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自己を手段としてではなく、目的として捉えよ

カントの定言命法「他者を手段としてのみならず、目的として捉えよ」は、重大な欠陥を孕んでいる。

それは、この言葉を押し付けられた本人が手段として扱われてしまうことである。

誰かのために何かを行う場面において、それが「〇〇せよ」という定言命法によって押し付けられた道徳だった場合、それは命令として彼の目の前に現れる。命令される行為は、基本的に不愉快なものである。なぜなら、不愉快でないなら命令される必要がないからである。

命令に従うとき、彼は自己を手段として扱っている。彼自身が目的であったなら、命令される不愉快な道徳律など無視されるべきだからだ。しかし、彼は自己をグッと抑え込んで、他者への奉仕を強いられる。それは誰かの欲望を満たすためなのか、なんらかの大義のためなのか、わからないが少なくとも自分のためではない。

人が戦争を起こしたりするのは、こういう場面に限られるような気がする。アーサー・ケストラーが口酸っぱく指摘するように、皆が大義のために奉仕するとき、悲劇が起きる。一般的にイメージされるのとは異なり、ナチスに加担した人々は強欲な悪魔ではなかった。わがままで自己中心的な人物が戦争によって庶民の命を奪うような事態はほとんどあり得ないのだ。

では、そうならないためにはどうすればいいのか?

僕の結論はこうだ。誰しもが自分のわがままや願望、やりたいことをひたすらに優先する社会でなければならない。

つまり、カントの定言命法を少しだけ言い換えるべきなのだ。自己を手段としてではなく、目的として捉えよ、と。

そんな社会はトラブルだらけになると人は言うだろう。だが、人は核爆弾を落としたり、川に汚染物質を垂れ流したりすることを欲望することは稀である。というかほとんどあり得ない。仮にあなたの手元に核ミサイルの発射スイッチがあって、それを発射すれば毎日100人の処女と満漢全席が用意される宮廷を与えられるのだとしても、ボタンを押す人はほとんどいないだろう。

多くの人は誰も傷つけないことを欲望するし、人の役に立つことを欲望する。

人を傷つけるとこちらも傷つく。人に優しくするとこちらも嬉しくなる。これは人間なら誰しも抱く普遍的な感情ではないだろうか。電車で年寄りに席を譲り損ねてモヤモヤするのは、オナニーできない状況で好みのエロ広告を見てムラムラするのと同じである。つまり、オナニーと同じく、あなたは善行を求めているわけだ。

カントが見落としているのはこの点である。カントの目には人間は、命令されなければ他者を目的として扱うことのないどうしようもない奴らとして映っていたらしい。そうではない証拠はカントの身の回りにもいくらでも転がっていただろうに。

とはいえ、他者の支配を欲望する人もこの世界に存在する。では、「自己を目的として扱っていいんだよな? なら、俺が他人を支配したいという欲望に忠実に行動しても、それも自由だよな? ひゃっほぅー!」と、権力欲の強い人間が思う存分に権力を追求しようとすればどうなるだろうか?

心配ない。なぜなら、誰もが自己を目的として扱うならば支配に屈する人はいなくなるからだ。結局、支配を欲望してあれこれ策を練っても徒労に終わる可能性が高まる。

そんな社会なら、誰かを支配するよりも、ドラクエをやったり、公園の掃き掃除をやったりする方が遥かに楽しいはずだ。

みんながやりたいことをやる。欲望のままに生きる。そうすれば、平和である。もし、利害が衝突しても、そっとその場を離れれば済む。大義に奉仕させられるのでなければ、自分が「嫌だ」と思えば逃げれば良いのである。

(そのような社会では「役に立つ」という言葉が「自分のやりたいことをやる」という意味でも使用されるようになるはずだ。)

そして、そのような社会を可能にするのがベーシックインカムであり、アンチワーク哲学であると僕は考える。詳しくはこちら。

カントよ。お前の時代はとっくに終わった。これからはアンチワーク哲学の時代である。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!