ。俺らの税金をなんだと思っていやがるんだ……おっと失礼。依頼者は?
B:……首都の人間だが俺も細かくは知らねえ。それなりに金のある女みてえだ。
A:そいつの番号はあるか?
B:ああ。
A:……3区の人間か。目立った賞罰や政治活動も無し、と。
B:なあ、もういいだろ。
A:分かった、もう良いだろう。通れ。
B:クソッ、待たせやがって……おいアンタ、大統領に会うことがあったら文句を言っといてくれ、税金は入管の人員補充に使えってな。
A:……アンタの方が大統領に会う確率は高いかもな。
B:は?なんでだ?
A:大統領は星占いがお好き、らしいからな。

問2

 白杖を手に取って、いつもの時間に家を出て、闇の中でラナはカッ、カッ、カッと三回舌を鳴らした。
彼女を中心に三つの波が立って、同心円状に広がっていく。やがて波たちは空間に満ち、何かに当たった波はその響きを変えてラナの元へ帰っていく。
「コンクリート、木、金属」
ラナはそう呟いて、いつもの道にいつもの物があることを確認していった。
十五分ほど歩いて、いつもの場所に着く。今度は舌を鳴らさなくても分かる。
濃い潮の匂い、踏みしめた砂の音、カモメの鳴き声、波の音。
「本当に物好きね」
歌うように語りかけてくる女の声。
「まあまあ、そんなこと言わないでよ。もう日課になっちゃったんだから」
そう言ってラナは膝を抱えるようにしてその場に座った。
 少し前まで、ラナは海が苦手だった。舌を鳴らしても波音にかき消されて、何も返ってこない。それはまるで世界に自分一人しかいなくなったみたいで、怖かったのだ。
だから、本当に一人になりたいとき以外、海に来ることはなかった。
「今日は歌わないの?」
でも今は違う。ラナは会いに来ていた。
「あんたに言われなくても歌うわよ、————私は人魚なんだから」
その人魚を名乗る女に。

問3

本人不在で人物描写:
 建物の廊下は、蛍光灯どうしの間隔が少しばかり長いせいで、縞模様のように規則的な薄暗い部分があり、永遠に長く続いているようだった。床や壁面は病院のような白さで、薄暗さと相まって陰気な清潔さを生んでいた。
 30mほど歩いた先のドアを開けると、廊下に比べていやに明るかった。真っ白な明かり、床に散らばった紙、壁際のホワイトボードが奇妙な統一感を与えていた。
 乱雑に散らばった床の紙には走り書きのような字で数式が余白を埋めるようにギッチリと書かれ、一部には内容をかき消すように線が引かれていた。それとは対照的に机の上は整頓されており、紙に書かれた数式は清書されて、ファイリング用の穴が空けられたものもあった。
 ホワイトボードには二人分の筆跡で数式が書かれ、すこしたどたどしさの残る黒い字が、書きなれた様子の赤い字で訂正されていた。
 ドア側の部屋の隅には10リットルのごみ袋が箱にも入れられずそのまま置かれており、同じ見た目のコーヒー缶がこれまたギッチリと詰まっていた。
 ドア以外、唯一外界に通じているはずの窓のサッシには深く埃が積まれていた。


直接触れず出来事描写:
 その夜は、すべてのものが騒(ざわ)めいていた。月のない夜であるのに、狼は天を仰いで仲間に遠吠えし、木々は動くことのない根をむりやり引き抜こうと左右に揺れている。身軽なネズミたちは大挙して森から逃げ、大きな河を形作っていた。星々はいっそう瞬きを強くし、己の輝きを誇示するようにギラギラと妖しく見るものの眼を刺していた。
 近くの村では老婆がなにごとかを喚き、狂ったように笑っていた。村人たちの多くは、荷物をまとめる者、ひたすら祈る者、酒を瓶であおる者、無関心な者に分かれ、まとまりを失っていた。
 村からふたやま超えたところにある町ではいつもの様に夜が訪れて、ある家では赤子を抱えた女性が夫の帰りを待ちわびていた。今日はもうおやすみ、と天窓の下にあるベビーベッドに赤子を優しく置くと、ベッドメリーの動物たちをくるりと回した。釘付けになる赤子を見て微笑む女性はしかし気が付かない。赤子の眼には回る動物たち以外にもう一つ、ひときわ大きく輝く星が映っていることに。

追加課題(①のみ)

「エーレス妃の様子はどうだ」
 ハラス王国にある石造りの巨大な城、その中の小さな部屋に、しわがれた男の声が響いた。
 「恐れながら申し上げます、ジュッサ卿……今日も特に変わった様子はございません、ベッドで寝ておられます」
 ランプを挟んで机の反対側にいた男が答えた。
 ジュッサ卿、と呼ばれた男の年は五十を超えたくらいだろうか、目元の皺や柔和な表情は一見、人好きのする印象を与えるが、瞳は何かを狙うように爛々と光っている。
 「……ジュッサ卿、大変愚かな問であるとは存じますが、なぜ妃様を注視する必要があるのでしょうか、すでに妃様は自由を……いえ、守られているではありませんか」
 ジュッサは少し考える様子を見せたあと、口の端をゆがませるようにして笑った。
 「近頃宮殿に妃を探す者が現れている、という噂はお前も知っているだろう」
 「はい、もし本当だとするなら、厳重な城の警備をどうやって掻い潜っているのか、わかりませんが……」
 「私はその噂が本当だと思っている。場内を探しているのだ、何者かが。何事かの方法を用いて。……お前は別の噂を聞いたことはないか、王妃の噂だ」
 少し考えたあと、男はためらいつつ答えた。
 「『妃様は魔術を使える』というのならば……、しかしこれはジュッサ卿があのとき否定されたではありませんか、魔術を使うなどということは七女神の御心に反するもの、この国の妃ともあろうお方の信仰心を疑うのか、と」
 「いかにも。魔術など汚らわしいエンネディ族の使うものだ、そんなことがあってはならぬ。20年前のあの戦いを知らぬとは言うまい、いったい魔術によって何人ハラスの命が失われたか……」
 大げさに嘆きながらジュッサは、声を潜めて続けた。
 「エンネディ族の魔術には、他人の精神を乗っ取る外法があるのだ。先の東の戦いで空位となったペル王の椅子、それを巡る争いに混ざりこんでいたエンネディ族めが使っていた術だ」
 ここまで聞いて、男は息を飲み込んだ。一つの可能性に気が付いたのだ。
 「——妃様が、その魔術を?」
 ジュッサの口元がさらに歪んで開き、犬歯が姿を見せた。
 「そうだ。妃は場内の者の精神を乗っ取っては城内で動いているのだ、何かを探してな。これならばなぜ城の警備に引っかからぬのか、説明が付く」
 男はたまらず声を荒げた。
 「父上!それでは妃がエンネディ族と内通しているということになるのではありませんか!」
 「城内にいるときは父上と呼ぶな!」
 「……申し訳ありません。しかし、それはあまりにも……」
 「あまりにも、何だ?」
 「あまりにも、我々に好都合ではありませんか」
 「そうだ、だが確証が足りない。だからお前には見つけて欲しいのだ、妃が術を使っているという証拠を。——ここ百年、女王などいなかったのだ、王の椅子に妃が座ることなど有り得ぬ!」
 「——御意に」
 男の眼が爛々と光った——ジュッサと同じように。

第10章 詰め込みと跳躍

(第8章問1を原文に選択 1599字→795字)
 最初の一手はd4を選択し、黒がd5と受けたのでc4と指した。
 クイーンズ・ギャンビットの形だ。
 穏やかに進んでいくこの定石は、早死にはしたくないヤオにとって、うってつけだった。
 ゲームの中盤になって、ヤオは準備していた手を指した。
 相手の女王《クイーン》とこちらの女王《クイーン》の交換《エクスチェンジ》。
 ここまで盤面がヤオの思い通りに進んだのは、相手が現役の世界チャンピオンだったからだ。まさか遥か格下の相手を全力で負かすようなことはしないだろう。ましてや多面差しの状況で。そう考えたのだ。
 白の指してきた手はチャンピオンがあまり見たことのない手だった。形勢に変化を与えない、同じ価値の駒を交換するだけの手。最初は目的が分からなかった。
 狙いに気づいたのは、それからすぐの手。今度は騎士《ナイト》同士の交換だった。
 淀みなく三十の盤面を周遊していたチャンピオンの足はしばし止まっていたが——またすぐに動き出した。

 盤面は終局に差し掛かろうとしていた。チャンピオンはヤオの前へ散歩みたいに現れては、盤面を一瞥してノータイムで指す。三十人だった参加者たちはやがて、ヤオともう一人だけになった。
 ヤオとチャンピオンの駒数は同数、種類も同じ。だが、配置が決定的に異なっていた。黒のポーンはチェーンのように斜めに結びついて三角形を象り、その頂点は刃物のように白の陣形を分断していた。

 結局、ヤオは景品のサイン入りのチェスセットを逃してしまった。
 それから一週間ほどして、ヤオのもとに小包が届いた。中にはサイン入りのチェスセットと手紙が入っていた。
 
「ヤオへ
 きみには引き分け《ステイルメイト》の才能がある。
 あの手を見てすぐに分かった。
 このままチェスを続けてほしい。
 だが一つだけ覚えておいてほしい。勝ちに行く姿勢を忘れてはならない。
 経験を積めば、君はきっとGM《グランド・マスター》になれる。
 世界チャンピオンになれるかは分からないけどね」


<原文(再掲)>
 ヤオがその決断をしたのは、盤面がミドル・ゲームに差し掛かったころだった。
 最初の一手はd4を選択し、黒がd5と受けたのでc4と指した。
 クイーンズ・ギャンビットの形だ。
 いくつかの激しい展開を除けば、この定石は穏やかに進んでいく。なるべく早死にはしたくなかったヤオにとって、うってつけだった。いくつかの激しい展開、というところも、まさかこんな交流イベントで相手が差してくるとは思えなかった。
 そんな予想が何故立ったかといえば、相手が世界チャンピオンだったからだ。しかも形式は三十人対一人の多面指しで、TVクルーも入っていた。
 ヤオの思惑は確かに当たっていた。盤面は双方穏やかに進んだ。
 そしてヤオはもう一つ用意していた手を使うことにした。
 ——Qxd7、相手の女王《クイーン》とこちらの女王《クイーン》の交換《エクスチェンジ》

 盤面の様子が明らかに変わったのはその手からだった。黒番がクイーンズ・ギャンビットの展開に選んだのは様子見を意図する定石で、そろそろ攻めるべき局面だったが、白の指してきた手はチャンピオンにとってもあまり経験したことのない珍しい手だった。なぜ珍しいかと言えば、それは「無価値」な手だったからだ。形勢に優劣の変化を与えない、単純に同じ価値の駒を交換するだけの手。最初はチャンピオンにも狙いがピンときていなかった。
 狙いに気づいたのは、それからすぐの手。今度は騎士《ナイト》同士の交換だった。またもや無価値な手だった。
 「そうか、きみの狙いは……」
 チャンピオンはヤオに聞こえないくらいの小声で呟いた。

 盤面は終局に差し掛かろうとしていた。分かっていたことだが、やはりチャンピオンというのは並大抵ではない。ヤオの前へ美術館の絵でも流し見るかのような足どりで現れ、ふらりと立ち止まったかと思えば、盤面を一瞥してノータイムで指す。三十人だった参加者たちはエンド・ゲームまで持たずに次々と負かされていった。そうしてヤオともう一人だけが残った。彼がこうして残れたのは相手が分かった上で誘いに乗ってくれたからだ。だがそれも終わりに近い。ヤオとチャンピオンの駒数は同数、種類も同じ。だが、その配置が決定的に異なっていた。黒のポーンはチェーンのように斜めに結びついて三角形を象り、その頂点は刃物のように白の陣形を真ん中から切り裂いていた。それはもう何をしても挽回できない形勢で、ヤオはとうとうリザインをした。

 ヤオは最後の一人として残ることはできなかった。最後に残ったプレーヤーは、チャンピオンのサインが入った携帯用の折り畳みチェスセットを貰っていた。旅行用のトランクみたいな形をした、真ん中に蝶番があるタイプのものだった。数時間も頭を使い続けたヤオは疲れ果てて、足早に帰宅した。
 それから一週間ほどして、ヤオの家に一つの小包が届いた。中には折り畳みのチェスセットが入っていた。チャンピオンのサイン入りで。驚いたヤオが盤を開いてみると、中には手紙が入っていた。
 
「ヤオへ
 先日きみが見せてくれたディフェンスは実に素晴らしいものだった。
 きみには才能がある。これからもチェスを続けてほしい。
 しかしながら、どうしても気になる点があったので、こうして一筆書かせてもらった。
 あの時のきみの狙いは『勝ちを捨てて引き分けを目指す』ことだったね?
 確かにそれはある一面で見れば正しかった。圧倒的な力の差がある相手に対しての駒交換は、駒の価値がそもそも同価値ではないから、逆にきみにとって利益となるのは確かにそうだし、きみが読まなければいけない手筋も減る。
 だがこれは実にもったいない。ここまで指せるのであれば、もう少し勝ちを貪欲に狙っても良かったと思う。もし劣勢になっても、きみの引き分け《ステイルメイト》の才能があれば、いいところまではもっていけるだろう。
 経験を積めば、君はきっとGM《グランド・マスター》になれる。
 世界チャンピオンになれるかは分からないけどね」

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